an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

不条理な選択

ヨハネ5:2-6

エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。 

その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。 

それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕 

さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。 

イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。 

 主イエス・キリストは、大勢の病人、盲人、手足の不自由な人たちの中へ入って行った。その大勢の人々の中から一人の男、三十八年間の闘病生活で心が完全に「すり減ってしまった」一人を見出し、その病を癒した。スタジアムに設置され、スポットライトに照らされた舞台の上に男を連れてきて、カメラの前で癒したのではない。イエス自身が、空気の淀んだ薄暗い回廊に行き、自分の名前を告げることもなく、この男を癒したのである。

ヨハネ5:13-15

しかし、このいやされた人は、それがだれであるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと出て行かれたからである。 

そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。

 彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。

 しかも、イエスは群衆を避けて、その場からそっと姿を消した。癒された人の感謝も、人々の称賛も、奇蹟の説明を求めるインタビューも受けずに。しかし、イエスは本当の意味でこの癒された男の魂のことを思っていた。だからこそ、その後、「宮の中で彼を見つけ(新改訳)」て、個人的に彼に語りかけたのである。

「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。 

  イエス・キリストは、この男の弱さも完全に知っていた。罪の問題は、肉体の癒しだけでは解決できないこと知っていたのだ。その解決には、自分の十字架の死が必要であることを。

 彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。

 この癒しを受けた男は、なぜ宮から出て行ったのだろう。どんな責務を感じて、イエスから離れ、ユダヤ人達に所に行ったのだろうか。自分を三十八年間苦しめていた病から解放されたのに「今日は安息日だ。床を取り上げてはいけない」と非難した宗教指導者たちのところではなく、自分の魂のことを本当に愛し、心配してくれていた救い主の近くに留まっているべきだったのではないか。「もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」というイエスの戒告に気を悪くしたのだろうか。イエスのことを殺そうと企んでいたほどの宗教家たちが、イエス以上に自分のことを愛し、心配してくれるとでも思ったのだろうか。なぜ命の君、愛の源泉に背を向け、空虚な戒めと侮蔑、憎悪の吹き溜まりのところへ行ってしまったのだろうか。

 

 隠れた神の命より、大衆的価値観や宗教的権威を選ぶ。このような不条理な選択は、残念ながら今でもよく見かけるものである。

コロサイ3:1-4

このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。 

あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。 

あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。 

わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。