an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

委ねられている神の羊の群れに対する長老の責任

Ⅰペテロ5:1-6

1 そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。 

2 あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。 

3 また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。 

4 そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。 

5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。 

6 だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。 

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 老齢の使徒ペテロは、現代のトルコ領にあたる「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している」信仰者たちの間でそれぞれの地域集会の霊的指導者として選ばれていた長老たちに対して、イエス・キリストによって直接選ばれた十二使徒の一人としての権威を行使し「命令」することもできたはずである。しかし実際は、彼らと同じ「長老のひとり」として「勧め」ている。

 彼は明らかに、「やがて現れようとする栄光」「大牧者が現れる時」を意識していた。それはペテロ個人の使徒・牧者としての名誉などとは全く次元の異なる、王なる王、主なる主、永遠の神であるキリスト・イエスの栄光の現れに対する畏敬の念であり、晩年の使徒パウロの思いとも共通するものである。

Ⅱテモテ4:1-5

1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。 

2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。 

3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、 

4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。 

5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。 

 その畏敬の念は、地域集会の兄弟姉妹を「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れ」「ゆだねられた者たち」と呼んでいることにも表われている。それは大牧者である御子イエス・キリストが尊き犠牲によって贖い出した人々の集まりであり、長老たちはその霊的な世話を委ねられていたのである。

 その群れは、決して地域集会の指導者たちの「自分たちの賜物を証明する勲章」や「個人的所有物」ではなく、「使用人」でもなかった。ペテロが敢えて「神の羊の群れ」と記しているのは、大変意味深い。実際その群れは、三位一体の神によって贖い出された魂の集まりであったことは、以下の聖句に明確に示されている。

Ⅰペテロ1:1-2

1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、 

2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。 

 もし全ての信仰者が恵みによって三位一体の神の交わりの内に導き入れられており、その所有権も、主権も、神のものであるということを絶えず認識しているならば、地域教会の指導者たちが「嫌々」「組織の方針に従って」「私的利得のために」「信徒らの上に権力を振るう」という動機や態度に陥る危険性も少なくなるだろう。

 このような観点で以下の譬えを読むと、同じ僕仲間に対して権力をふるい、自分の任務を放棄し、卑しい利得のために主人の資産を浪費する悪い僕が、現代の教会に対する警告であることが理解できる。

マタイ24:45-51

45 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。

46 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。

47 よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。 

48 もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、

49 その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、 

50 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、

51 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。 

 この悪い僕は「自分の主人は帰りがおそい」と見くびって、主人の不在にかこつけて無責任な行動を取っていたが、神の恵みを受けた信仰者は、聖霊の継続的内在という恵みを受けている前提がある分、その責任ははるかに重いと言える。

ハデスにおいて(3)待ち焦がれていた信仰の義人たちの喜び

 旧約聖書が啓示するところのシェオル(ギリシャ語LXX訳ではハデス)において、「アブラハムのふところ」にいた人々は、ただ単に地上の生を終えた魂というだけでなく、信仰によって神の約束の成就を切望していた魂だったことを知ることは非常に重要である。

 彼らはその地上の生において、待ち望んでいたものを獲得することはなかった。しかし主なる神が必ずその約束したことを果たしてくださることを信じて、地上の生の最後の門を通過していたのであった。

へブル11:13-16

13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 

14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 

15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 

16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。 

へブル11:35-40

35 女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。 

36 なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。 

37 あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、 

38 (この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。 

39 さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。 

40 神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。 

Ⅰペテロ1:10-12

10 この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。 

11 彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。 

12 そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。 

 へブル11章において列記されているアベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブモーセなどの信仰の義人だけでなく、多くの預言者たちも、御子イエス・キリストの顕現と贖いのわざ、そして御子が治める神の国の到来を待ち焦がれていたのである。

 苦難の僕ヨブの叫ぶような信仰告白などは、最も明確なもののひとつではないだろうか。

ヨブ19:25-27

25 わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。 

26 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。

27 しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。 

 そして御子イエスは地上宣教において、ハデスで待機していたアブラハムが、御子が受肉して地上に遣わされたのを見て喜んだとさえ語った。

ヨハネ8:56

あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。 

  もしハデスにいたアブラハムの魂が、御子の地上顕現を見て喜んだというならば、御子が十字架の上でいのちを捧げ、そしてハデスで待機していた信仰者たちの魂を第三の天にあるパラダイスに引き上げるために、自ら遜ってハデスまで降りてきてくださった時の喜びは如何なるものであったろうか。

 だから以下のような聖句は、聖霊の光を通して、その贖いの喜びを感じ取りながら読むべき箇所でないかと思う。

エペソ4:8-10

8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」 

9 ・・この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。 

10 この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。・・ 

へブル2:9-17

9 ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。 

10 なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。 

11 実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。 

12 すなわち、「わたしは、御名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ、教会の中で、あなたをほめ歌おう」と言い、 

13 また、「わたしは、彼により頼む」、また、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは」と言われた。

14 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 

15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。 

16 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。 

17 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。

 また通常、解釈が難しいと言われている以下の箇所も、ハデスに下った御子が信仰の義人たちを連れてパラダイスに引き上げる際に起きた栄光の喜びが、不信仰者たちにとって「裁きの宣告」となったことを考慮すると、よりわかりやすいのではないだろうか。

Ⅰペテロ3:18-20a

18 キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。 

19 こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。 

20a これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。

ハデスにおいて(2)御子の死

ハデスにおいて(1)御子のまなざし - an east windowにおいて、御子イエス・キリストが、「アブラハムのふところ」にいるラザロと、「ハデス」というところで炎に包まれ苦痛に悶える金持ちの男のことを見て、描写していることについて書いた。

 そしてその二つの「場所」が、「大きな淵」と呼ばれるもので行き来できないかたちでで分離していることも見た。

ルカ16:23;26

23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』 

25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。 

26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

 しかし御子のこの説明以前の旧約聖書の啓示においては、「アブラハムのふところ」と「ハデス」の分離というのは示されておらず、ただヘブル語で【שאול Sheol シェオル】と呼ばれていた「死者がいる国」の存在が啓示されていた。そしてその「シェオル」は、旧約聖書ギリシャ語訳において「Ἅιδης ハデス」と訳されていた。

 ちなみに旧約聖書においてこのシェオルには定冠詞がつかわれていないことから、シェオルは固有名詞であったと思われる。

創世記37:35

子らと娘らとは皆立って彼を慰めようとしたが、彼は慰められるのを拒んで言った、「いや、わたしは嘆きながら陰府に下って、わが子のもとへ行こう」。こうして父は彼のために泣いた。 

民数16:30-33

30 しかし、主が新しい事をされ、地が口を開いて、これらの人々と、それに属する者とを、ことごとくのみつくして、生きながら陰府に下らせられるならば、あなたがたはこれらの人々が、主を侮ったのであることを知らなければならない」。 

31 モーセが、これらのすべての言葉を述べ終ったとき、彼らの下の土地が裂け、 

32 地は口を開いて、彼らとその家族、ならびにコラに属するすべての人々と、すべての所有物をのみつくした。 

33 すなわち、彼らと、彼らに属するものは、皆生きながら陰府に下り、地はその上を閉じふさいで、彼らは会衆のうちから、断ち滅ぼされた。

 しかし「陰府 よみ」と和訳されている【シェオル】は、ただ単に生物学的生命を終えた人間が葬られる物理的な場所を指しているわけではないことは、以下の聖句でも理解できる。

ヨブ14:13

どうぞ、わたしを陰府にかくし、あなたの怒りのやむまで、潜ませ、わたしのために時を定めて、わたしを覚えてください。 

詩篇139:8

わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。 

 実際、人間の魂は肉体の死を越えて存在するものであることを、御子自身が明示している。

マタイ22:31-32

31 また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。 

32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。

 「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形で語り、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と啓示している。

 

 そして御子イエスは、地上の福音宣教活動において、ご自身が苦難の死を通り、ハデスに行くことを預言していた。

マタイ12:40

ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

ヨナ2:1-2

1 ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、 

2 言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。 

 そして「人の子も三日三晩、地の中にいる」と預言していた御子は、十字架の上で「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と宣言された。

ルカ23:39-43

39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。 

40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。

41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。 

42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。 

43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。 

 悔い改めた強盗の言葉「あなたが御国の権威をもっておいでになる時」に対して、御子が「きょう」と答えているのは興味深い。つまりそれは「いつ来るかわからないような漠然とした将来」の慰めと希望ではなく、「今日」という非常に限定された時間のなかで、その信仰の報いがあることが強調されていたのである。しかも、当時の時間の概念からすれば、「その日の終わり」であり、「次の日の始まり」であった日没が数時間後に迫ったいたのである。

 御子が十字架の上で息を引き取り、葬られた後、復活までの期間のことを明確に知ることは難しいが、パラダイスと呼ばれている「アブラハムのふところ」に「降りていき」、そこで贖いのわざの勝利を宣言したと解釈できる聖句がいくつか存在する。

エペソ4:8-10

8 そこで、こう言われている、「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。 

9 さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。 

10 降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。 

Ⅰペテロ3:18-19

18 キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。 

19 こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。 

 この「宣べ伝えることをされた」と和訳されている動詞【κηρύσσω kērussō】は、「布告する、喧伝する」という意味を持ち、「王の重要な布告を使者が公に伝える」イメージである。

 そしてエペソの聖句が暗示しているように、ハデスの一部であった「アブラハムのふところ」を御子の臨在(詩篇139:8の完全な成就とも言える)の故に「パラダイス」と呼び、死からの復活と共に、そのパラダイスを第三の天まで引き上げたと思われる。

 だからこそ、使徒パウロは「第三の天にまで引き上げられ」と「パラダイスに引き上げられて」を並行節として表現しているのだろう。

Ⅱコリント12:1-4

1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。 

2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。・・第三の天にまで引き上げられました。 

3 私はこの人が、・・それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。・・ 

4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。 

 そして神の永遠の計画の完成の時、つまり新天地が創造される段階では、その「パラダイス」は、「新しいエルサレム」に昇華されるようである。

黙示録2:7

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。 

黙示録21:1-4

1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 

2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 

3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 

4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。 

黙示録22:2

都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。 

 そして反対にハデスは、神による最終的な裁きを受け、死と共にゲヘナとも呼ばれる「火の池」に投げ込まれることになる。

黙示録20:11-15

11  また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 

12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 

13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。 

14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。 

15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。 

 

(3)へ続く

 

ハデスにおいて(1)御子のまなざし

ルカ16:19-31

19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。 

20 ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、 

21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。 

22 この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。 

23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。 

24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。 

25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。 

26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。

27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。

28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。

29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。 

30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。 

31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。 

  この有名なエピソードは、当時の社会において「罪人」と呼ばれ、宗教的共同体からも疎外されていたカテゴリーの人々と、御子イエス・キリストが一緒に食事をしていたのを見て、今でいるところの保守派原理主義者であったパリサイびとや律法学者が批判していたのに対する、御子イエスの一連の教えの一部を成している。

 ルカ15章から続けて読むと、よりその状況がわかりやすくなるので、お勧めしたい。

ルカ15:1-3

1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。 

2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。 

3 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、 

 これらの一連の教えには、一貫して御子イエスの姿勢が読み取れる。それは彼が人として地上に遣わされた、その絶対的使命に直接関わっていたものである。

ルカ5:29-32

29 それから、レビは自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催したが、取税人やそのほか大ぜいの人々が、共に食卓に着いていた。 

30 ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。 

31 イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。 

32 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。 

ルカ19:10

人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。

 それはただ単に当時の社会的弱者や不道徳な人間として疎外されていた人々を憐み、共にいて彼らの人権を守るというものではなく、その人々の心を悔い改めに導き、罪を赦し、魂の永遠の救いを与えることによって、神の絶対的義を示すためであった。

 だからこそ、自分たちの義に固執し、他人を見下すことによってそれを誇示していたパリサイ人や律法学者の偽善を、御子は厳しく指摘していたのであった。

ルカ16:15

そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。 

 このような文脈において冒頭のエピソードを読むと、実に興味深い点が見えてくる。というのも、御子はラザロという、実際に御子と深い関わりのあった人物の名をあげ、そのエピソードの描写に対して、個人的な接点を与えているからである。つまり象徴的なたとえ話以上のリアリティーを、死後の世界という見えない世界の描写に与えているのである。実際、この記述を単なる譬え話と見なさず、永遠の神である御子が霊的にみたエピソードを描写している、という見解もある。

 その御子のまなざしは、アブラハムやラザロ、そして金持ちがそれぞれ地上の人生を終え、【ᾅδης hadēs】と呼ばれている「魂が肉体の死の後に行く場所」にいるのを見つめている。

 新改訳ではそのまま【ハデス】と表示されているが、文語訳や口語訳は【黄泉 よみ】、新共同訳では【陰府 よみ】と訳出している。このハデスはヘブライ語旧約聖書の【שְׁאוֹל she'ôl シェオル】に相当するもので、欽定訳などの誤訳(例:詩篇16:10)によって「地獄」と勘違いされることが多いが、実際には聖書が「第二の死」と呼ぶ、永遠の裁きの場である「火の池」とは異なることが、以下の聖句でも明らかである。

黙示録20:10-15

10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。 

11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 

12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 

13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。 

14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。 

 御子イエスはこのハデスを、地上の生を終えた魂が切願しても変更することのできない、不可逆的な状態であると描写している。

25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。 

26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。 

 ハデスにいる金持ちは、アブラハムに対して三度も懇願しているにもかかわらず、全て否定されている。

24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』 

27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。 

28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 

30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』 

 これは上述の「罪人を招いて悔い改めさせるためである」「失われたものを尋ね出して救うためである」という使命や神の義の啓示のために、御子がこのハデスにおけるエピソードを語っていた前提を考慮すると、重要な点が浮かび上がってくる。それは、悔い改めと救いのチャンスは地上に生きている間にしか与えられていない事、また肉体の死後、魂は神の義の前に不可逆的裁きを受けるという事が、逆説的に理解できるわけである。つまり、いわゆる「セコンドチャンス論」は、否定されているのである。

へブル9:26b-28

26b しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。 

27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 

28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。 

 

(2)に続く

 

全ての人のために死を味わわれた御子イエス

へブル2:5-10

5 いったい、神は、わたしたちがここで語っているきたるべき世界を、御使たちに服従させることは、なさらなかった。 

6 聖書はある箇所で、こうあかししている、「人間が何者だから、これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、これをかえりみられるのだろうか。 

7 あなたは、しばらくの間、彼を御使たちよりも低い者となし、栄光とほまれとを冠として彼に与え、 

8 万物をその足の下に服従させて下さった」。「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。 

9 ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。 

10 なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。 

 「すべての人のために死を味わわれるためであった。

 「死を味わう」何と強烈な表現だろうか。「味わう」と和訳されている動詞【γεύομαι】は、「食べる」という意味も持ち、「経験する」という含みをもつ。それは同じ節にある「死の苦しみ」とも通じる、御子イエスの霊、魂、肉体の全人格を巻き込む経験であった。

 それでは御子が「味わった」死とは、一体どのようなものであったのだろうか。

 御子は本来、肉体を持たない純粋な霊なる存在として、死ぬことができない存在であった。また絶対的正義と神聖さによって、ご自身のうちに死ななければいけない原因を持たない方であった。なぜなら、聖書は「罪の報酬」として、死を定義しているからである。

ローマ6:23a

罪の支払う報酬は死である。

  そして罪とは、神の律法を犯すことである。

Ⅰヨハネ3:4-5(新改訳)

4 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。  

5 キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。 

 御子は神の律法を犯したことがなく、自ら罪の責任を負う必要がなかったにもかかわらず、その報いであり、裁きである死を全ての人のために味わったのであった。

Ⅱコリント2:15

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。 

Ⅰテモテ2:6(新改訳)

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。  

 すべての人は罪を犯したゆえ、神のいのちと栄光を持ち合わせておらず、霊的死のうちに生きている。またそれに対するリアリティーを持つ事ができず、その意味を認識していない。

 例えば、世界の貧困地区には、ゴミ捨て場の中で生活している子供たちがいることが知られている。彼らはその劣悪な環境の中で、健康を害し、自分たちが日々生活している環境が不衛生であることに気付いているだろう。しかし、まさにそこで生まれ育っているだけに、その環境がどれだけ不衛生であるか、客観的に判断することができないのである。

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 自ら罪を犯したことがない御子イエスだけが、本来私たち罪びとが向き合わなければならなかった「死の本質」を完全に理解することができた。そして罪のない彼だけが、「全ての人のために、その死を完全に味わう」ことができたのである。

 

過去・現在・未来の自分を包み込む神の憐みと恵み

Ⅰテモテ1:12-17

12 わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。

13 わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。 

14 その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。 

15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。 

16 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。 

17 世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。  

 「わたしは、その罪人のかしらなのである。

 ここ数日、使徒パウロのこの告白の言葉が頭にずっと残っている。原語の動詞は、間違いなく現在形である。つまり、使徒パウロが手紙を書いていたその瞬間、彼は自分自身を「罪人のかしら」と認識していたのである。

 13節において、「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった」と、「信仰がなかった」「無知だった」過去の自分について語っているので、使徒が現在形を使っているのは、これらの過去の記憶のフラッシュバックによる自意識というより、まさにその瞬間、神聖なる神の前で自分は「罪人のかしらである」という明確な自覚があったのだろう。

 使徒パウロが「罪人のかしら」という言葉のうちに、どれだけの重みや深みを感じていたのか、私には想像する他ない。それは「神をそしる」とか「隣人を迫害する」、「不遜な態度をとる」という、明確に言葉で定義できるようなタイプの自覚ではなく、時間と空間に制限され、変化に晒された被造物として、最も根源的な魂の自覚だったのではないだろうか。それは老齢の使徒ヨハネがパトモス島において御子イエスの栄光を見た時、「その足もとに倒れて死人のようになった。」(黙示1:17)という反応と同質のものではなかったかと思う。

 しかしその根源的な自覚には、主の恵みと憐みが伴っていた。だからこそ使徒パウロは、「わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」と、自分の未来のアイデンティティーについても語ることができた。実際、「あわれみをこうむったのである」「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた」「わたしがあわれみをこうむったのは」「わたしに対して限りない寛容を示し」と何度も繰り返し、御子イエス・キリストにおける神の憐みと恵みを強調している。

 このように過去・現在・未来の自分を包み込む神の憐みと恵みを実体験していたからこそ、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という、実に簡潔に表現された真理を、自分の知恵知性でいじくり回すのではなく(パウロは、それを望むならできるだけの知性を十分に持ち備えていた)、「確実で、そのまま受けいれるに足るものである」と断言したのだった。

キリストの出現とその御国とを思い

Ⅱテモテ4:1-5

1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。 

2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。 

3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、 

4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。 

5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。  

 「キリストの出現とその御国とを思い」

 自分を取り巻く状況に変化の兆しがなく、むしろ悪化しているようにしか思えない時、まるで地平線の彼方まで続く砂漠を歩いているように感じる時、暗闇の中で一人佇み、どちらへ行けばいいかわからない時、信仰者には「一つの約束」を思う恵みが与えられている。それは、聖霊の働きによる。

 使徒パウロがこの手紙を書いた時、彼は牢獄に閉じ込められ、殉教が間近に迫っていることを自覚していた。また手紙の受取人であるテモテに対しても、状況が良くなるだろうと言って励ますどころか、さらに困難な時代が来ることを警告した。

 しかし使徒パウロの焦点は、そのような地上的近未来に合わせられてはいなかった。移り行く一過性のものでなく、変わることのない「キリストの出現とその御国」の光によって、自分が置かれている状況と果たすべき任務を見ていた。

 ユートピア的楽観主義によって近未来を想像する人もいるかもしれない。この世の不義不正に力を奪われて、川に流されている落ち葉のように惰性でしか生きられなくなっている人もいると思う。谷底に突き落とされ、これ以上落ちないために日々必死に抵抗している人もいるはずである。

 私たちがどのような状況にいようとも、主なる神の永遠の計画は着実に成就へ向けて進んでおり、その真理の光は全ての魂を照らそうと、今、静かに輝いている。

マタイ6:10

御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 

マタイ6:33

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。