an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

あざけりの霊

Ⅱペテロ3:3,4

まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。

ユダ17-19

愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。彼らはあなたがたにこう言った、「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。

 広辞苑によれば「嘲る」とは、「馬鹿にして笑う」「見下げて悪口を言う」「嘲笑する」「興に乗じて勝手な口をきく」という意味である。ただ笑いやユーモアとは異なる、悪意を含む笑いもしくは態度である。

 聖書は終わりの日の特徴として、嘲る者たちの顕現を警告している。自分たちの不信心な欲情や欲望を正当化するために、神の言葉やそれに真摯に従おうと生きている人々を、「馬鹿にして笑い」「見下げて悪口を言う」のである。要するに、ある時点で神の言葉と自己の欲望との比較が意識の中で行われ、自己の欲望の方に価値観の選択がなされる。しかし、良心がその選択の正当性を暗に認めないから、もう一方の選択肢を卑下する必要がでてくるのである。笑いが伴うのは、悪意や卑下を包み込み、他人の共感を巻き込むための一つのパッケージだと言えるかもしれない。

 嘲りは終わりの日の特徴ではあるが、別に新しいものではなく、その根はサタンまで届くものである。サタンこそ光の天使として、神の御旨を知りながら、自分が神の地位に就くために、あえて神の御言葉に逆らうことを選択したからである。彼は自分の正当性など全くないことを知っている。また正面からは神と戦うことができないことも知っている。だから「あざけりの霊」によって、不信心な人々や疑い迷っている人々、堕落した人々を自分の方に引きずりこむのである。

 旧約聖書のイザヤ書には、嘲る人々が神の民を治める地位についていたことが書かれている。

イザヤ28:14-16

それゆえ、エルサレムにあるこの民を治めるあざける人々よ、主の言葉を聞け。 

あなたがたは言った、「われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ。みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない。われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくしたからである」。 

それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』」。

 自分たちの宗教的また社会的地位に甘んじ、偽りの保証によって「自分たちは大丈夫」と思っていたのだ。だからこそ、主なる神は救いの唯一の土台であるイエス・キリストを預言していたのであった。ペテロはこの預言を引用して、イエス・キリストの救いの福音を、当時のエルサレムの主だった権威者たち、つまりイエス・キリストをあざけり、罪に定め十字架に架けさせた人々に伝えた。

使徒4:11,12

このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。

 終わりの時のあざける人々の中には、宗教的指導者層にいる人々が含まれていることは厳然たる事実である。いや、むしろそのような「一段高い」立場にいる人々こそ、自分が他の人同様、恵みによって赦されている存在であることを忘れ、他人を見下げ、あざける誘惑により曝されているだろう。堕落した牧師や聖職者らの自己正当化を目的とした嘲りによって、どれだけ多くの羊が躓き、傷つけられてきたことか。

 しかし、どんなに嘲りや不義が蔓延ったとしても、神の「救いの岩」は揺るぐことはない。そして「それにより頼む者は、失望に終ることがない」(ローマ9:33)。

 偽ることのできない神の約束である。