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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

福音書は「贖罪」を語っていないのか(2)

4.洗礼者ヨハネの証言

ヨハネ1:29;36

29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。 

36 イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。 

  「主の道を備える」という明確な使命を旧約聖書の預言に基にもっていた洗礼者ヨハネは、イエスのことを「神の子羊」と呼んだとき、何か自分の思いつきのアイデアで語ったのだろうか。ただ単にアラム語における「しもべ」と「子羊」が同じ単語であるから、語呂合わせをして聴衆の関心を引こうとしていたのだろうか。イエスが愛に満ち、寛容で柔和だから、子羊というシンボルを選んだのだろうか。

 洗礼者ヨハネは、「世の罪を取り除く」という贖罪的要素を使い、イエスが全人類の罪のために身代わりになって命を捧げるために神に備えられた「子羊」であることを証した。その「身代わりの子羊」は、アベルの神に喜ばれた犠牲の子羊をはじめ、イサクの代わりにモリヤで捧げられた雄羊、エジプトの裁きの日にイスラエルの民を滅びから守った過ぎ越しの子羊、そして贖罪の日に捧げられていたいけにえ、そしてイザヤ53章の子羊のように黙って民のとがのために命を捧げる神のしもべなど、旧約聖書全体を貫く「民の罪のための身代わりの犠牲」の啓示全体を凝縮したものである。

 御子イエスのことを受け入れず、殺そうとしていた大祭司カヤパでさえ、実際に意味していることを理解できないまま、その「民の罪のための身代わりの犠牲」を預言したほどであった。

ヨハネ11:49-52

49 彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った、「あなたがたは、何もわかっていないし、

50 ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」。

51 このことは彼が自分から言ったのではない。彼はこの年の大祭司であったので、預言をして、イエスが国民のために、

52 ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると、言ったのである。

  そして使徒パウロはキリストの福音宣教において洗礼者ヨハネの証を挿入し、その証が自分の宣べ伝えていたメッセージに矛盾するどころか、それの重要な一部を為していることを証明している。

使徒13:16-39

16 そこでパウロが立ちあがり、手を振りながら言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を敬うかたがたよ、お聞き下さい。

17 この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び、エジプトの地に滞在中、この民を大いなるものとし、み腕を高くさし上げて、彼らをその地から導き出された。

18 そして約四十年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ、

19 カナンの地では七つの異民族を打ち滅ぼし、その地を彼らに譲り与えられた。

20 それらのことが約四百五十年の年月にわたった。その後、神はさばき人たちをおつかわしになり、預言者サムエルの時に及んだ。

21 その時、人々が王を要求したので、神はベニヤミン族の人、キスの子サウロを四十年間、彼らにおつかわしになった。

22 それから神はサウロを退け、ダビデを立てて王とされたが、彼についてあかしをして、『わたしはエッサイの子ダビデを見つけた。彼はわたしの心にかなった人で、わたしの思うところを、ことごとく実行してくれるであろう』と言われた。

23 神は約束にしたがって、このダビデの子孫の中から救主イエスをイスラエルに送られたが、

24 そのこられる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に悔改めのバプテスマを、あらかじめ宣べ伝えていた。

25 ヨハネはその一生の行程を終ろうとするに当って言った、『わたしは、あなたがたが考えているような者ではない。しかし、わたしのあとから来るかたがいる。わたしはそのくつを脱がせてあげる値うちもない』。

26 兄弟たち、アブラハムの子孫のかたがた、ならびに皆さんの中の神を敬う人たちよ。この救の言葉はわたしたちに送られたのである。

27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めずに刑に処し、それによって、安息日ごとに読む預言者の言葉が成就した。

28 また、なんら死に当る理由が見いだせなかったのに、ピラトに強要してイエスを殺してしまった。

29 そして、イエスについて書いてあることを、皆なし遂げてから、人々はイエスを木から取りおろして墓に葬った。

30 しかし、神はイエスを死人の中から、よみがえらせたのである。

31 イエスは、ガリラヤからエルサレムへ一緒に上った人たちに、幾日ものあいだ現れ、そして、彼らは今や、人々に対してイエスの証人となっている。

32 わたしたちは、神が先祖たちに対してなされた約束を、ここに宣べ伝えているのである。

33 神は、イエスをよみがえらせて、わたしたち子孫にこの約束を、お果しになった。それは詩篇の第二篇にも、『あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ』と書いてあるとおりである。

34 また、神がイエスを死人の中からよみがえらせて、いつまでも朽ち果てることのないものとされたことについては、『わたしは、ダビデに約束した確かな聖なる祝福を、あなたがたに授けよう』と言われた。

35 だから、ほかの箇所でもこう言っておられる、『あなたの聖者が朽ち果てるようなことは、お許しにならないであろう』。

36 事実、ダビデは、その時代の人々に神のみ旨にしたがって仕えたが、やがて眠りにつき、先祖たちの中に加えられて、ついに朽ち果ててしまった。

37 しかし、神がよみがえらせたかたは、朽ち果てることがなかったのである。

38 だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、

39 信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。

 

5.使徒パウロの証言:イエス・キリストが地上において宣べ伝えていた福音と使徒パウロが宣べ伝えていた福音は異なるという解釈をする人々は、まるで使徒パウロが自分勝手に贖罪論を基にした神学を作り出したと主張するが、それは聖書自身に啓示されている使徒パウロの主張とは異なるものである。

 キリストの贖いの死を思い出し、それに生きるための聖餐の教えを語るとき、その教えが「主から受けたことを、また、伝えた」と前提を述べているのである。 

Ⅰコリント11:23-25

23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、

24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

 実際にその言葉は、主イエスが最後の過ぎ越しの食事の時に十二弟子たちに語り、福音記者が書き記した言葉であり、旧約聖書の啓示を基礎としてもつものである。

マタイ26:27-28

27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。

28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

出エジプト24:8

そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。 

エレミヤ31:33-34

33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。

34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。

 もし使徒パウロが自分自身の宗教的野心や思いつきで「イエス・キリストから受けた啓示」とは反する「福音」を語っていたのであったのなら、以下のような強烈な呪いの言葉を神の御前で手紙に書き記すことはできなかっただろう。

ガラテヤ1:8-12

8 しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。

9 わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである。

10 今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。

11 兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。

12 わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。

 

(3)へ続く

福音書は「贖罪」を語っていないのか(3)

6.使徒ペテロの証言:福音書が「贖罪」について語っておらず、イエス・キリストの教えと使徒パウロの教えは矛盾するという説について検証しているが、それが聖書の啓示とは異なることを(1)(2)において考察した。特に(2)において、使徒パウロが主イエス・キリストから受けた啓示をそのまま福音として宣べ伝え、個人的な意思によって「贖罪論」を付け加えたのではないことを書いた。

 その使徒パウロが書いた手紙について、使徒ペテロの興味深い言及がある。

Ⅱペテロ3:15-16

15 また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。

16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。 

 もし使徒パウロが自分勝手に教理をねつ造し、各教会に手紙を書き送っていたと使徒ペテロが判断していたら、「私たちの愛する兄弟」とか「彼に与えられた知恵」など書くことはなかっただろう。特にペテロが同じ手紙の中で「偽預言者」や「偽教師」「権威ある者を軽んじる人々」「神の約束をあざける者」を非常に厳しい言葉で断罪していることを考慮すると、ペテロはパウロの教えに反対するどころか、むしろその霊的知識に対して尊敬の念を持っていたことは明らかである。

 実際、聖霊を受ける前は「メシアの苦難」という真理を受け入れることができず、イエス・キリストを人の思いで戒めさえした(!)ペテロは、自身の手紙の中で「キリストの死による贖罪の真理」を非常に美しい表現で書き記しているのである。

Ⅰペテロ1:18ー19

18 あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、

19 きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。 

 そしてその当時、「無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして」いたように、現在でも同じことが起きていることが、使徒ペテロが受けていた霊感の正当性を証明している。 

 

7.使徒ヨハネの証言

Ⅰヨハネ2:1-2

1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。

2 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

 使徒ヨハネはここで明確に、イエス・キリストが全世界の罪のための「贖いの供え物」(ἱλασμός hilasmos atonement, propitiation)と定義している。つまり私たちの罪に対する神の怒り、正当かつ神聖な裁きをなだめる供え物であるとして、律法に予型として啓示されている供え物であると解釈しているのである。

 「イエスが贖いの供え物」という真理が根拠にあったからこそ、ヨハネはその福音書の中で、十字架の上で息を引き取ったイエスの体について、過ぎ越しの子羊のいけにえに関する教えの成就として解釈しているのである。

ヨハネ19:33,36

33 しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。 

36 これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。  

出エジプト12:46

ひとつの家でこれを食べなければならない。その肉を少しも家の外に持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。 

詩篇34:20

主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。  

 

結論:使徒パウロの手紙を無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている、とペテロは書いたが、 実際、もし「イエス・キリストが人類の罪にために十字架の上で身代わりのなって死んだ」という真理が、父なる神が聖霊を通して人類に啓示した教えではなかったとすれば、罪びとが罪の赦しを受けることができる根拠が存在せず、救いの可能性をなくなるのである。イエス・キリストの贖罪論を否定する者が「自分の滅亡を招いている」と言えるのは、その者自身が救いの根拠を否定しているからである。そして当然の帰結として、彼らは人間の堕落を否定し、性善説を主張する。だがそれは御子の十字架の死を否定するだけでなく、父なる神が御子を地上に遣わしたことさえも無益なものとし、使徒パウロの証をはじめ、聖書の主張全体を否定するものである。

Ⅰテモテ1:15

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。

 ジェームス・デニーが『キリストの死』の中で記した通り、キリストの贖罪論を否定する神学は、聖書を否定する以外に「伝えるべきメッセージを何も持っていない」とはまさしく真実である。

 

参考書:

 

(4)へ続く