an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

しゅうきょうってナニ?

「宗教は悪だ」とバス内で幼児に教えていた親の話

http://anond.hatelabo.jp/20130708133350より引用)

 

「ねーお父さん、しゅうきょうって何?」

「宗教はね、生活とかをめちゃくちゃにして、よくない考えを押し付けてだめにしちゃうことなんだよ」

幼児は三歳?四歳?五歳?とか小学校一年とかそこらへん。バスで後ろの席だったのでじろじろ見れなかった。

父親は普通のサラリーマン風。場所は休日の、政令指定都市の中流住宅街を通るバスの車内での出来事。

なんかうまく表せないんだけど、すごくもやもやした。

お父さんよ、あなたが言ってるのはカルトとか新興宗教のことだろう…

それを十把一絡げにしてはいけない。

最近はこういう思想の人が多いんだろうか。

文化とか歴史とか芸術とか音楽とか文学、国のなりたちとかを学ぶうえで宗教は切ってもきれない関係にあると思うのだけれども

それと幼児の問いかけは無関係なのだろうか?

問いかけにうまく答えられない父親の思考停止としかとれない答えに非常にもやっとした。

うまく言い表せないのだけれども。

それとも自分のほうが間違っているのだろうか? 

  • 「日本にはニンジャはいるのか」
  • 「ブルース・リーはお前の親戚か」
  • 「トウキョウは中国の首都か」
  • 「ルーマニアと日本では、どちらがイタリアに近いんだ」
  • 「日本ではみんな犬を食べるんだろう」
  • 「日本人の女のひとは皆、ゲイシャなのか」
  • 「女の子は皆、小さい木の靴を履いているんだろう」(纏足のこと)
  • 「日本ではみんな紙の家に住んでいるんだろう」

 これらの質問は、私がイタリアに留学した始めたばかりの頃に、頻繁に受けていた「拷・問」である。最近はさすがに少なくなったが、当時は、真剣なのか、冗談で質問されているのかわからず、思わず相手の目を凝視したものだ。その質問が真面目に問われたことを知った時の驚き、あの麻痺したような「間」は、今思うと懐かしくて思わず笑ってしまう。イタリア人やイタリア語をよく知らなかったこともあって、ウィットの効いた答えどころではなかった。

 逆に日本人の方々にイタリアのイメージを聞くと、「ピッツァ」「スパゲッティ」「カンツォーネ」「サッカー」とか、答えになっているようでなっていない回答が、沢山出てくるのである。

 自分が生活している空間や文化から遠く離れた国に関する知識は、ごく限られたもので、たとい知識をそれなりに持っていたとしても、それで「知っている」とは言えないのである。やはり実際にその国に行ってみて、同じ空間に住み、食べ物を食べ、同じ時を過ごしてみて、やっと何かが見えてくるからだ。

 そう考えてみると、冒頭の子供の質問「しゅうきょうってナニ?」や、イタリア人たちの無邪気な「拷・問」は、「自分が知らないことを知りたい」「聞いたことを確かめたい」というシンプルな動機ゆえに、さも解ってらっしゃるかのような「大人の断定」よりも、はるかに真理に近いのだ。

エレミヤ33:2,3

2 地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる、

3 わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。 

ヤコブ1:5

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。