an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

言語を超えたイエス・キリストとの霊的交わり(1)

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 世界には正確には数え切れない程の言語があり、公用語だけでも百近くの言語があると言われている。その一つ一つの言語によって、神の子イエス・キリストは伝えられており、それぞれの言語によって人々は福音を信じ、実際の救いの経験をしている。それは神の聖霊自身が、イエス・キリストを啓示してくださるからに他ならない。

 つまりそれぞれの言語で宣べ伝えられる福音を通して、聖霊が「神としての言」(ヨハネ1:1-3)、「見えない神のかたち」(コロサイ1:15)であるイエス・キリストを啓示してくださり(ヨハネ15:26)、その啓示を信じる者は、イエス・キリストの真の知識を得ることができるのである。それはパウロが言っているように、「肉による知識」ではなく「霊による知識」である(Ⅱコリント5:16)。

 日本語や英語、イタリア語で聖書を読み、その内容をそれぞれの言語で説明できたとしても、その知識が「霊」に属するものとは限らない。洗礼者ヨハネはイエスについて「わたしはこのかたを知らなかった」(ヨハネ1:31)と証した。いとこ同士で幼い時から一緒に遊び、同じ言語で語り合っていたにもかかわらずである。ヘブライ語やアラム語で、イエスと直接面と向かって話してしていたユダヤ人の内、真にイエスのことを理解していたものはいったい何人いただろうか。誰も聖霊によらなければ、イエス・キリストのことを知ることはできないのである。

 しかしその限定的であった知識は、イエスが復活し、引き上げられ、神の右に座し、聖霊が全ての人の上に注がれたことによって、今や信じるすべての人が得ることができるようになったのである。それは「聖霊による交わり」のゆえである。

 異言による祈りの重要性はここにある。誰も理解できない言語による祈りに何の意味があるのだろうか。周囲の人に自分の霊性をほのめかすためだろうか。意味のない音の響きによって、恍惚的な雰囲気をつくり出すためだろうか。真の異言の祈りは、イエス・キリストとの霊的な交わりから溢れ出るものであり、祈りが霊の領域にあることのしるしである。

 私は「肉的な異言」を知っている。「習慣的な異言の祈り」も「人為的な異言の祈り」も知っている。しかし、そのような悲しい現実を経験し、見聞きしているがゆえに、霊的なイエス・キリストとの深い交わりに飢え渇いている。それには、言語的理性を超えた、心の底からあふれ出す、聖霊の「切なるうめき」が伴うことも知っている(ローマ8:26)。

(2)に続くhttp://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/06/14/114111