an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

人間の理念とイエス・キリスト

 最近、一人のイスラム教徒と一緒に聖書とコーランについて話す機会が与えられている。イタリアには非常に多くのイスラム教徒の移民(イスラム教徒と言っても、北アフリカ系、中東アラブ系、スラブ系、アジア系、など非常に多彩である)がいるが、彼らとオープンに話せる機会はそう多くない。

 彼は研究熱心で、インターネットを通して見つけてくる聖書に関する難題を矢継ぎ早に質問してくる。以前からよく知られていることなので、なるべく聖書を開いて説明するようにしているが、説明し得ないところに関しては「わからない」ということで、一番大事なテーマの話ができるようにしている。そう、一番重要なテーマは、イエス・キリストを知ることなのだ。

 コーランにはイエスが預言者の一人であることが書いてあり、また彼らはメシアが終わりの日に全世界を治める者として来ることを信じている。しかし、今回彼の話を聞いていて改めて驚いた教えがある。以前から知ってはいたが、実際イスラム教徒の口から説明を受けると、その教えの影響が如何に大きいかに驚くのである。

 それは何かというと、コーランはイエスの十字架の死を否定している、という点である。コーランによれば、イエスは十字架につけられる前に民衆には知られない形で他の者とすり替わり、イエスは死なずに天に引き上げられた、というのである(Sura 4,157; cf. 3,55)。この身代わりに十字架の上で死んだ者については、意見が分かれているようで、ゴルゴタの丘までイエスの代わり十字架を背負わされたクレネ人のシモンだったとか、ペテロだったとか、イスカリオテのユダであった、とか諸説があるようである。これらの人物については、聖書の記述を基に一人ひとりについて反論できるのだが、やはり一番の問題は「イエスが十字架の上で死ななかった」というコーランの主張である。

 しかし、この教えを少し深く考察すれば、重大な倫理的問題が潜在していることに気付く。この教えによれば、旧約聖書のメシアの苦難を自身に適用し、人々に自分はエルサレムで死ななければいけないと宣言していた男が、土壇場になって自分と瓜二つの男とすり替わり、実際には十字架の上で死ななかった。そのそっくりさんが身代わりにあの悍ましい十字架の死を味わった。そして死を免れた男は、三日後に弟子たちの前に現れ、いかにも死から復活したかのように振る舞った、というのである。

 イスラム教徒は、このような姑息な行為をする無責任な男を、モーセに並ぶ預言者として、やがて世を治めるメシアとして受け入れなければいけないのだろうか。このコーランの教えをベースに考えると、逆に十字架の上で身代わりになって死んだ、この「無名のそっくりさん」の方が、称賛と信頼、名誉に値しないだろうか。自分の責任でもない罪を背負っていたにもかかわらず全く悪態をつかず、十字架の苦しみを静かに耐え、自分を罵り呪う人々の赦しを父なる神に祈り、自分と同じ十字架に架けられていた強盗の一人に永遠の救いを約束したのだから!!!

 この教えには理想論的前提がある。「偉大なメシヤが人々に殺されるはずがない」「神はご自分の僕がそのような扱いを受けるのを許すわけがない」。

 

 使徒ペテロも一度、この理想論的前提で大変厳しい叱咤をイエスから受けた。

マタイ16:21-23

この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。 

 復活のイエス・キリストは、「こうでなければならない」「こうあるべきだ」「こんなはずはない」という人間の理念的前提(それは宗教や哲学、迷信、科学の衣をきていたりする)に囚われることなく、その「向こう側」におられる。

 

捜せば見出すだろう。

しかし捜さなければ見出すことはできない。