an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「あるいは」「かもしれない」という危ない道

使徒8:22

だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心にいだいたことが、ゆるされるかも知れない。

 この言葉は、サマリヤのシモンに使徒ペテロが語った戒めの言葉である。シモンは、以前は人々を驚かすような魔術を行い、自分が偉大なものだと自慢していた(8:9-11)。そんな彼も、伝道者ピリポがイエス・キリストを宣べ伝えると、その福音を信じ、バプテスマを受け、いつもピリポと一緒にいて、ピリポがしるしと素晴らしい奇跡を行うのを見て驚いていた(8:13)。 

 しかしその後、ペテロとヨハネがエルサレムから下ってき、彼らが人々に手を置くと聖霊のパプテスマを下っているのを見て、お金と引き換えにその賜物をくれとペテロに懇願した。それに対してペテロは、

使徒8:20,21

20 おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。 

21 おまえの心が神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない。 

と、非常に厳しい言葉でシモンを戒めた。そして冒頭の聖句である。私がもしシモンの立場だったら、聞いて震え上がるだろうと思う表現を使っている。「あるいは」、「ゆるされるかも知れない」。按手すれば聖霊が下ってくるような啓示と確信と力に満ちたペテロが、「あるいは」「かもしれない」と言っているのである。「お前は神の前で罪を犯したが、信じて祈れば必ず赦される」と、宣言してはいないのだ。ここには、現代の福音主義教会に見受けられる、背教の「働き人たち」が互いに罪を庇い合うような忌々しい霊など全くない。聖霊の賜物を金で買えると考え、聖霊を侮ったシモンに対して、ペテロは神の前における現実に従って戒めた。

マタイ12:30-32

30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。 

31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。 

32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。  

マルコ3:28,29

28 よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。 

29 しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。

 「聖霊を汚す言葉」「聖霊に対して言い逆らう者」は、「赦されることなく」、「永遠の罪に定められる」と言っている。聖書はイエスを信じる者が、全ての罪を赦され、永遠の救いを与えると明確に約束しているにもかかわらずである。「聖霊を汚す言葉」や「聖霊に対して言い逆らう、つまり反抗する者」は、罪の赦しの福音の真理を阻み、拒否するからだ。イエス・キリストについて証しする聖霊の働き(ヨハネ14:26;15:26)を拒んだら、どのようにして彼のことを霊的に知り得ようか。私達罪びとの現状と救いの必要を示してくださる聖霊(ヨハネ16:8)なくして、どのようにして罪の赦しを叫び求められるだろうか。真理に導く聖霊(ヨハネ16:13)なくして、どうしたら偽りと失望のラビリンスから脱出できるのか。神の愛を無限に注ぐ聖霊(ローマ5:5)なくして、どうして神の愛を実感できるだろうか。聖霊に対して言い逆らう者は、これらのすべての恵みを拒否し、それを頑なに拒否し続けるがゆえに、赦される可能性を自ら踏みにじってしまっているのである。ヨハネはそれを「死に至る罪」と呼び、「死に至ることのない罪」と区別した。

Ⅰヨハネ5:16,17

16 もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。 

17 不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある。 

 どのようなクリスチャンでも地上で生きている限り、毎日罪を犯してしまう。もし「自分は罪がない」「罪を犯さない」というようなことをはっきり言わないまでも、ほのめかすようなものがいたら、一度忠告して彼から遠ざかりなさい。偽りものであり、真理は彼(彼女)のうちにはなく、神を偽りものとするものだからである(Ⅰヨハネ1:8,10)。ただし、私達はこの自分の罪の状態に安住させるような誘惑にも注意しなければならない。その誘惑は、正面から襲ってくる迫害よりも危険で、蛇のようにこっそりと、少しずつ近づいてくるからである。その毒は良心を麻痺させ、二度と戻れない地点まで気づかれないよう誘い込もうとするからである。

へブル6:4-8

4 いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、 

5 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、 

6 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。 

7 たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込で、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。 

8 しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。 

  もしあなたが自分の魂の救いや罪の赦しに関して、「あるいは」「かもしれない」という不確実な道を歩いているのであれば、主の前に悔い改めて、十字架の血によって清められるため、主に心から祈らなければならない。