人知をはるかに越えたキリストの愛を知って
エペソ3:14-21
14 こういうわけで、わたしはひざをかがめて、
15 天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。
16 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、
17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
20 どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。
御子イエス・キリストの十字架の死は、私たち人類に対する神の無限の愛の顕れである。
ローマ5:8(新改訳)
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
まさに「人知をはるかに超えたキリストの愛(直訳:知識を超える愛)」の具体的な顕れである。
しかし何と多くの場合に、私たちは自分たちの「知識」や「知恵」によって、その無限の愛に対して自分たちが勝手に描く境界線で囲い、「身動きとれないように釘で打ち付け」、人間の罪の中に閉じ込めようとしているだろうか。
御子の愛の声が、罪びとの罵りや嘲り、呪いの声によって、聴き取れなくなることを許していないだろうか。
キリストの愛が私たちの知識の限界を超えるのではなく、私たちの疑いが、諦めが、傲慢が、より優れている思う人間の知恵が、その境界線を越えて増幅し、私たちの心や兄弟姉妹の交わり、そして社会を蝕んでいく。
「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さる」神の力は、「私たちが求め、また思うところ」によってすっかり制限され、束縛されていないだろうか。
「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み」。私たちの不信仰によって、キリストが私たちの心のうちで十字架に再び釘打たれ、身動き取れない状態になっていないだろうか。
キリストを知ることに関する信仰者の自覚
Ⅱコリント5:13-17
13 もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。
14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
16 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。
17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
16節は、我々がどのようにキリストを知るべきかを啓示している、非常に重要な聖句である。便宜的に三つに分けて、和訳ではすべて「知る」と訳されているそれぞれの動詞の時制を比較してみると、そのニュアンスがわかりやすいのではないだろうか。
A.わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい
【οἴδαμεν oidamen】現在完了
B.かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、
【ἐγνώκαμεν egnōkamen】現在完了
C.今はもうそのような知り方をすまい。
【γινώσκομεν ginōskomen】現在形
AとBにある現在完了形は、事柄や動作が現時点では終了しており、なおかつその結果が現在にも及んでいることを示す。過去とも関わりを持つが、現在のことを指しているので、過去の知識は現在も保持しているが、今現在はその知っていることに頼らず、聖霊によってキリストを知ろうという意思を示している。
ここには「二つの知る行為」が目の前にあり、その二つの知る行為の「明確な変換に対する信仰者の自覚」がある。それは14節の「わたしたちはこう考えている」と、17節の「見よ【ἰδοὺ idou】」がそれを暗示している。
そしてこの「明確な変換に対する信仰者の自覚」は、「キリストの死と私たちの死」そして「キリストの復活と私たちの新しい命」によるものである。
ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
このように考察してみると、16節の和訳は新共同訳が私にはより的確であるように思える。
(新共同訳)
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。
肉に従ってキリストを知っていたとしても、
今はもうそのように知ろうとはしません。
ちなみに口語訳などで「肉」と和訳されている【σάρκα sarka】を、新改訳は「人間的な標準」、塚本訳では「人間的」と和訳している。
御子自身が「聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)と宣言している以上、私は日々聖書を読み、学ぶために、上述の「明確な変換に対する信仰者の自覚」が、聖霊の光と導きを求める祈りの土台として、決定的に重要で不可欠なものであると思う。
「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊によって
イザヤ63:15-16
15 どうか、天から見おろし、その聖なる栄光あるすみかからごらんください。あなたの熱心と、大能とはどこにありますか。あなたのせつなる同情とあわれみとはおさえられて、わたしにあらわれません。
16 たといアブラハムがわれわれを知らず、イスラエルがわれわれを認めなくても、あなたはわれわれの父です。主よ、あなたはわれわれの父、いにしえからあなたの名はわれわれのあがない主です。
(フリーソフトe-Swordの口語訳では、「あながい主」と入力ミスがあるので訂正が必要)
「あなたの熱心と、大能とはどこにありますか。あなたのせつなる同情とあわれみとはおさえられて、わたしにあらわれません。」
「あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押えておられるのですか。 」(新改訳)
この嘆きの声を主なる神にあげたのが預言者イザヤであったのは、非常に心を打つ。イザヤは若い時から預言者として召命を受け、50年以上の長い歳月にわたって、主の言葉を受け、民に忠実に伝えた、多くの預言者の中でも代表的な存在である。
その働きの期間に、4人の王(ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ)が王位に就くのを見、また主なる神の警告通りにイスラエル北王国が滅びるという激変の時代にあって、神のしもべとして生き抜いた預言者であった。
新約聖書において65回もイザヤが書き残した書から引用されていることは、彼が如何に神の御声に忠実であったかを示している。特に印象深いには、預言者が神殿の中で神の栄光の幻を見、セラフィムの賛美を聴いたことである。
イザヤ6:1-4
1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
イザヤが神の幻を見た時に受けた御言葉を引用し、福音書記者ヨハネはその幻が御子の栄光を顕現であったと告げている。
ヨハネ12:39-41
39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
つまりイザヤが神殿の中で見た主の栄光の幻は、受肉前の御子の栄光だったのである。
イザヤはメシアの誕生や地上宣教を始めることになる場所さえ、預言として神から受けた。さらに、『第五の福音書』と呼ばれる程、実に克明にキリストの苦難と復活を描写したあの驚異的な53章の預言を書き記した。御子が受肉し、地上に遣わされる約700年前の預言である。
このように、その長い働きの中で、神からの驚異的なメッセージを受けて書き記していたイザヤが、ここでは「あなたの熱心と、大能とはどこにありますか。あなたのせつなる同情とあわれみとはおさえられて、わたしにあらわれません」と嘆いているのである。
しかしそれでもこのイザヤの祈りは、私たちに二つの決して動かない点を示している。それはどのような状況であっても「主なる神は信じる者の父であること」、そして「主は永遠に信じる者の贖い主であること」である。
主よ、あなたはわれわれの父、
いにしえからあなたの名はわれわれのあがない主です。
この不動の点は、御子イエス・キリストの恵みによって、信じる全ての者に対してより確かなものとなった。
ヨハネ1:12-13(新改訳)
12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
ローマ8:14-16
14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
ガラテヤ4:4-7
4 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。
5 それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。
6 このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。
7 したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。
エペソ1:3-5
3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
私たちを神の子として贖ってくださった霊は、十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫した後でさえも、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と祈り、父なる神に全てを委ね切った御子の霊である。
ルカ23:46
イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
だからこそ、私たちが今現在、身動きとれない厳しい試練のなかにいて、見捨てられた孤独に放り込まれ、神の声も聞こえず、神の御手も感じられなかったとしても、それでもなお、「父よ」と神の向かって叫ぶことができ、その叫びの祈りをあげる私たちの魂のうちには、十字架に架けられた御子の霊が確かにおられるのである。
真のユダヤ人
ローマ2:28-29(新改訳)
28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
ピリピ3:2c-3
2c 肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。
3 神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。
「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく」
「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり」
モーセの律法に従って生後八日で割礼を受け、ベンヤミン族出身の生粋のユダヤ人であった使徒パウロが、このように「真のユダヤ人」の定義をしていることで、ユダヤ人の選民意識やメシアニック・ジューの驕り、アシュケナジー系ユダヤ人の起源に関する議論やアンチセミティズム、日ユ同祖論すらも全て十字架に収斂し、意味を失う。
「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしない」
「人からではなく、神から来る」誉れを待ち望む
これこそ「真のユダヤ人」の本質であり、人間の驕りによって淀み、混乱した世界に聖霊が残す確かなしるしである。
神の力としての十字架の言
Ⅰコリント1:18-25(新改訳)
18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
十字架に架けられた御子イエス・キリストが、神の愛と義の顕れ(ローマ5:5-8;ローマ3:21-26)であることは何度も記事にしたことがあるが、十字架に架けられたキリストはそれだけではない。
「十字架のことばは、…神の力です。」
「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。…キリストは神の力、神の知恵なのです。」
一体、全ての人から見捨てられた一人の死刑囚に、どんな力を見出せるだろうか。しかしその全く無力で、目を背けなければいられない程おぞましいところに全知全能の創造主である神の力と知恵が顕わされている。
それはシンボルとしての十字架でも、キリストの磔刑像でも、惨たらしい映像でもない。神の力であるのは、「十字架のことば」つまり「御子イエス・キリストによる贖罪のわざのメッセージ」であり、死から復活し、「生けるキリストその方自身」が神の力なのである。
冒頭に引用して聖句を書いた使徒パウロは、他の書簡の中で「神の永遠の力は被造物によって知られている」と書き記している。
ローマ1:20
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
しかし「十字架のことば」は、そのように間接的に神の力を表しているものではなく、神の力そのものである。だからこそ、罪と闇と死が支配している心に新しい命を与え、虚無の中の閉じ込められている魂を救うことができるのである。
確かに、この神の力は明確な目的をもっている。それは「信じる者全ての救い」である。
ローマ1:16
わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
それは自然の不思議を見て感嘆したり、宇宙の遠大さに畏敬の念をもったり、聖書に興味をもったりすることの先にある、生ける神を個人的に知ることによる永遠のいのちである。
聖書の霊感:「手短に書いた」
へブル13:22
兄弟たちよ。どうかわたしの勧めの言葉を受けいれてほしい。わたしは、ただ手みじかに書いたのだから。
「手短に書いた」
この表現は、「本当はもっと多くのことをより詳しく書きたかったのだが、読み手の霊的状況がそれを許さなかったので、重要な事を簡潔に書くことを敢えて選んだ」という筆者の意思を示している。そのことは、以下の聖句からさらによく伝わってくる。
へブル5:11
このことについては、言いたいことがたくさんあるが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、それを説き明かすことはむずかしい。
違う観点から見れば、「少なくとも読み手の霊的状況に合わせて、理解できる方法で、必要なことを十分に書いた」という自覚も暗示している。それは『ヨハネによる福音書』が書かれた目的に関する言及とも共通する。
ヨハネ20:30-31
30 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。
『へブルびとへの手紙』の筆者も福音書記者ヨハネも、自分が書いた書簡を読むだろう相手を励ます目的で、その目的に必要十分な内容を書くように聖霊に導かれたのであって、別の目的はなかったはずである。例えば、彼らは他の書簡を書いた使徒同様、自分たちが書いたものを、新約聖書全27巻を構成する一書として書いたわけではなかった。つまり彼らの福音書や書簡を書き始めるにあたって、聖霊に「私は今後、27巻からなる『新約聖書』を全人類の為に備えるから、心して私が語ることを書きなさい」とは命令を受けなかった、ということである。
ということは、福音書記者や使徒たち各自に霊感を与え、書簡や福音書を書かせた聖霊は、それらの書簡を受け取り、教会の交わりの中で読み、他の教会も読めるように共有した兄弟姉妹の心にも働きかけ、導いていたということである。
使徒時代の教会の兄弟姉妹の中には、使徒パウロの権威を認めず、彼を卑下する者たちがいたことが記されている。
Ⅱコリント10:1-2;10-12
1 さて、「あなたがたの間にいて面と向かってはおとなしいが、離れていると、気が強くなる」このパウロが、キリストの優しさ、寛大さをもって、あなたがたに勧める。
2 わたしたちを肉に従って歩いているかのように思っている人々に対しては、わたしは勇敢に行動するつもりであるが、あなたがたの所では、どうか、そのような思いきったことをしないですむようでありたい。
10 人は言う、「彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」。
11 そういう人は心得ているがよい。わたしたちは、離れていて書きおくる手紙の言葉どおりに、一緒にいる時でも同じようにふるまうのである。
12 わたしたちは、自己推薦をするような人々と自分を同列においたり比較したりはしない。彼らは仲間同志で互にはかり合ったり、互に比べ合ったりしているが、知恵のないしわざである。
使徒ヨハネもその手紙の中で、健全な教えを説いていた使徒たちを受け入れない者が教会の中にいて、福音宣教の働きを妨害していたことが記録されている。
Ⅲヨハネ9-10
9 わたしは少しばかり教会に書きおくっておいたが、みんなのかしらになりたがっているデオテレペスが、わたしたちを受けいれてくれない。
10 だから、わたしがそちらへ行った時、彼のしわざを指摘しようと思う。彼は口ぎたなくわたしたちをののしり、そればかりか、兄弟たちを受けいれようともせず、受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出している。
当然、使徒たちの権威を認めていなかった者たちは、使徒らが教会に書き送った書簡などの権威も認めていなかっただろう。しかしそのような妨害にもかかわらず、彼らの書簡は教会の中で読まれ、徐々に書き写され、各地の教会同士で交換され、「聖霊の霊感の受けた言葉」として人々の間で大切に保管されていたのである。それは書簡を受け取り、それを読んでいた側に、霊感を受けて書いた書き手と同じ聖霊が働き、その書簡の内容が真理であり、それを他の教会と共有すべきものであることを認識させていたからである。
これらのことは、聖霊を通して働く神の主権において、聖書はその一書一書におけるそれぞれの目的に対して必要十分であり、また各書を満遍なく読むことによって、全人類に対する神の目的に対して欠けるものはない、有効な賜物であることを示している。
そして私たちがその聖書を読むとき、聖霊が働き、聖書の中の一つ一つの教えを統合的に理解できるように導いて下さることも示している。
Ⅱテモテ3:14-17
14 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、
15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
エルサレム第三神殿建設に関する不条理
おそらくそれほど遠くない未来に関する一つの想定をしてみよう。一人の強烈なカリスマをもった政治家の超自然的な手腕によって、現在では不可能だとしか思えないエルサレムの第三神殿建造が実現する時期に、あなたと私が御子イエスの十字架の贖いを信じ、救いを受けたとしよう。
私たちは14万4千人のイスラエル人宣教者たちや、エルサレムの二人の証人たちの証しを聞いて、奮い立ち、彼らと同じように罪の赦しと魂の救いは御子の尊き犠牲の死と復活によってのみ与えられ、再建された神殿におけるレビ族祭司たちによる動物のいけにえは、何の役にも立たないものだ、と証しするだろう。
しかしその私たちの証しは、ステパノの証しに対してそうであったように、神殿祭儀の復活がモーセの律法に守ることであると信じているイスラエル人たちの激しい怒りを買い、またいずれその神殿において自分が神であると宣言することを計画している反キリストの憎悪と殺意の対象となるだろう。
そして反キリストはその独裁者としての権力を用い、全世界に対してこう宣言するだろう。「このキリスト者たちは、神がモーセを通して与えてくださった神聖なる律法に背き、世界平和の実現に反対し、兄弟愛を憎む反逆者である」と。
御子イエスが終わりの時に関して預言していたことが、その時、完全に成就するである。
マタイ24:9
そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
そして反キリストはあなたと私を、その他のキリストの証人と同様、逮捕し、おそらく拷問によって棄教を迫り、それでも御子とその十字架にのみ栄光を帰そうとする信仰者たちを殉教に追い込むだろう。
使徒6:11-14
11 そこで、彼らは人々をそそのかして、「わたしたちは、彼がモーセと神とを汚す言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。
12 その上、民衆や長老たちや律法学者たちを煽動し、彼を襲って捕えさせ、議会にひっぱってこさせた。
13 それから、偽りの証人たちを立てて言わせた、「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐いて、どうしても、やめようとはしません。
14 『あのナザレ人イエスは、この聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう』などと、彼が言うのを、わたしたちは聞きました」。
使徒7:48-58a
48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、
49 『主が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。
50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。
51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。
53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。
54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。
55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、
58a 彼を市外に引き出して、石で打った。
私たちに対して激しく怒る人々の顔をみながら、私たちは考えるだろう。「イスラエル旅行に参加し、第三神殿建設のために熱心に執り成しの祈りをし、献金まで捧げていたあの福音派クリスチャンたちは、一体何を期待していたのだろうか」と。
たとえディスぺンセ―ション主義的立場にいたとしても、一人の信仰者であるならば、「教会は大患難期前に携挙されるのだから、大患難期に信仰をもつことになる人々がどのような苦難に遭遇しようともあまり興味がない」と考えることはできないはずである。なぜなら終末論的見解の違いを超えて、現在恵みの下に生きている信仰者も、大患難期に御子イエスを信じて、絶対に避けては通れない迫害と殉教によって信仰を全うする人々も、共に主の御前に立つことになるからである。
その時の贖われた人々の口からでる賛美は、神の子羊としてその尊き命を捧げてくださった唯一の救い主、御子イエスを褒め称えるだけだろう。
黙示録5:7-10
7 小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。
8 巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。
9 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
10 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。