an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリストの商人とキリストの僕

ピリピ3:10

すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、・・・

 

へブル11:24,26

信仰によって、モーセは、・・・キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。

 

 イエス・キリストに対する信仰と献金(ある人々は、信仰の証明だと主張している)と引き換えに、「幸せ」「喜び」「平安」「安定」「祝福」「成功」「富」を約束している「キリストの商人」、つまり「敬虔を利得の手段と考えている人々」(Ⅰテモテ6:5)にとって、パウロは語る人生の目的も、モーセの選択も、実に忌々しいものでしかないだろう。彼らは「キリストの栄光の様に等しくなる」ことを説き、信仰によって「エジプトの宝さえも手に入れることができる」と約束しているからである。

 彼らにとって、アハブ王に自分のブドウ畑を売ることを拒否したナボテの選択(I列王21)は、どのような価値があるのだろうか。「主はこう言われる」と預言していた四百人の預言者に反対し、一人だけ真理を語り牢獄に入れられたミカヤの信仰(Ⅰ列王22)は、損得を勘定に入れない愚の骨頂でしかないだろう。パウロがエペソで獣と戦ったことなど、何の益もない不合理なことであろう(Ⅰコリント15:32)。

 

マラキ3:14-18

あなたがたは言った、『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。 

今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない』」。 

そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。

「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。 

その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。 

 

「私たちが福音に仕えるのであって、福音が私たちに仕えるのではないのである」

(p85、『隠されたる神』山形謙二著、キリスト新聞社)