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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「終わりの時」に関する封じられていた言葉

ダニエル12:1-4

1 その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。また国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。

2 また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。 

3 賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。 

4 ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」。 

 「あなたは終わりの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい」。このダニエルに下された命令は、彼に啓示された幻や預言が、「終わりの時」をテーマにしていることを示している。

 ダニエル書の中には、何度か同じ命令が繰り返されている。

ダニエル8:15-26

15 われダニエルはこの幻を見て、その意味を知ろうと求めていた時、見よ、人のように見える者が、わたしの前に立った。 

16 わたしはウライ川の両岸の間から人の声が出て、呼ばわるのを聞いた、「ガブリエルよ、この幻をその人に悟らせよ」。 

17 すると彼はわたしの立っている所にきた。彼がきたとき、わたしは恐れて、ひれ伏した。しかし、彼はわたしに言った、「人の子よ、悟りなさい。この幻は終りの時にかかわるものです」。

18 彼がわたしに語っていた時、わたしは地にひれ伏して、深い眠りに陥ったが、彼はわたしに手を触れ、わたしを立たせて、 

19 言った、「見よ、わたしは憤りの終りの時に起るべきことを、あなたに知らせよう。それは定められた終りの時にかかわるものであるから。 

20 あなたが見た、あの二つの角のある雄羊は、メデアとペルシャの王です。 

21 また、かの雄やぎはギリシヤの王です、その目の間の大きな角は、その第一の王です。 

22 またその角が折れて、その代りに四つの角が生じたのは、その民から四つの国が起るのです。しかし、第一の王のような勢力はない。 

23 彼らの国の終りの時になり、罪びとの罪が満ちるに及んで、ひとりの王が起るでしょう。その顔は猛悪で、彼はなぞを解き、 

24 その勢力は盛んであって、恐ろしい破壊をなし、そのなすところ成功して、有力な人々と、聖徒である民を滅ぼすでしょう。 

25 彼は悪知恵をもって、偽りをその手におこない遂げ、みずから心に高ぶり、不意に多くの人を打ち滅ぼし、また君の君たる者に敵するでしょう。しかし、ついに彼は人手によらずに滅ぼされるでしょう。 

26 先に示された朝夕の幻は真実です。しかし、あなたはその幻を秘密にしておかなければならない。これは多くの日の後にかかわる事だから」。 

ダニエル12:8-9

8 わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった。わたしは言った、「わが主よ、これらの事の結末はどんなでしょうか」。 

9 彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。  

 「終わりの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい」ということは、その「終わりの時」は来るまでは、たとえその言葉を読んだとしても、理解することはできなかったということである。

 そして新約聖書の数々の啓示によれば、この「終わりの時」は、「御子の受肉からはじまり、十字架の死と復活、聖霊の注ぎ、大患難期を含む主の来臨の日までの期間」であることがわかる。

使徒2:17-21

17 『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。

18 その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。 

19 また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。 

20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。 

21 そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』

へブル1:1,2

1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、 

2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。 

Ⅰペテロ1:20

キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。

Ⅰヨハネ2:18

子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。

 実際、冒頭に引用した聖句には、大患難期とダニエルの民、つまりイスラエルの民の救いの期間に関する言及がある。

国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。

 先述のヨエルの預言は、一義的に主の地上来臨の前の大患難期におけるイスラエルの民の救いを啓示しているのだと思われる。

使徒2:20-21

20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。 

21 そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』

 ご自身が人となって地上に顕現したことにより、神の贖いの計画における「終わりの時」をスタートした方が、地上宣教の最後に、ダニエルの預言を引用しながら、まさに大患難期における選民の救いについて語っているの実に興味深い。

マタイ24:15-22;29-31

15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。) 

16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。 

17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。 

18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。 

19 だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。 

20 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。 

21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。 

22 もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。 

29 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。 

30 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。 

31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。 

 つまり聖霊を通してダニエルに終わりの時の幻を啓示し、「あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい」と命じた神の言である御子自身が、受肉によってその終わりの時の幕を開け、さらにその封じられていた言葉を聖霊によって明らかに説き明かしている、と言える。

 そのことは、使徒ヨハネがパトモス島で見た幻によって、さらに明確に啓示されている。

黙示録5:1-14;6:1

1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。 

2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。 

3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。 

4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。 

5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」 

6  さらに私は、御座・・そこには、四つの生き物がいる。・・と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。 

7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。 

8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。 

9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、 

10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」 

11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。 

12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」 

13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」 

14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。 

 

6:1

また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。 

 預言者ダニエルが「遠くから眺めるしかなかった」また「理解できなかった」終わりの時の言葉が、御子によって「開封」され、今まさにその終わりの時のなかに生かされている私たちに、聖霊が聖書を通して語りかけている、という事実は、本当に驚くべきことではないだろうか。

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黙示録における「天の聖所」と「地上の聖所」

黙示録4:1-2

1 その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。 

2 すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。 

黙示録6:9

小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。

黙示録7:14-15

14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。 

15 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。

黙示録8:1-5

1 小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。 

2 それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。 

3 また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。 

4 香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。 

5 御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。 

黙示録9:13

第六の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、一つの声が、神のみまえにある金の祭壇の四つの角から出て、 

黙示録11:19

そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた。また、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴と、地震とが起り、大粒の雹が降った。

黙示録14:15-18 

15 すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ、「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」。 

16 雲の上に座している者は、そのかまを地に投げ入れた。すると、地のものが刈り取られた。 

17 また、もうひとりの御使が、天の聖所から出てきたが、彼もまた鋭いかまを持っていた。 

18 さらに、もうひとりの御使で、火を支配する権威を持っている者が、祭壇から出てきて、鋭いかまを持つ御使にむかい、大声で言った、「その鋭いかまを地に入れて、地のぶどうのふさを刈り集めなさい。ぶどうの実がすでに熟しているから」。

黙示録15:5-6 

5 その後、わたしが見ていると、天にある、あかしの幕屋の聖所が開かれ、

6 その聖所から、七つの災害を携えている七人の御使が、汚れのない、光り輝く亜麻布を身にまとい、金の帯を胸にしめて、出てきた。

 黙示録から引用したこれらの聖句は、使徒ヨハネが流刑の島パトモスにおいて示された幻の中で、「天」と呼ばれている霊的次元に「御座」や「聖所」、「金の祭壇」、さらに「契約の箱」さえ存在していると啓示している。

 勿論、これらの要素はそれぞれ霊的な実体を使徒ヨハネが認識できるように聖霊によって示されたものであり、物質的なものではないことは明らかである。

 しかし以下の聖句に書き記されている「神の聖所と祭壇」「聖なる都」が、天的・霊的なものではなく、地上的・物質的なものであることは、いくつかの観点によって確認できる。

黙示録11:1-2

1 それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。 

2 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。 

 まず第一に、この幻を示された時点で、使徒ヨハネは天上でなく、地上に遣わされていた御使いのもとにいた。このことは、前の章において記されている。

黙示録10:1-3a

1 わたしは、もうひとりの強い御使が、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭に、にじをいただき、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようであった。 

2 彼は、開かれた小さな巻物を手に持っていた。そして、右足を海の上に、左足を地の上に踏みおろして、 

3a ししがほえるように大声で叫んだ。

黙示録10:8-10a

8 すると、前に天から聞えてきた声が、またわたしに語って言った、「さあ行って、海と地との上に立っている御使の手に開かれている巻物を、受け取りなさい」。 

9 そこで、わたしはその御使のもとに行って、「その小さな巻物を下さい」と言った。すると、彼は言った、「取って、それを食べてしまいなさい。あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い」。 

10a わたしは御使の手からその小さな巻物を受け取って食べてしまった。

 確かに使徒ヨハネは海と地との上に立っている御使のもとへ行き、巻物を受け取っているのである。よってこの時点では、使徒ヨハネは幻の中で天上ではなく、地上にいたことが理解できる。

 第二の理由は、天にある霊的な神の聖なる都は誰も「踏みにじる」ことなどできない故、ここでいう「聖なる都」は地上のエルサレムのことを指すと思われる。

 それはまた御子自身の地上のエルサレムに関する預言からも理解できる。

ルカ21:24

彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。 

 第三の理由は、御使に「神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい」と命令された直後に、使徒ヨハネは地上のエルサレムにおいて預言する二人の証人と、エルサレムに起きる大地震の啓示を受けていることである。

黙示録11:3-13

3 そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。 

4 彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台である。 

5 もし彼らに害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。もし彼らに害を加えようとする者があれば、その者はこのように殺されねばならない。

6 預言をしている期間、彼らは、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。さらにまた、水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている。 

7 そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。 

8 彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。 

9 いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。 

10 地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。 

11 三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がったので、それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。 

12 その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを、彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。 

13 この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。

 第四の理由は、11:7に記されている「底知れぬ所からのぼって来る獣」つまり「反キリスト」が現れ、エルサレムで預言している二人の証人を殺すことになるのだが、御子が「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば」という預言に対応しているからである。

マタイ24:15-16;21

15 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、

16 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。 

21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。 

 当然、この「聖なる場所」は天上の霊的場所を指していないのは明らかである。

 以上の理由から、11章に記されている神の聖所は、大患難期のエルサレムに再建されるであろう第三神殿について預言していると考えられる。

「第三神殿」と「神の宮」についての考察

 確かに新約聖書は、御子イエス・キリストを信じる者が個人として、さらに集合体として「神の宮」であることを明確に示している。

Ⅰコリント3:16-17

16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。 

17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである

Ⅰコリント6:19

あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。 

Ⅱコリント6:16

神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。 

エペソ2:21-22

21 このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、

22 そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。 

へブル3:6

キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。 

 しかし「私たちは神の宮である」と書き記した使徒パウロが、テサロニケ教会に対して書き送った書簡には、反キリスト(「不法の者」「滅びの子」)の出現に関連して、以下のように啓示している。

Ⅱテサロニケ2:3-8

3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。 

4 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。 

5 わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。 

6 そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。 

7 不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。 

8 その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。 

 使徒パウロは書簡を書いていた時に「すでに働いてい」た「不法の秘密の力」について、単にその霊的影響力がある時点で増大する、と預言しているのではなく、反キリストが一人の人間となって出現することを啓示している。だから4節の「自ら神の宮に座して」だけを霊的解釈し、「贖われた信仰者のうちに反キリストが座する」とするのは無理があるのではないだろうか。3節の「背教」と関連させることもできなくはないが、反キリストの支配は、「一度は贖われ、神の宮となっていたが、反キリストの惑わしによって信仰を捨てた者」だけでなく、「獣を拝むことを拒否する者以外の全ての人々」に及ぶことになるからである。

黙示録13:4-8;15

4 また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」。 

5 この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。 

6 そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。 

7 そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。 

8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。 

15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。 

 そして聖書には、御子の贖いを受け入れない人々を「神の宮」と呼んでいる箇所は存在しない。

 またもし「神の宮」を霊的にだけ解釈しなければならないのなら、以下の黙示録の啓示をどう説明し得るだろうか。 

黙示録11:1-3

1 それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。

2 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。 

3 そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。 

 「第三神殿の再建」を「神が望んでいる善なる御旨」と解釈する必然性はない。また第三神殿が再建されることを信じる者を「キリスト教シオニスト」と一括りすることはできない。

 主なる神が「国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時」を備え、その時を「イスラエルの民の救いの時」と定めているように、また「不法の者が出現し、神の御名を穢す」ことを許すように、本来御子イエスの尊き死によって不要となっているはずの神殿祭儀を人々が再開することを許すのも、主なる神の計画における、その時期の唯一無二の特殊性を示していることを考慮する必要がある。

ダニエル12:1

その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。  

黙示録17:17(新改訳)

それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。 

Ⅱテサロニケ2:9-12

9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、

10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。 

11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。 

 

御子イエス・キリストという名の充溢(6)

コロサイ1:15-20

15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。 

16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。 

17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。 

18 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。 

19 神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、 

20 そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。 

 ここには、御子の充溢の本質が啓示されている。それは万物(人間が認知できるものとできないものを含めた全て)の発端(御子にあって造られた)であり、動因(御子によって造られ)であり、目的(御子のために造られた)であり、秩序調和(万物は彼にあって成り立っている)である。

 私達の理性はどうしても御子の充溢に量的概念を適用しがちであるが、それは何よりも質的なものである。つまり膨張していくうちに希薄になって、構造と秩序を失うようなイメージではない。どの部分を観察しても、全体と同じような秩序と調和といのちが満ち満ちているのである。

 なぜならそれは神の存在そのものだからである。御子は、「見えない神のかたち」(口語訳)「見えざる神の形姿」(岩波訳)「見えぬ神の」(前田訳)「見えない神の姿」(新共同訳)であり、父なる神が「御子のうちに全ての満ち満ちた徳を宿らせ」たからである。

 今現在、私達の限られた知識や判断力には不条理にしか思えないことも、「十字架の血」つまり御子の死によって、神が万物を和解の領域に置いていると知ることは、本当に革新的なことではないだろうか。

そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。

  一人の信仰者は、彼/彼女自身疎外され、無に等しい存在でも、充溢したキリストのからだにあって、神の満ち満ちた力や調和やいのちを個人的に体験し、知ることができるのである。

御子イエス・キリストという名の充溢(5)

エペソ3:7-9

7 わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。 

8 すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、 

9 更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。 

 「聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたし」と「キリストの無尽蔵の富」 の鋭い対比がある。

 使徒パウロが宣べ伝えていたのは、「聖徒たちのうちで誰よりも祝福され、霊的なわたし」ではなかった。また「聖徒たちのうちで最もひどい迫害にあったわたし」について不平不満を書き連ねていたわけでもなかった。

 彼は肥大化した自己でも、憐憫の念に囚われた自己でもなく、ただキリストだけを見ていたからこそ、その無尽蔵の霊的富が「神の力」として働きかけ、また「神の恵みの賜物」として彼の心に与えられていたのである。

 自分がどのような者か、またはどのような者でないか、何をしたか、何をしなかったか、何を持っていて、何を持っていないか。このような問いかけに囚われがちな私達の心を、聖霊は「キリストの無尽蔵の富」に目を向けるように導いて下さっている。

御子イエス・キリストという名の充溢(4)

ルカ8:40-48

40 イエスが帰ってこられると、群衆は喜び迎えた。みんながイエスを待ちうけていたのである。 

41 するとそこに、ヤイロという名の人がきた。この人は会堂司であった。イエスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにと、しきりに願った。 

42 彼に十二歳ばかりになるひとり娘があったが、死にかけていた。ところが、イエスが出て行かれる途中、群衆が押し迫ってきた。

43 ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。

44 この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。

45 イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。

46 しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。 

47 女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。 

48 そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ。」

 ここで主イエスは「私は、私を触った者に癒しの力を注ぎ出した」とは語っていない。御子のうちに満ち満ちていた力が出て行ったのを感じた、というのである。当然、御子はこの貧しい女性の必要を完全に知っておられたはずだが、御子の言葉には、まるで彼の意思を越えて力がこの女性に注ぎ出たような印象である。

 確かに御子は大変緊急な事態にいた。会堂司のヤイロの娘が死にかけており、一刻の猶予も許されない状態だった。普通の人間だったら、その緊迫した事態を対処するために全て意識を注ぎ、他の事には気が回らなくなるところである。

 しかし無限の神の恵みは、人間が置かれている状況の質によって変化することはない。つまり状況が切迫しているからそこに集中して注がれ、他のところには制限される、というような性質のものではないのである。神の恵みは御子の内で途切れることなく充溢し、御子を通して絶えず「外へ向かって」「低きに向かって」豊かに溢れ出ている、ということである。

ヨハネ1:14、16

14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。 

16 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。 

 そして、もしこのエピソードの長血に苦しんでいた女性のように、御子に対して心を開き、助けを求める手を差し伸ばすのなら、誰に対しても、どのような状況においても、その恵みの力は豊かに降り注ぐことを示している。

 溢れ出る泉から水を汲み飲んだ人は、決して「自分が地中から水を汲みだしたから飲めたのだ」とは考えないだろう。彼はただ単に、溢れている水にコップを差しだし、その水を飲んだだけである。同じように、私達が信仰によって神の祝福を「引っ張り出す」のではない。すでに豊に溢れ出している祝福を、信仰によって認め、受け取るのである。

 また「私より神様の愛や力を必要としている人はたくさんいるから、まずその人たちのために祈ります」という、一見とても謙遜で思いやりのある考え方をする人がいるが、御子のうちに充溢する力は、そのような「人間的な配慮」が全く必要ない程、豊かであり、私達が「それほど重大ではない」と自分で勝手に判断する状況の本質を癒し、救うことができるのである。

御子イエス・キリストという名の充溢(3)

ヨハネ1:4-5;9

4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 

5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 

 改めて考えみると、「光」という実体は「恵みと真理に満ち満ちた御子イエス」を表現するのに最も相応しいものではないだろうか。例えば光源としての太陽は、自ら光は放ち続けている。地球がどの位置にいようと、また自転の動きとは関係なく、光を周囲に放ち、誰もそれをとどめることはできない。まさに自らの内側から溢れ出すように光を放射し続けているのである。

 勿論、全ての物質的な光源はやがて尽き果てる時が来るだろうが、霊なる光は永遠である。なぜなら神のいのちそのものであるからだ。

1ヨハネ1:5

わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。 

1テモテ6:16

神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。 

黙示録22:5

夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

 御子イエス・キリストこそ、「すべての人を照すまことの光」であり、「人の光」そして「世の光」である。この光が照らすことができない程、光源から「遠くにいる」人間は存在しない。たとえその魂が絶望の暗闇の中に閉じ込められていたとしても、その光は照らすことができるのである。

光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

 あまりにも長い時を暗闇の中で過ごしたから、光は弱ってしまっただろうか。否、キリストの充溢から放たれる光は、弱ることなく、いまでもその魂を照らし続けているのである。

Ⅱコリント4:6

「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。 

エペソ5:13-14

13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。 

14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。 

ヨハネ8:12

イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。