an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ロトのことも思い出しなさい(3)恐れに蝕まれた心

創世記19:17-20

17 彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にをのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。 

18 ロトは彼らに言った、「わが主よ、どうか、そうさせないでください。 

19 しもべはすでにあなたの前に恵みを得ました。あなたはわたしの命を救って、大いなるいつくしみを施されました。しかしわたしは山まではのがれる事ができません。災が身に追い迫ってわたしは死ぬでしょう。 

20 あの町をごらんなさい。逃げていくのに近く、また小さい町です。どうかわたしをそこにのがれさせてください。それは小さいではありませんか。そうすればわたしの命は助かるでしょう」。

  ロトが何を基準に「わが主よ、どうか、そうさせないでください」と言ったのだろうか。背後から迫ってくる災いに対して、山までの道のりが長過ぎると判断したのだ。しかし、ロトはその災禍がどのくらいのスピードで迫っているか、後ろを振り向いて確認したわけではなかった。あくまで彼自身の判断であった。不思議なことにロトはこの時点で、自分に対する神のめぐみと大いなる慈しみを自覚していたことである。「しもべはすでにあなたの前に恵みを得ました。あなたはわたしの命を救って、大いなるいつくしみを施されました」(19)。しかし、神が同じ恵みと慈しみをもって、自分が山まで到達するまでに命を守ってくれるということを信じていなかった。だからこそ、目の前に長く続いている登り道をみて、目に入った小さな町を選んだのである。ロトの判断が信仰から来るものでなかったことは、その後のロトの不安定な行動を見れば理解できる。

創世19:30

ロトはゾアルを出て上り、ふたりの娘と共に山に住んだ。ゾアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘と共に、ほら穴の中に住んだ。 

 「あの町をごらんなさい。逃げていくのに近く、また小さい町です。どうかわたしをそこにのがれさせてください。それは小さいではありませんか。そうすればわたしの命は助かるでしょう」と言っていたのに、いざ町へ行ってみると、何が原因かわからないが、恐ろしくなって町から出て、娘たちと洞穴に身を隠したのである。ソドムという、後の世代に語り継がれるほど邪悪な町に住んでいたロトは、何に怯えていたのだろうか。私は、ロトが「神の裁き」が自分にいつ降りかかってくるか、という思いに、ビクビクしながら生きていたと考える。自分が住んでいた町に突然、裁きの火が降りかかってきたのである。ゾアルに住んで、同じことがまた突然起こらないと誰が保証できただろうか。

Ⅰヨハネ4:16-18

16 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。 

17 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。 

18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。

 ロトの妻は、後ろを振り向いて塩の柱になってしまった。しかし、ロトは前を見続けたものの、信仰によって見ず、自分の判断によって選択した。神の恵みと大いなる慈しみに委ね続けなかったゆえに、神の愛は全うされず、恐怖が彼の心を「洞穴の中に」閉じ込めてしまったのである。

 この世の成り行きは、聖書の預言通りになるだけである。「山の頂き」までどのくらい道が残されているかなど、誰にも知ることは許されていないのである。だからこそ、もし私たちがイエス・キリストの恵みと父なる神の大いなる慈しみをすでに経験したのなら、完全な愛の啓示であるイエス・キリストとその十字架を見続けようではないか。私たちのうちに、その愛が全うされ続けるために。私たちの心が恐れに蝕まれないように。

(4)へ続くhttp://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/07/15/045426