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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

私に従いなさい。

ヨハネ21:15-22(新改訳)

15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」 

16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」 

19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」 

20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。 

21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」 

22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」 

  御子は、三度の問いかけを通して、弟子ペテロの心がご自身に対する愛に満たされていると確認したから、彼に「私に従いなさい」と命じたのだろうか。

 そもそも御子が一人の罪人(ペテロは御子のことを三回「知らない」と証言した)の心のうちにどれだけの愛があれば、その人に「私に従いなさい」と命じようと思うのだろうか。

 私たちにどれだけの愛があれば、御子に従うことができるのだろうか。どれだけ聖書の知識を蓄積すれば、どれだけの賜物を受ければ、その一歩を踏み出せるのだろうか。

マタイ16:24-25

24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 

  同様に、私たちはどれだけ自分を捨て、どれだけ自分の十字架を負えば、御子に従うことができるのだろうか。

 これらの問いかけを心に、私たちが祈りの中で御子の十字架の前に静まる時、「私に従いなさい」という御子の言葉自身が、如何にいのちと力を持つものか、理屈ではなく、聖霊によって心に示されるだろう。

信仰の創始者であり、完成者である御子イエス

へブル12:1-2(新改訳)

1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 

 2節aにおいて、他の和訳の代表的なものは、以下のように訳出している。

(文語)信仰の導師また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。

(口語)信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。

 「創始者」「導師」「導き手」と和訳されている原語【αρχηγον archēgon】は、新約聖書の中で他に以下の三箇所で使われている。

使徒3:15

いのちのを殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。 

使徒5:31

そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。

へブル2:10

なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救のを、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。 

 同じ単語が旧約聖書のLXX訳では三回使われている。

民数13:2

「人をつかわして、わたしがイスラエルの人々に与えるカナンの地を探らせなさい。すなわち、その父祖の部族ごとに、すべて彼らのうちのつかさたる者ひとりずつをつかわしなさい」。 

民数14:4

彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。  

エレミヤ3:4

今あなたは、わたしを呼んで言ったではないか、『わが父よ、あなたはわたしの若い時のです。 

 エレミヤ3:4において、「」(新共同訳)「連れ合い」(新改訳)「交友(とも)」(文語)などと訳出されている。

 これらの様々な訳のバリエーションを考慮しつつ、文脈が「私たちの前に置かれている競走」(12:1)という霊的な道程について言及していること、また【αρχηγον archēgon】と【τελειωτην teleiōtēn】が一つの冠詞をもつことから、「創始者であり、完成者である」や「導き手であり、またその完成者である」という訳は、信仰生活の出発点から到達点まで、「信仰者の信仰を創り出し、導き、完成をもたらす」というニュアンスが伝わるものではないだろうか。ちなみにイタリア語のNRVは「fissando lo sguardo su Gesù, colui che crea la fede e la rende perfetta.」(信仰を創造し、完全なものとする方)と訳出している。

 まさに主なる神がご自身の計画によって選び、奴隷生活から贖い出したイスラエルの民に対して、最後まで変わらぬ真実の愛を誓ったように、御子イエスは聖霊の働きを通して、救いを求める魂の内に信仰を賜物として与え、それを導き、完成に至らす方である。

イザヤ46:3-4

3 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。

4 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。 

  使徒パウロの言葉も、上述の霊的道程における神の働きについて啓示している。

ピリピ1:6(新改訳)

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。 

 

アブラハムの信仰

ローマ4:16-25

16 このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、 

17 「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。

18 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。

19 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。

20 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、 

21 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。 

22 だから、彼は義と認められたのである。 

23 しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、

24 わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。 

25 主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。 

 この箇所では、「アブラハムの信仰」(16節)「彼の信仰」(19節)について書かれており、その対象(「何」を信じていたか)と、その性質(どのようなタイプの信仰であったか)が力強く説明されている。

  • 彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。
  • 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。
  • 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。 

 三つの文とも、主語はアブラハムである。アブラハムが信じたのである。そしてそのアブラハムの信仰の対象は、「神自身」であり、「神の約束」であり、「神の忠実さと力」である。

  • この神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神
  • 神の約束
  • 神の忠実さと力:神はその約束されたことを、また成就することができる

 そして20節と21節の原文の動詞が受動相、つまり受け身なのは、信仰の根源が神や神の約束、そして神の性質であることを示し、それが信仰者アブラハムに作用していたことが理解できる。

  • 不信仰によって疑うようなことはせず:【διεκρίθη diekrithē】迷わされる、揺れ動かされる
  • 信仰によって強められ:【ἐνεδυναμώθη enedynamōthē】強くされる
  • 確信した:【πληροφορηθεὶς plērophorētheis】確信させられる

 さらに以下の動詞の相はいずれも能動相なので、アブラハム本人の主体性も示されている。

  • 死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた
  • 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた
  • 栄光を神に帰し 

 つまり信仰の対象は「死人を生かし、無から有を呼び出される」全能の神であり、その約束の御言葉は必ず成就する力をもつが、それは信じる者が単純に受け身でいることを意味するのではなく、「信じる」というアクティブな反応があるのである。

 特に「神に栄光を帰す」という主体的な反応は、信仰義認が神に関する啓示の単なる認知ではないことが示されている。

だから、彼は義と認められたのである。

 悪霊どもが人間より神について知識をもち、「信じて【πιστεύουσιν pisteuousin】おののいている」が、神に義と認められないのは、この「神に栄光を帰す」という信仰の本質が欠けているからである。

ヤコブ2:19

あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。 

 そしてこの信仰による義認は、アブラハムだけの特別なものではなく、御子イエス・キリストを死人の中からよみがえらせた父なる神を信じる全ての信仰者に対しても同様に有効である。

23 しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、

24 わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。 

 

めんどりが翼の下にひなを集めるように

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 先日、ツイッターで【翕】という漢字について投稿したが、聖書の中には主なる神のご自身の民のための働きを「親鳥と幼鳥」のシンボルを使って表してる箇所が何か所もある。

申命記32:9ー12

9 主の割り当て分はご自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である。 

10 主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。 

11 わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように

12 ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。

 11節の「舞いかけり」と和訳されている動詞【רָחַף  râchaph】は、創世記1:2において「動いていた」と和訳されている原語【מְרַחֶפֶת】と同じ語根をもつ。

創世記1:1-2(新改訳)

1 初めに、神が天と地を創造した。

2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた

 天地創造の際に働いていた神の霊は、「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように」、エジプトで奴隷として生活していたイスラエルの子らを呼び出し、約束の地へ向けて導き出した。

出エジプト19:4

『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。 

 ボアズは、イスラエルの神を信じ、生まれ育ったモアブの土地を捨て、イスラエルの民と共に信仰の道を歩むことを決意した。 

ルツ2:11-12

11 ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。

12 どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」。  

  その信仰に生きた人々であったボアズとルツのひ孫であるダビデは、神の加護について以下のように祈っている。

詩篇17:6-9

6 神よ、わたしはあなたに呼ばわります。あなたはわたしに答えられます。どうか耳を傾けて、わたしの述べることをお聞きください。 

7 寄り頼む者をそのあだから右の手で救われる者よ、あなたのいつくしみを驚くばかりにあらわし、 

8  ひとみのようにわたしを守り、みつばさの陰にわたしを隠し、 

9 わたしをしえたげる悪しき者から、わたしを囲む恐ろしい敵から、のがれさせてください。 

 さらに詩篇の中には、似たような表現が繰り返し使われている。

詩篇36:7

神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。 

詩篇57:1

神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。 

詩篇61:4

私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。セラ 

詩篇63:7

あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。 

詩篇91:4

主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。  

 そして御子イエス・キリストが地上に来られた時、旧約聖書に啓示されていた神のご自身の民への思いと同じ思いで、イスラエルの民に対して働きかけていたことが記されている。

マタイ23:37

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。 

ルカ13:34

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

 しかし御子の十字架の死と復活、そして聖霊が遣わされたことによって、神の永遠の計画が明らかになった。

ヨハネ10:16

わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れひとりの羊飼となるであろう。 

エペソ1:8-10

8 神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、

9 御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。

10 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。  

 この御子における神の贖いの計画は、終わりの時に完全に成就することが預言されている。「鳥が一斉に飛び立つ」ように教会は地上から携挙され、「多くの物事が一斉に起こる」大患難期に、イスラエルの民は御子イエスがメシアであることを受け入れ、そして御子は御使いを遣わして彼らを全世界から「集める」だろう。

Ⅰテサロニケ4:16-17

16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、

17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。 

ダニエル12:1

その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。また国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。 

マルコ13:26-27

26 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。

27 そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。  

 新しい天地において「天から下ってくる」新しいエルサレムは、この御子における神の計画の完成を表している。

黙示録21:1-4

1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。

2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 

3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、

4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。 

 

殉教を覚悟していた使徒パウロの聖書観

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Ⅱテモテ3:14-17

14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、

15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

 殉教の時が間近に迫ってきていることを肌で感じていた使徒パウロが、小アジア(現在のトルコ西部)のエペソで伝道活動していたテモテにこの手紙を書いたのは、西暦60年代半ば頃だと言われている。

 この時期にはまだ旧約聖書の正典化はまだ行われておらず、使徒パウロが呼ぶところの「聖書」、また小アジアのリストラ出身でギリシャ人の父とユダヤ人の母ユニケの間に生まれ、信仰者であった母と祖母ロイスによって信仰的に育ったテモテ(Ⅱテモテ1:5)が「幼いころから親しんでいた聖書」が、具体的にどのくらいの範囲をもつのか、その境界線をきっちりと引くことは難しい。当然、一世紀末のヘブライ語聖書正典化、そしてより複雑なプロセスを経た新約聖書の正典化から、長い歳月が経った時代の視点から聖書を読み込んでいる私たちは、「聖書」の定義により太い輪郭線を引いているわけである。

 しかし少なくとも使徒パウロの頭の中には、彼自身が書簡の中で引用しているヘブライ語聖書やギリシャ語の七十人訳が含まれていたはずである(勿論、正典化によって絞られた三十九巻であったかもしれないし、それ以上またそれ以下だったかもしれない。確実な言えることは、使徒パウロに霊感を与え、書簡を書かせた聖霊はそれを完全に知っておられたことである)。

 いずれにせよ、今回私の注意を引いた点は、エルサレムでラビとしてヘブライ語による正式な神学教育を受けて育ったパウロが、ヘレニスト・ユダヤ人として育ったテモテに対して書いている、聖書の機能と目的である。

聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができる

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

 使徒パウロは、もし望むなら現代の聖書学者や教師が行うように、ヘブライ語聖書とギリシャ語訳聖書の微妙なニュアンスの違いを指摘して、書簡の中で蘊蓄を傾けることもできたはずである。何しろ、ローマの極悪の環境の牢獄に中にいて、殉教を意識していたにもかかわらず、聖書の巻物を持ってくるように依頼するほど、御言葉を愛し、「研究熱心」であったのである。

4:6 

わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。

4:13

あなたが来るときに、トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい。また書物も、特に、羊皮紙のを持ってきてもらいたい。 

 通常、死の時を自覚している人間は、自分自身や周りの全ての事について、また残された時間に関して、より本質的なことを選択し、副次的なことは切り捨てる傾向がある。聖霊がこのような極限の状況において使徒パウロに手紙を書かせ、厳しい迫害の故に意気消沈していた福音伝道者テモテを、「聖書が何であり、何を目的とし、どのように働きかけるか」を明確にし、方向付けることによって励まそうとしているのは、内外の様々な混乱の中で信仰者として自分が為すべくことを見失いがちな現代の私たちにとって、非常に重要な指針であると思う。

4:1-5

1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。 

2  御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。

3  人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、

4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。

5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。 

 殉教を覚悟していた使徒パウロの「聖書観」は、何よりも「生きている者と死んだ者とを裁くべき方」を意識したものであったことが、ここに啓示されている。

AIに関する一つの想定

 もし現在のペースで世界が進んでいくならば、それ程遠くない将来、膨大なデータを蓄積したAI(人工知能)に「悔い改めて、イエス・キリストを信じるってどういう意味?」とか「第一ペテロ4:6の正しい解釈は?」と質問すれば、過去の色々な解釈の例を挙げてその中から「最適な答え」を選び出してくれる時が来るのだろう。

 勿論、質問者の個人的データも全て把握しているAIは、無数の解釈の中からその質問者の受容範囲に絞って回答することができるだろう。感情に左右され、偏見をもち、知識に偏りがあり、記憶能力にも統合能力にも多くの欠陥を抱える生身の人間の回答よりも、より正確で安定しており、過去の神学者、牧師、教師などの教えに対して「バランスとれた正統的回答」なのかもしれない。

 また一つのテーマに関して議論になった時、どこかの著名な神学者の権威を引き合いに出す代わりに、「ほら、AIはこう言っていますよ」と答える時代がくるのかもしれない。信仰者の知識は今よりも独立的・自己充足的になるだろう。スマホ、いやAIにつながっているワイヤレス・イヤホンなどで必要な時に「最適な答え」を常にもつことができるだろう。

 しかしそのあり方は、善悪を知る木の実を食べたアダムとエバのあり方と本質的に同じではないかと思うのは私だけだろうか。

 15年前、礼拝の聖書朗読にタブレットやスマホを使う人など誰もいなかった。今では、説教者でさえ、講壇にタブレットを持って上がり、画面を指で動かしながら説教する時代になった。そのタブレットの中には、インターネットからダウンロードされた「お気に入り」の説教や聖書研究が保存されており、必要な時に「使い回せる」ようになっている。

 今回、近い将来の極端な要素を想定して書いたが、生ける神が求めている信仰者のあり方、つまり聖霊の導きと知識を得るプロセスとの関係をより深く考える、一つの材料となればと願う。

聖書言語の神聖化

 ヘブライ語やギリシャ語を「聖域」に置く人々は、普段の祈りにおいて古代ヘブライ語やコイネーで祈っているのだろうか。自論に対して一貫性をもって生きるためには、必然的にそのような選択をする他ないだろう。

 そしてそのような彼らの祈りに対して、霊なる神は同じ古代ヘブライ語やコイネーで答えているのだろう。英語や日本語、イタリア語では祈りがうまく通じないから、聖書言語を使いなさい、と。人間が「聖書言語の神聖化」を受け入れる時、このような不条理な話が生じるのである。

 人間にご自身の霊と共に言葉を与えた主なる神は、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と命じた神であり、その福音を信じた者がどう祈ればいいかわからない時、「言葉にあらわせない切なるうめきをもって執り成して下さる」聖霊を遣わしてくださった神である。

 そしてその主なる神は、世界中の小さな子供たちのたどたどしい祈りにも、読み書きを学ぶ機会なく年を重ねてしまった人々の祈りにも、悲しみと試練の中で声なき叫びをあげる人々にも、御子の尊き名によって答えてくださる神である。