「神の愛の力」に対する祈り
エペソ1:17-23
17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。
20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。
「神の力強い活動によって働く力」とは、「キリストを死人の中から復活させ、すべての支配、権威、権力、権勢の上にある神の栄光の座においた力」である。そのキリストのうちに働いた力は、信仰者にも働きかけ、もし私たちが求めるならば、絶大なものとして認識できる力である。
その力は、非人格的で機械的な力ではなく、実際に私たちの救いに対して働いた「神の愛の力」である。
エペソ2:4-6
4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――
6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
ガラテヤ5:6
キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。
このような祈りは、天上の真理を源泉とする、聖霊による祈りなので、必ず神に聞き入られ、また成就する祈りである。
様々な「ビジョン」や「ミニストリー」「プロジェクト」を打ち建てる以前に、この「神の愛によって働く力」を信仰によって真摯に祈り求めよう。
私達は自分の知っていることを語り、また自分の見たことを証ししている
ヨハネ3:11
よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。
わたしたち(複)は自分の知っている(複)ことを語り(複)、自分の見た(複)ことを証ししている(複)のに、あなたがたはわたしたち(複)の証しを受け入れない。
御子はここで使っている一人称複数形について、いくつかの見解がある。
- 尊厳の複数【pluralis majestaticus】
- イエス・キリストと洗礼者ヨハネ
- イエス・キリストと全ての預言者
- 三位一体の神
- イエス・キリストと弟子たち
- レトリックな複数(ヨハネ3:2のニコデモが使った「私たち」に対する対比か。)
判断の難しいところである。文脈的に考えると、テーマが御霊による新生と導きなので、ヨルダン川における御子のバプテスマの際に、御霊が御子の上に留まり、公的宣教活動が始まり、洗礼者ヨハネと御子イエス・キリストが神の国の到来と悔い改めについて語っていたことを暗示している可能性もある。
ヨハネ1:32-34
32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
多くのパリサイびとらや律法学者が、ヨハネの証しにも関わらず、それを信じて洗礼を受けることを拒んだことも、「あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない」という御子の言葉に通じるものがある。
マタイ21:32
というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
ルカ20:1-6
1 ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、
2 イエスに言った、「何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、わたしたちに言ってください」。
3 そこで、イエスは答えて言われた、「わたしも、ひと言たずねよう。それに答えてほしい。
4 ヨハネのバプテスマは、天からであったか、人からであったか」。
5 彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。
6 しかし、もし人からだと言えば、民衆はみな、ヨハネを預言者だと信じているから、わたしたちを石で打つだろう」。
ただ冒頭の言葉のすぐ後に、御子が自身のことを「天から下ってきた人の子」として、第一人称単数を使って語り、またその後、洗礼者ヨハネも自分と「天から来る者」御子とを分別して語っているのは意味深い。
ヨハネ3:12-15
12 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。
13 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。
14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。
15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
ヨハネ3:31-32
31 上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。
32 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。
「全てのものの上にある」方が「天から下ってき」、荒野の蛇のように(民数21:7-9参照)十字架の上で自ら命を捧げ、復活の後に、信じる者たちに聖霊を遣わした。
その聖霊によって土の器である私たちに「天上のこと」を啓示し、その無限の富を共有することを善しとされた。まさに、アメージング・グレースである。
エペソ2:1-10
1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。
4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――
6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。
8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
10 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
夜、イエスのもとにきて
ヨハネ2:23-25
23 過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。
24 しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、
25 また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。
3:1-15
1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
9 ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。
10 イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。
11 よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。
12 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。
13 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。
14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。
15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
「夜イエスのもとにきて」
もしニコデモがユダヤ人の指導者である社会的立場に満たされていたら、 夜中にイエス・キリストのもとに訪問しようとは考えなかっただろう。
彼がもし律法の教師であること、イスラエルの民を教えることができるほどの知識で満足していたならば、夜中にイエス・キリストのもとに訪問しようとは考えなかっただろう。
彼がもしエルサレムの神殿において過ぎ越しの祭の戒めを守ったことで満足していたならば、夜中にイエス・キリストのもとに訪問しようとは考えなかっただろう。
この通常ではありえない時間の訪問は、ニコデモの心の奥底にあった霊的必要性を暗示している。彼は他のパリサイ人や律法学者たちのように、昼間にイエス・キリストの所へ行き、彼の話を聞くこともできたはずである。いや、実際、同僚に紛れて遠巻きからイエス・キリストを観察し、話を聞いていた可能性も高い。
しかしそのようなコンタクトでは、彼の心の必要は満たされなかったのだろう。彼は個人的に御子イエスと話せる時間を選んだ。
だからこそ「全ての人を知っておられる」「人の心の中にあることを知っておられる」御子イエスは、一見無礼とも思える方法で、最も本質的・根源的なテーマである「霊によって新しく生まれる絶対的必要」を真っ直ぐ語ったのである。
先日ある兄弟が、「新しく生まれる必要」について自分の教会の講壇から聞くことがなくなった、と嘆いていた。しかし人の心を知りぬく御子も、人の心の霊的必要も、ニコデモの時代から何も変わっていないはずである。
ブログをはじめて5年
このブログをはじめて5月20日で5年経過し、6年目に入った。総記事数は1180、PV総数は373300。
はじめた当初に比べると更新のペースは落ちてきているが、去年の10月にツイッターを始めたことによって、ブログに取り組むスタンスが少し変化したようにも思える。
ツイッターに関しては、今後も慎重に進めていこうと思っている。
以下は、今年1年間における人気記事ベスト10。
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福音宣教の「舵取り」
使徒9:17-30
17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、
19 また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、
20 ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。
21 これを聞いた人たちはみな非常に驚いて言った、「あれは、エルサレムでこの名をとなえる者たちを苦しめた男ではないか。その上ここにやってきたのも、彼らを縛りあげて、祭司長たちのところへひっぱって行くためではなかったか」。
22 しかし、サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた。
23 相当の日数がたったころ、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をした。
24 ところが、その陰謀が彼の知るところとなった。彼らはサウロを殺そうとして、夜昼、町の門を見守っていたのである。
25 そこで彼の弟子たちが、夜の間に彼をかごに乗せて、町の城壁づたいにつりおろした。
26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。
27 ところが、バルナバは彼の世話をして使徒たちのところへ連れて行き、途中で主が彼に現れて語りかけたことや、彼がダマスコでイエスの名で大胆に宣べ伝えた次第を、彼らに説明して聞かせた。
28 それ以来、彼は使徒たちの仲間に加わり、エルサレムに出入りし、主の名によって大胆に語り、
29 ギリシヤ語を使うユダヤ人たちとしばしば語り合い、また論じ合った。しかし、彼らは彼を殺そうとねらっていた。
30 兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れてくだり、タルソへ送り出した。
使徒13:44-47
44 次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。
45 するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。
46 パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。
47 主はわたしたちに、こう命じておられる、『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。
使徒18:4-6
4 パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシヤ人の説得に努めた。
5 シラスとテモテが、マケドニヤから下ってきてからは、パウロは御言を伝えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちに力強くあかしした。
6 しかし、彼らがこれに反抗してののしり続けたので、パウロは自分の上着を振りはらって、彼らに言った、「あなたがたの血は、あなたがた自身にかえれ。わたしには責任がない。今からわたしは異邦人の方に行く」。
使徒28:23-28
23 そこで、日を定めて、大ぜいの人が、パウロの宿につめかけてきたので、朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた。
24 ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。
25 互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。
26 『この民に行って言え、あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。
27 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。
28 そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。
パウロが回心と同時に受けるようになった、ユダヤ人の同胞から憎しみや嫉妬、殺意、暴言、不信などが、結果的にキリストの証人となったパウロの使命のための「舵取り」の機能を果たしていたことを知るのは、とても重要だと思う。
教会を迫害していた者がキリストの恵みによって救われたという自覚があったパウロは、同胞の救いを心から切望していた分、その同胞が示していた否定的・攻撃的反応は、心を深く突き刺すようなものだったのではないだろうか。
私たちの信仰生活において、回心直後のパウロの行動のように、知識や知恵、経験が伴わない熱意が、必要以上に周囲を刺激してしまうことはよくあると思う。また聖霊の導きに遜る成熟した心をもってしても、やはり周囲の否定的・侮辱的反応は避けることのできないものだろう。
いずれにせよ、どのような状況においても、御子イエス・キリストの主権によって神の永遠の計画が確実に成就していると認める時、現実に傷ついている私たちの心も、不思議な平安によって包まれ、深いところから湧き出てくる復活の力によって、次の一歩を踏み出すことができるのである。
「穢れた場所」における真の礼拝
ヨハネ20:11-18
11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
マグダラのマリヤに関して福音書の記録はそれほど詳しくはないが、御子イエスに「七つの悪霊を追い出してもらった」という記述から、苦悩に満ちた過去を持つ女性だったことは想像することができる。
ルカ8:2-3
2 また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、
3 ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。
またガリラヤ湖西岸の小さな村マグダラの出身だと言われているが、当時、「塔」と言う意味の【migdal / magdal】という場所がいくつかあったことから、確かではない。
後世の人々がこの女性に「携香女」「亜使徒」「聖女」という称号を与えたり、様々な伝説で色付けたとしても、聖書の記述から伝わってくるこの女性は、苦渋に満ちた過去から御子イエスによって解放され、喜びと感謝の思いを心に秘めた、繊細で素朴な女性にように思える。
おそらく当時の社会においても最底辺層に属する女性だったのではないだろうか。同行していた御子イエスの母マリヤやヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、ラザロの姉妹であるマルタとマリヤと比べても、注目を浴びるような存在ではなかったかもしれない。
いずれにせよ、そのマグダラのマリヤが、律法による当時の考え方によれば「最も穢れた場所」の一つである墓場で、復活した御子イエスと個人的に話している記述は、励ましに満ちたエピソードではないかと思う。
そこは群衆が礼拝を捧げるために集まる神殿の中ではなかった。その神殿に仕えていた祭司たちから「神聖なる場所」と認められていた場所でもなかった。明け方の誰もいない「穢れた場所」であった。
そして彼女が復活した御子を認めた時に口にした言葉は、たった一言だった。
マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。
それは美しい旋律を伴う讃美歌でも、麗しい言葉によって飾られた祈りでもなかった。しかし、そのただ一言の「(私の)先生」という魂の叫びによって、マグダラのマリヤの心は主イエスと再び結び付けられたのである。
御子イエスが地上宣教において、社会から疎外されて生きていた一人の女性に、「真の礼拝者たちが霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」と語った時、墓場で御子に出会うことになるマグダラのマリヤのことも含まれていたと考えると、たとえ私たちが今、望んでいない場所や状況に一人取り残されていたとしても、生ける主なる神との深い交わりの時をもつことが許されている、という感謝と喜びに満たされる。
ヨハネ4:21-24
21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」