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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

聖書を愛する生き方

ハバクク1:5

諸国民のうちを望み見て、驚け、そして怪しめ。わたしはあなたがたの日に一つの事をする。人がこの事を知らせても、あなたがたはとうてい信じまい。 

 

使徒13:41

『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである』」。  

 この二つの聖句、一つは預言者ハバククが受けた託宣、もう一つはパウロがピシデヤのアンテオケの会堂で語ったときに、そのハバククの言葉を七十人訳から引用したものでる。残念ながらどちらの聖句も、しばしば文脈から切り離された形で説教に「利用」されている。ホセヤ6:1-3と同様、その前後にある、不従順や表面的信仰に対する神の裁きという文脈を無視して、「祝福の約束の聖句」として扱われてしまう。つまり、「わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである」という言葉を、「神が私達に対して想像できないような祝福を備えておられる」と「解釈」してしまうのである。確かに、神の働きは人間の人知を超えたもので、私たちの卑しい損得勘定や止め処もない想像によって縛ることはできないものである。しかしそのことを伝えたいのなら、聖書には数々の明確な聖句が存在する。

 「主張が聖書的ならいいんじゃない」とプラグマティックに考える人もいるのは知っている。帰納的説教だけでなく、演繹的説教もあったっていい(この記事もどちらかというと演繹的である)。しかし、聖書をこよなく愛し、日々その前で跪き、聖霊の光を求めながら真摯に命のマナを集めている指導者の生き方が、如何に多くの人の、困難や迷いの時の励ましや慰めとなっているかもよく知っている。その人は、自分がどれだけ聖書を愛しているかなど語らない。しかし、その愛はあらゆる面に明確に現れ、周りの人にはすぐわかることなのだ。ある人々は、その生き方を「盲信的」と卑下するかもしれない。またその生き方から出てくるメッセージを快く受け入れないかもしれない。しかし彼ら自身も、隣でアドバイスや励ましの言葉をかけてくれる人が誰もいない時、周囲の人に失望した孤独の時に、ふと一人で聖書を開き、膝をかがめて神の光を待つようになるのだ。

詩編1

1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。 

2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。 

3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。 

4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。 

5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。 

6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

 

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