an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

イエスを知ること

ヨハネ8:28(口語訳)

そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。 

(新改訳)

「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、私が何であるか、…知るようになります。」

(新共同訳)

「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ…が分かるだろう。」

 この聖句の日本語訳はどれも解りにくいが、「ユダヤ人らがイエスを実際に十字架に架けたら、その時初めて、イエスが旧約聖書の中にその苦難の数々が預言されていた神のメシアであることを知りことになるだろう」という意味である。特に興味深い訳は新共同訳で、『私はある』という、主なる神が預言者モーセに啓示したご自身の名(出エジプト3:13,14)を明らかに考慮して訳している。

 同じ新共同訳において、この章の最後でも、イエス・キリストは文法上の正確さを無視して、「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言ったと訳されている。その結果、ユダヤ人たちは石をイエスに投げつけ殺そうとした(8:58,59)が、それはイエスが自分に対して神の神聖なる名前を使ったからであった。

 これらの聖句を合わせて考えると、非常に重要な事実が浮かび上がってくる。つまり、私達が本当にイエス・キリストのペルソナ、彼の神格的本質を知ることができるのは、私達がそれぞれ自分の罪が神の子イエスを十字架に架けて殺した、という生々しい真実を実感したときであるということである。

 この真理は、私の個人的な体験として証しできる。自分の罪が、罪のない神の子イエスを十字架に架けてしまったという、聖霊による強烈な啓示を受けるまで、超越的な創造主なる神の存在に関しては、確信していたし、また他の人にも説明したりもしていた。しかし、イエス・キリストはどうにも「収まりの悪い存在」で、口では「イエスのことを信じる」と言いながらも、実際はその「収まりの悪さ」に内心イライラするほど「余計な存在」であり、「重要なのかもしれないがよくわからない存在」であった。

 しかしある日、十字架に架けられたキリストが、聖霊によって私の心の中にはっきりと啓示された。そして、その十字架の死が「全人類の罪のため」というよりも、「私の罪」が原因でもたらされた、ということを実感し理解したとき、本当にその瞬間、初めてキリストがどの様な方であるか、という啓示を明確に受け取ったのである。

 このブログを読んでいる一人ひとりのかたが、本当にイエス・キリストを知ることができるように、心から願ってやまない。