an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリストを「気化」する者に注意せよ

 キリストの十字架による贖いを経験せずに、私たち罪びとが神の永遠の命を持つことができると教える人がいる。キリストの死と復活に対して一つになることなくしては、誰も幼子のようにはなれないし、御子の霊を受けることはできない。

 キリストを宣べ伝え、キリストの人格と働きにすべての栄光を帰さない人は、たとえその霊性が魅力的でも、またその教えが深くとも、そしてどんなに謙虚を装っても、その根源には十字架を否む頑迷な自己愛が潜んでいる。

Ⅱヨハネ1:7-9

7 なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。 

8 よく注意して、わたしたちの働いて得た成果を失うことがなく、豊かな報いを受けられるようにしなさい。 

9 すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。 

 「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しない」とは、神の知恵としてのキリストは受け入れ、それを情熱をもって宣べ伝えるが、私達罪びとの救いのために、キリストが肉体をもって身代わりの死を通らなければならなかったという真理からは目を背ける。キリストを思想的哲学的真理として「気化」させているので、他の宗教や哲学と混合させ易く、実際「一つの宇宙的真理」として語られる。非常にスマートに聞こえるが、しかしそこで語られているキリストは、聖書が啓示する救い主イエス・キリストとは似て非なるキリストである。

 「よく注意して」。本当に注意が必要である。