an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

十字架の言

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」マタイ16:24

 

 全ての人が何かに従っている。無意識であっても意識的であったとしても、絶えず何かに従って生きている。ある人は時の流行に、またある人は理想的な思想に、また他の多くの人びとは自己の野心や欲望に従って生きている。

 

 この主イエス・キリストの命令は「もし私についてきたいと思うなら」という前提条件がある。

強要ではない。私たちに選択する自由が与えられている。

 しかし、もし一人のキリスト者がキリストに従わないとしたら、従うに値するようなものが他に誰か、また何か、あるだろうか。宗教か、教派か、教会か、宗教的指導者か、自分自身か、肉か、この世か、それともサタンか。

 もし私たちが自らキリストに従うことを選ぶなら、自分を捨て、十字架を日々、負うのである。この十字架は、一般的に言われているような、私たちの人生の重荷や問題、困難を指すのでは決してない。十字架は、自己の死、復活したキリストに属さない全てのものの死である。そしてキリストに従うとは、御霊によって歩むことである。

 人が十字架を負ってキリストに従うなら、その人自身、周りの人々にとって明らかなメッセージになる。多くの言葉は必要ない。

 十字架は、週に1回、気が向いたときに首からぶら下げる飾りのようなものではあってはならない。十字架が私たちを釘付けるのであって、真の十字架は、私たちの全存在をもって負うものであり、私たちの全てを支配するものである。

 もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。ヨハネ12:26