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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「ひきこもり」のハバクク

ハバクク2:1(新改訳)

私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、

主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。

 預言者ハバククは前章においていくつかのの切実な問いかけを主なる神にしていた。

2節 主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。わたしはあなたに「暴虐がある」と訴えたが、あなたは助けて下さらないのか。

3節 あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、何ゆえ、わたしに災を見せられるのか。略奪と暴虐がわたしの前にあり、また論争があり、闘争も起っている。

12節 わが神、主、わが聖者よ。あなたは永遠からいますかたではありませんか。

13節 あなたは目が清く、悪を見られない者、また不義を見られない者であるのに、何ゆえ不真実な者に目をとめていられるのですか。悪しき者が自分よりも正しい者を、のみ食らうのに、何ゆえ黙っていられるのですか。

17節 それで、彼はいつまでもその網の獲物を取り入れて、無情にも諸国民を殺すのであろうか。

 神を信じる人々、また信じたいと求めている人々が投げかけてきた問いである。この世の不正や不義、苦悩、病気、不幸、艱難、死を前に、神は何をしているのか。神が正義の神ならば、なぜ悪がはびこるのを黙認しているのか。神が愛の神であるならば、なぜ救いの手を差し伸べないで無関心でいられるのか。

 他の誰よりも神を畏れていたヨブも苦難の渦中で同じような問いかけをせざる負えなかった。聖書には、エレミヤやアサフ、ダビデも同じような問いかけをしていたことが書かれている。

 バビロニアによるエルサレム陥落の時を前に、霊的凋落と腐敗の時代に生きていたハバククも、同じように神の前で不合理を嘆いていた。しかし、この預言者はただ単に神の前で疑問や不満をつぶやくだけに留まらなかった。自分の場所(わたしの見張所 口語訳)に入り、主なる神が自分の投げかけた訴えに対してどのように答えられるか、静まって待ったのである。

 多くの人がこの地上で起こることを見、無関心や不公平だと言って神を訴えたり、「神はいない」「神は死んだ」と断言したりする。ある人は権威ある人がそのように主張するのを聞いて鵜呑みにしたり、他の人は大多数の意見に同調し、さらに深くは考えたりする必要を感じないのかもしれない。神はそれをすべてご存じだが、それに対して裁いたりしない。しかし、その私たちの訴えに対して答えてくださるということを信じて、大衆のシュプレヒコールの中ではなく「自分だけの場所」、目先のことだけではなく「遠くまで見渡せる場所」に入って静かに待つ人は、どれだけいるだろうか。

マタイ6:6 

あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 

 ハバククが見張り所に入ると、主なる神は神に答えられた。

2:2-4

主はわたしに答えて言われた、「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。」 

 「義人はその信仰によって生きる」

 律法の義によってではなく、イエス・キリストを信じるその信仰によって受ける救いを現す一句として、新約聖書で三回引用され(ローマ1:17;ガラテヤ3:11;へブル10:38)、ルターの心を照らし宗教改革へと導き、多くのキリスト者を奮い立たせてきた啓示である。

 不正がはびこり、多くの人の愛が冷める、この終わりの時(マタイ24:12)を生きる私たちにとって、ハバククは貴重な証人である。