an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

レタスにヘアドライヤーをあてられますか。

 随分前のことだが、ある女性が料理の準備をするのに居合わせたことがあった。彼女はサラダを用意していた。レタスを丁寧に洗って、笊で水を一通り切ると、彼女は一枚のレタスの葉を笊から取り出し、白い布の上に置いた。完全に水気を取りたいと思ったのだろう。おもむろにヘアドライヤーを取り出し、慣れた手つきでレタスの葉を乾かし始めたのである。まさしく「青天の霹靂」という表現を使いたくなるほど、衝撃的であった。「濡れているものを素早く乾かす」。彼女の選択は確かに理に適っている。ただ、私にはとても想像できなかった合理性であった。

  一年程前、ある牧師の説教を聞いていて、ふと「この説教、どこかで聞いたことがある」と思い、家に帰り、保管しておいた数々のCDの中から思い当たる説教を見つけだし、聞いてみた。何と、引用された聖句、アプローチ、喩えとしてつかわれた挿話、教え、結論、さらに受けをねらった冗談まで全く同じなのである。この「発見」もまた、私にとっては衝撃的であった。否、驚きを通り越して、あきれてしまった覚えがある。

 しかし、説教している時のその大胆な話しぶりや表情を思いだし、「おそらくこの牧師は倫理的に問題があるとは感じておらず、むしろ自分が聞いて感動した説教を聴衆にそのまま伝えるのは理に適っている、と思っているかもしれない」という推論に至った。確かにオリジナルのメッセージは何度聞いてもすばらしく、挿入されたエピソードは大変勇気を与えてくれるものである。

 聖書のメッセージは神のもので、なおかつ全ての人に与えられているものである。出版されていない福音説教の著作権を求めるのものはいないだろう。だが、「何も知らない聴衆が祝福受ければそれでいいではないのか。それが説教の目的なのだから」「人々に配布するトラクトには、自分では書いていないメッセージが書かれているのと同じことだ」という弁解も、私には詭弁にしか聞こえない。

 学生時代に書いた卒論に不適切な引用があったといって、一国の政治家が罷免処分を受けるような一般社会の倫理観からすると、現代福音主義教会内でまかり通っている倫理のご都合主義的「合理化」は、危惧すべき要素であり、多くの逸脱行為を生み出した危険な「パン種」なのではないかと思っている。

 私はいまだレタスにヘアドライヤーをあてられない。