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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

福音主義神学の限界と福音の力

本を枕にースピリチュアルな日々

「有名牧師の逸脱行為」からの抜粋引用

http://amendo.exblog.jp/9526546/

 

福音主義神学の限界か?

 福音主義神学の限界もあるのではないか。成功、生産、発展には寄与するものの、外から襲ってくる人生の闇、暗夜、危機に対し、これまでの福音主義神学は、何の助けも見いだされないと、ある識者は指摘した。

 

 限界はそればかりではないだろう。自分の内にある暗闇を見つめ、自分を理解し、方向づけ、人生の行程を最後まで貫徹することを支える神学、霊性が見いだしがたいこと。また人間理解の浅さがあるのではないか。

 指導者の逸脱行為、加害行為は、今に限ったことではなく、過去、日本の近代史にあったことはうわさで聞く。(信徒はなおさらあるでしょうが。)

 

 まずは加害者からの謝罪、賠償、傷を負った被害者の救援が優先されるべきだろう。そして、関係指導者、専門家による問題の深い追求、研究、これからの貢献、が期待される。それは、日本のキリスト教会の弱さをも含めた、豊かで健全な質的成長に大きく寄与すると思われる。

 

 そして、人生の年代のステージに合わせた心的、精神的、肉体的、霊的満たしとは何か、渇きとは何か、また、どうそれを扱ったらよいかも、スピリチュアルな課題として浮上してくる。

 

(アンダーラインは引用者による)

 この主張は、「福音主義神学の限界」を指摘しているのであって、キリストの福音の限界を語っているのではない。確かにもし神学や伝道、牧会が、御子を十字架につけてしまう程の人間の罪深さを、真正面から対処する十字架の福音から離れてしまったら、イチジクの葉の腰巻(創世記3:7)、ソロモン王の金の盾(1列王記14:26,26)、水をためることができないひび割れた水溜(エレミヤ2:13)、漆喰で上塗りされただけの傾いた塀(エゼキエル13:8-15)、ぶどうの枝で作った木釘(エゼキエル15:3)、砂の上に建てられた家(マタイ7:26,27)しか提供できないだろう。

ローマ1:16

福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。 

 

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