神の言を売物にせず
Ⅱコリント2:17
(口語訳)
しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。
(新改訳)
私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。
新改訳は、「売り物にする」と和訳されている【καπηλεύω kapēleuō】に「(飲食物・薬など)に混ぜる、品質を落とす」というニュアンスもあることから、「混ぜ物をして売る」と訳出しているのだろう。
そもそも「神のことばを売り物にする」とは、ただ単に「神のことばを伝えることによって、結果として何かしらの対価を得る」ということだけを示しているのではないだろう。その対価は経済的であったり、倫理的・精神的、つまり第三者からの評価・称賛だったりするかもしれないが、「売り物にする」の本当の問題は、それが目的となってしまうことにある。
つまり「御子イエス・キリストを啓示する」という御言葉の本来の目的が、「何かを得るために御言葉を伝える」というように挿げ替えられてしまうことが問題なのである。
実例で言うと、「繁栄の福音」を主張する教会では、経済的対価を得るために什一献金や「捧げること」をテーマとして選び、強調したりする。確かに新約聖書は自由献金については語っているが、それを什一献金制度という根拠のない教えに変質させ、繰り返し語るのである。福音の啓示全体から見れば、献金のテーマはほんのわずかな部分を占めているだけなのに、間違って設定された目的を達成するために、繰り返し強調されるわけである。
しかし経済的対価を得る目的よりも、さらに狡猾で危険なのは、倫理的・精神的対価を得るために聖書の言葉を利用する場合である。第三者からの評価を得るため、その評価を基に社会的認識を得るため、など自分自身の目的のために神の御言葉を利用する。そして目的が異なるから、そこには必然的に「混ぜ物をする」「品質を落とす」作用が働くのである。
例えば、自分が行っている宗教的・倫理的選択を誇る目的で、それらに関連する御言葉を強調し、本来聖書の中で与えられている以上の比重を与えて第三者に伝えたりする。聖書には「肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。」(ローマ14:21)とあるが、自分が肉を食べず、酒を飲まない選択をしていることを誇るためにこの箇所を繰り返し伝えるならば、それは自分の目的のために神のことばを売る行為と見做されるだろう。
伝道や教えること自体さえ、自己満足の目的追求のツールとしてしまうほど、人間の自己義認の欲求は根深く、狡猾だと思う。
御子の十字架の死を通して、これらの目的のすげ替えに聖霊の光を当ててもらうしか、解放の道はない。
父なる神の約束:真の贈り物
使徒1:1-5(新改訳)
1 テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、
2 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。
3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
4節の「私から聞いた父の約束」は、5節の御子が復活後に語った言葉を指しているのであって、最後の晩餐の時に御子が弟子たちに啓示した聖霊に関する数々の約束を指しているのではない、という意見があるが、いくつかの観点で検証してみよう。
- 第一に通常の読みで理解できることだが、4節の御子の命令は「父の約束を待ちなさい」であり、「私から聞いた」は「父の約束」の修飾句である。つまり「父の約束を待ちなさい」が主体であり、「私から聞いた」はその「約束」の補足説明である。
- 新改訳で「聞いた」と和訳されている【ἠκούσατέ ēkousate】(アオリスト 直説法 能動相 第二人称 複数)は、単に弟子たちが過去に御子から聞いたという動作を表現しているのであって(マタイ5:21や27の用法と共通している)、過去完了形や未完了過去のように「ある時点で聞いた」とか「聞いていた」というような時に関する概念は含まれていない。それゆえ、過去のどの時点で聞いたかの問題ではなく、間違いなく弟子たちが御子から聞いたという「父の約束」が重要なわけである。
- その約束というのは、5節にあるように「聖霊のパプテスマ」であり、ペンテコステの日に使徒ペテロによって公に証しされた。
使徒2:33
ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
しかしそれはただ単に聖霊によってペンテコステの日に起きた一つの出来事に限定されるものではなく、聖霊自体が賜物、つまり父なる神のプレゼントであることが「約束」として啓示されている。
使徒2:38
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
使徒パウロも書簡の中で、聖霊のことを「約束の御霊」と呼んでいる。
ガラテヤ3:14
このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。
エペソ1:13
またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
このように「父の約束」が意味することを理解すると、御子は自身の地上宣教において、何度もそのことについて弟子たちに語っていることがわかるのである。
ルカ11:13
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
ヨハネ14:16-17
16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
ヨハネ14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
ヨハネ15:26
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
また御子イエスの地上宣教において、仮庵の祭の時に、御子は十字架の死と復活、そして栄光を受けた後に、御子を信じた人々が受けることになる御霊に関して、その約束が「聖書に書いてあるとおり」のものであることを告げた。
37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
つまり「父の約束」は復活後に初めて語られた内容ではなく、所謂『旧約聖書』の中に予め記されていたものであったことを証している。これは、ペンテコステの日に「父の約束」の聖霊のバプテスマを受けたペテロが、旧約聖書のヨエルの預言を引用していることとも共通している。
使徒2:14-21
14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
さらに聖霊のバプテスマの約束に関しては、御子が地上において公に宣教活動を始める前の段階に、バプテスマのヨハネによって告げられていた内容である
マタイ3:11
わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
そのヨハネの証しは、御子自身の上に聖霊が下ることによって、父なる神から来たものであったことが証明された。
ヨハネ1:32-34
32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
33 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
34 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
使徒パウロが福音宣教においてエペソでとった行動は、そのバプテスマのヨハネによって啓示されていた約束に従ったものであった。
使徒19:1-7
1 アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、
2 「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。
3 「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。
4 そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。
5 これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。
6 パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。
7 その人々は、みなで十二人ほどであった。
このように新約聖書を総合的に確認すると、御子が弟子たちに語った「父の約束」である聖霊のバプテスマは、御子の復活の後だけに啓示されたものではなく、旧約聖書によって予め預言され、バプテスマのヨハネによって証しされ、また御子の地上宣教期間を通して何度も語れていたものであり、ペンテコステの日に成就し、その後の使徒たちの福音宣教に伴っていたことが確認できるものである。
そしてその「父なる神の約束」は、時空を超えて信じる者全てを対象にした恵みの約束である。
使徒2:38-39
38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。
エリサベツの引き籠り
ルカ1:5-25(新改訳)
5 ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
6 ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。
7 エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。
8 さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、
9 祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった。
10 彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。
11 ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。
12 これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、
13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
14 その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
15 彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、
16 そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。
17 彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」
18 そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」
19 御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。
20 ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」
21 人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。
22 やがて彼は出て来たが、人々に話をすることができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、おしのままであった。
23 やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰った。
24 その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。
25 「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」
聖書を日常的に読んだり、聖書朗読を聴いていて、それまで聞き流していた箇所が妙に気になって、繰り返し読み、聖霊の光を祈り求めることは、聖書を愛する人ならば誰でも経験することではないだろうか。今回は、24節の「五か月の間引きこもって」という詳細が、まるで初めて読んだかのように心に引っかかった。
大祭司であり夫であるゼカリヤの言葉「妻も年をとっております」からわかるように、エリサベツは子供を授かることができる年齢ではなかった。何より彼女は「不妊の女」だったのである。そのような女性が奇蹟的に身籠った。エルサレムに集まる人々に向かって大声で叫んでも不思議ではなかったレベルの証しである。現代だったら、真っ先にビデオの前で証しを録画し、ユーチューブで全世界に向けて発信していたかもしれない。当時のメンタリティーによれば、エリサベツは「子を産めない、不幸で呪われた女」として卑下する声に随分長い間、苦しめられてきたはずである。そのような声を見返す程、大きな喜びの声で叫んでもおかしくはなかったはずである。
しかしエリサベツは沈黙の中に身を隠すことを選んだ。それはなぜだろうか。主なる神に栄光を帰す感謝の念がなかったのだろうか。否、彼女は「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました」と、自身の心情を告白している。それではなぜ沈黙の中に引き籠ったのだろうか。
それは夫ゼカリヤが「おし」となって言葉を発することができなかった故ではなかったかと思う。祭司として神殿の聖所の香檀の前にいて、御使いの驚くべき啓示に対して「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」という反応をしたことで、不信仰と見なされ、「おし」となってしまっていたのである。
これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。
そのような夫と共にいて、神の働きの偉大さと峻厳さに強い畏敬の念を持たなかったと考える方が不自然だろう。エリサベツの五か月の引き籠りは、そのような畏敬の念を包まれた、「神のことばの成就の時」を待つ時期だったのだろう。
だがやがてエリサベツの沈黙が賛美に変わる時が来た。
ルカ1:39-45
39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。
40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
マリヤの訪問を受けた時、エリサベツは「聖霊に満たされ」、「大声をあげて」、主なる神の約束の成就を信じ、そして「信じ切る」ことの喜びを証ししたのである。引き籠りの五か月間、エリサベツの胎内で静かにそして着実に成長していた胎児ヨハネが、喜びおどったというのはとても象徴的である。
大局的に視ると、キリスト者の地上の生は「神のことばの成就の時」を待機する時期だと言えるだろう。時には主なる神に対する畏敬の念が重々しく感じられ、それまでのような「軽い心」で人と接したり、証ししたり、奉仕することができなくなる時期がある。
それでも信仰者のうちには、御子の復活のいのちが宿っている。それはエリサベツが受けた奇蹟と同じくらい、いや、それ以上の奇蹟ではないだろうか。そして時が来れば必ず、聖霊によって私達の心は信仰の勝利と喜びを叫ぶことになるのである。
ローマ10:11
聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
Ⅰぺテロ2:3-6
3 あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。
4 主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
6 聖書にこう書いてある、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」。
霊における「物乞い」の至福
マタイ5:1-12
1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう
5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
所謂、『山上の垂訓』と呼ばれる、御子イエスによる一連の教えが、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」という、ぱっと読めば逆説的に思える至福(「この上もない幸せ」という意味)の言葉で始まっているのは、大変印象深い。
さらに「こころ」と和訳されている原語【πνεῦμα pneuma】は「霊」であり、「貧しい人たち」【πτωχός ptōchos】は字義的には「物乞い、乞食、貧乏人」である。つまり「霊における乞食はさいわいである」と言っているのである。
山の上で御子の教えを聞こうと集まっていた弟子たちは、エルサレムの富裕者階級に属していなかったとはいえ、御子に従っていく前にはそれぞれ仕事を持っている人々だった。だから御子の言葉を聞いて非常に驚いたのではないかと思う。現代の先進国のような社会保障制度や人権意識がなかった時代に、「物乞い」であることが現代社会に比べてどれだけ疎外されていたか、正確に判断することは難しい(そもそも疎外を比較することはできないかも知れないが)。ただ富が神の祝福の徴であると考えられていた当時の社会において、「物乞い」は決して霊的祝福を象徴する存在ではなかったことは確かである。
実際、ある機会に御子が「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」と説いた時、弟子たちは非常に驚いたのである。
マタイ19:25
弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。
弟子たちは一般通念によって「神に祝福されていた金持ちが神の国に入れないのなら、私達など入れるわけがない!」と勝手に思い込んでいたので、御子の言葉に大いに驚いたわけである。
確かにこの「霊における物乞いは幸いである」という真理は、御子の十字架によってのみ成就するものである。聖霊によって十字架の死を自分の中で体験する時、私達の古き人も御子と共に十字架に架けられ、葬られたことを悟る。つまり私達の古き人は「すべてを失う」のである。
ガラテヤ6:14
しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。
使徒パウロは「キリストのゆえに、わたしはすべてを失った」(ピリピ3:8)と告白したが、それと同時に、復活し栄光を受けたキリストにあって、「全てを持っている」と言っているのである。
コロサイ2:9-10a
9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、
10a そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。
しかし私達はその満ち満ちた神の徳を、信仰によってキリストのうちに見るのであって、「繁栄の福音」の信奉者のように、地上の物質的富や繁栄、「霊的賜物」に強引に反映させようなどとは決して考えない。
コロサイ3:1-4
1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。
「上にあるもの」を味わえば味わうほど、「地上のもの」では心が満たされず、やがて顕れる「神のうちに隠されたいのち」を激しく慕い求めるようになる。
旧約聖書の詩篇記者アサフも、御子の十字架を知らなかったにもかかわらず、「霊における物乞いの至福」の光を受けていたことが記されている。
詩篇73:25-26
25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。
26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。
もし信仰者が 「霊における物乞い、乞食、貧乏人」と聞いて、侮辱や不快を感じるならば、御子イエスの十字架と自分との関係を見つめ直したほうがいいかもしれない。
「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません」の真意
マタイ10:5-6
5 イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけ、ません。
6 イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。
12使徒を選び、宣教に遣わす前に御子が命じたこの言葉に関して、ユダヤ人の選民意識に媚を売るような解釈を読んだことがあるが、文脈を考慮すると、ただ単に福音宣教初期の優先順位を啓示しているだけではなく、異邦人、特にサマリヤ人の魂の救いに関する御子の深い憐みの心が隠されているのではないか、と思うようになった。
なぜなら、この段階では12使徒たちを含め、弟子たちの誰も御子イエスの死と復活による聖霊を受けておらず、自分たち以外の民族の人々を、真の意味で偏見なく愛する心が全く備えられていなかったからである。
実際、御子イエスの一行がサマリヤの町を通ってエルサレムへ上っていこうとしたとき、サマリヤ人たちが御子イエスを受け入れなかったという理由で、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」という何とも悪辣な提案した。(主は弟子たちを「最後の審判者」に任命したわけではなかった!)
ルカ9:51-56(新改訳)
51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、
52 ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。
53 しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。
54 弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」
55 しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。
56 そして一行は別の村に行った。
55節に関して、新改訳の脚注には
*異本「そして彼は言われた。『あなたがたは自分たちがどのような霊的状態にあるのかを知らないのです。
56 人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなくそれを救うためです』」を加える。
とある。英語訳のKJVやNASB、WEB(http://biblehub.com/luke/9-55.htm 参照)において、またイタリア語訳のDDTやNRVでも、同じように挿入されている。
つまり弟子たちは、自分たちがどのような霊によってサマリヤ人たちを扱っているか、全く理解していなかったのである。言い換えるならば、弟子たちも御子の死と復活に対する信仰によって新しく生まれ変わり、聖霊によって心を満たされなければ、サマリヤ人やその他の異邦人に、恵みの福音を伝える適性を持っていなかったのである。
もし御子がそのまま弟子たちに「異邦人の道に行きなさい。サマリヤ人の町に入って『天国が近づいた』と告げなさい」と命令していたら、弟子たちは救いを受け入れる人よりもはるかに多くのサマリヤの人々を躓かせていただろう。自分たちのことをすぐに受け入れなかったという理由で、何度も呪いと裁きの言葉を吐き捨てていたかもしれない。
こう考えると、御子が「サマリヤ人の町にはいってはいけません」と禁じながらも、サマリヤのスカルの一人の女にご自身を啓示し、同じ町の住民に真理を証ししたり(ヨハネ4章)、『善きサマリヤびとの譬え』(ルカ10:25-37)を教示したり、またその段階では受け入れられないことを知りながらも、あえてサマリヤの町を通っていこうとしたのは、このような弟子たちがやがて新生し、聖霊に満たされて福音を語りにサマリヤの町々に行く時(使徒行伝8章)のことを考えて、自ら模範を示すことで彼らを備えようとしていた、とも考えることもできるだろう。
何という知恵、何という愛だろうか。
自分たちは真剣に福音宣教をしたいと自覚しているにもかかわらず、まるで門が閉ざされ、思うようには全く展開していかないと感じる時、私達は一旦立ち止まって、自分たちがどのような霊によって動かされているかを確認するのは、非常に賢明な選択だと思う。
ヨハネ16:13における真理の聖霊の約束に関する検証(3)
●文脈の重要性
この箇所は、最後の晩餐のときに、主イエスが十二弟子に語られたことの一部です。ヨハネの福音書の13章から16章までに書かれていることは、基本的にすべて十二弟子に対する言葉ですから、彼ら以外の信者には適用できない内容が含まれるのです。
ヨハネ16:13は、正に適用できない部分です。
主イエスは、後になると十二弟子が、新約聖書を書くことになったり、教会の土台となる教えを担うようになる(エペソ2:20)ことを想定して、この御言葉を語りました。敢えてこの箇所の「すべての真理」を定義づけするなら、教会の土台となる教えとか、使徒による言い伝えということになるでしょう(2テモテ1:13~14)。
つまり、この箇所は、初代の使徒には当てはまりますが、それ以外のクリスチャンには適用できません。
(一部引用)
御子が最後の晩餐の間に啓示した聖霊についての教えを以下に抜粋してみよう。ちなみに「助け主」と和訳されている【παράκλητος paraklētos】は、「仲裁者、慰める者、弁護人」という意味で、「もうひとりの助け主」(新改訳)とあるように、御子の代わりに御子の働きをする方のことを指している。
ヨハネ14:16-17
16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
ヨハネ14:24-26
24 わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。
25 これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。
26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
ヨハネ15:26-27
26 わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。
ヨハネ16:7-8
7 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
8 それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
ヨハネ16:12-15
12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
15 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。
これらの教えの文脈は同じであるから、一つ一つは互いに補完して全体を構成するものであると言える。つまり「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り」(ヨハネ13:1)、ご自身の代わりに聖霊を遣わすことを約束し、その聖霊の働きについて予め、様々の観点で啓示しているのである。
- 永続的な内在: いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
- 御子のことば、つまり父なる神のことばを思い出させる:あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
- 御子について証しをする:それはわたしについてあかしをするであろう。
- 人間の罪と神の義と裁きについて世に示す:罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
- あらゆる真理に導き、来るべきことを啓示する:あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
- 御子の栄光について啓示し、御子に栄光を帰す:わたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
一つ一つの言葉について丹念に探究したくなる箇所だと思うが、核心的なテーマは、御子の代わりに遣わされる聖霊は、父なる神から地上に遣わされた御子自身のことを証しし、彼の言葉をそのまま伝え、御子の栄光を示すから、「真理の聖霊」と呼ばれていることである。なぜなら御子自身が真理であり、その御子についてそのまま証しするからである。
同じ文脈において御子がご自身のことを「私は道であり、真理であり、命である」と啓示しているのは偶然ではない。
ヨハネ14:6
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
つまり「真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」とある時、それは単に「私達が聖書に書かれたことから抜粋したイエス・キリストの教えの数々」を対象にしているのでなく、「信仰者が歩むべき道」であり、「信仰者を罪から解放する真理」であり、「信仰者を革新しつづける命」である御子イエス・キリストその方自身のことが対象なのである。
というのは、人間の宗教心は多くの場合、「神のことば」と「御子のいのち」を別々なものとして扱おうとする傾向があるからである。当時の最も宗教的に熱心なカテゴリーに属していたユダヤ人の律法学者やパリサイ人たちは、旧約聖書やそこから派生した様々な教えを入念に調べ、記憶し、適用しようとしていた。
しかし御子はそのような人々に欠けていた決定的な点について明確に指摘している。
ヨハネ5:39-40
39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。
まさに御子において「この言に命があった。」「言は肉体となった」(ヨハネ1:4;14)のである。
私達人間がアダムから受け継いだ性質は、「いのちの木の実」ではなく「善悪の知識の木の実」を食べようとする。「いのち」から離れた「知識」で満たされようとする。御子イエス自身のいのちのうちに、「知恵と知識との宝がいっさい隠されている」(コロサイ2:3)にもかかわらず、である。
指摘されているようなキリスト教会内での教理的不一致の問題の根源には、この「御子のいのち」と「神のことば」を別々に捉え、扱っていることがあり、まさしく「真理の御霊が全ての信仰者をあらゆる真理に導いてくれる」「真理の聖霊が御子を証しする」という約束に対して、全幅の信頼を置き、祈りの中で真理の聖霊の導きと光を待つ信仰が、私達の教会に不足しているからではないだろうか。
ヨハネ16:13における真理の聖霊の約束に関する検証(2)
(1)の続き
主イエスは、後になると十二弟子が、新約聖書を書くことになったり、教会の土台となる教えを担うようになる(エペソ2:20)ことを想定して、この御言葉を語りました。
敢えてこの箇所の「すべての真理」を定義づけするなら、教会の土台となる教えとか、使徒による言い伝えということになるでしょう(2テモテ1:13~14)。
つまり、この箇所は、初代の使徒には当てはまりますが、それ以外のクリスチャンには適用できません。
この記事のタイトルは、そういう意味です。
それが証拠に、初代の使徒たちは教理的に一致していました(使徒15章、エルサレム教会会議)。
初代教会で教理的な異論を唱えたのは、それ以外の人たちです。(一部引用)
『使徒行伝』全体、さらに使徒パウロの各書簡を読むと、実際には「教理の一致」が理念的に存在していたわけではなく、多くの議論と誘惑を通して「勝ち取られ、死守されていたもの」であることが伝わってくる。
特に「イエス・キリストにある恵みによる救い」という、福音の核とも言える教理に関しては、使徒たちを含め教会全体を揺り動かすような激しいプロセスを通して「勝ち取られ、死守された真理」であった。
順を追ってみてみよう。その「舞台」は、シリアのアンテオケにあった教会であった。
エルサレムで起きた大迫害から逃れた信仰者たちは北上し、シリアのアンテオケ(現代のトルコのAntakya)においてユダヤ人だけでなくギリシャ人にも福音を伝えたことにより、多くの人々が救われ、様々な人種が共存する国際色豊かな教会が形成された。
使徒11:19-26(新改訳)
19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。
23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。
25 バルナバはサウロを捜しにタルソヘ行き、
26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
アンテオケ教会の霊的成長は著しく、聖霊から直接二人の宣教師、バルナバとパウロが任命され、教会からアジアへ送り出すほどになっていた。
使徒13:1-3
1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。
2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。
3 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
時期的には、西暦45年頃である。当然、まだ新約聖書などなく、現代の教会で使われているような伝道用トラクトなどあるはずもなかった。ただバルナバとパウロは、聖霊の導きと力強い働きだけを信じて宣教に出たのである。
そして聖霊による多くの実をもって、彼らを派遣したアンテオケ教会に戻り、神の働きを報告した。その報告を聞いた教会が、大きな喜びに満たされたことは容易に想像できる。
使徒14:26-28
26 そこから舟でアンテオケに帰った。彼らが今なし終った働きのために、神の祝福を受けて送り出されたのは、このアンテオケからであった。
27 彼らは到着早々、教会の人々を呼び集めて、神が彼らと共にいてして下さった数々のこと、また信仰の門を異邦人に開いて下さったことなどを、報告した。
28 そして、ふたりはしばらくの間、弟子たちと一緒に過ごした。
まさにそのような霊的に大いに祝福されたアンテオケ教会において、福音の真理を実際に生きることがどういうことかが試されたのである。
使徒15:1-4
1 さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と、説いていた。
2 そこで、パウロやバルナバと彼らとの間に、少なからぬ紛糾と争論とが生じたので、パウロ、バルナバそのほか数人の者がエルサレムに上り、使徒たちや長老たちと、この問題について協議することになった。
3 彼らは教会の人々に見送られ、ピニケ、サマリヤをとおって、道すがら、異邦人たちの改宗の模様をくわしく説明し、すべての兄弟たちを大いに喜ばせた。
4 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たち、長老たちに迎えられて、神が彼らと共にいてなされたことを、ことごとく報告した。
パウロやバルナバがいたアンテオケ教会に、ユダヤ地方から「ある人々」がきて、ギリシャ人信仰者たちに「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と教え始めたのである。
当然、福音宣教によって異邦人が信仰による救いを体験していたことを実際に見ていたパウロとバルナバは、そのような教えに反駁し、エルサレム教会の使徒たちや長老たちと協議するために、都へ上った。
その時の状況を、使徒パウロは『ガラテヤびとへの手紙』の中で記述している。
ガラテヤ2:1-5
1 その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上った。
2 そこに上ったのは、啓示によってである。そして、わたしが異邦人の間に宣べ伝えている福音を、人々に示し、「重だった人たち」には個人的に示した。それは、わたしが現に走っており、またすでに走ってきたことが、むだにならないためである。
3 しかし、わたしが連れていたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼をしいられなかった。
4 それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。
5 わたしたちは、福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっているように、瞬時も彼らの強要に屈服しなかった。
使徒パウロは「ユダヤ地方からアンテオケ教会にきた、異邦人信仰者に割礼を強いる教えを説いていたある人々」のことを、「忍び込んできたにせ兄弟ら」と厳しい表現を使っている。そしてエルサレムにおいても「パリサイ派から信仰に入ってきた人たち」(つまり宗教的経緯において、使徒パウロと同じような信仰者たちであった)が、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」という教え(「割礼を受けなければ救われない」とは言っていない点に注目。実質的に「異邦人も救われているけれど、割礼を受けなければその救いは完全ではない」という教えである)を説いていた。
そしてその教えは、パリサイ派から信仰に入った人々の間だけでなく、使徒たちや長老たちの間でも少なからぬ影響があったことは、彼らの間で行われた審議(いわゆる「エルサレム会議」)において、「激しい議論」があったことからも理解できる。
使徒15:5-11
5 ところが、パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが立って、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と主張した。
6 そこで、使徒たちや長老たちが、この問題について審議するために集まった。
7 激しい争論があった後、ペテロが立って言った、「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに、諸君の中からわたしをお選びになったのである。
8 そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、
9 また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。
10 しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。
11 確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」。
使徒ペテロが異邦人とユダヤ人を分けて議論をしているところを見ると(「聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって」「われわれの先祖もわれわれ自身も」)、この審議にはユダヤ人信仰者である「使徒たちと長老たち」によって行われたことがわかる。そのような責任者たちの会議の中で使徒ペテロが「諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか」と非常に強い調子で問い詰めていること自体、如何にその教えがエルサレム教会の間で影響を与えていたかが読み取れる。
そしてこの使徒ペテロの厳しい言葉のうちに、実は目に見えない「偽善の種」が隠されていた。というのは、このような教えがエルサレムの教会において、ある日突然生れていたとは考えられず、ある程度の時間の中で少しずつ浸透していたはずだからである。しかしその危険な教えは、パウロとバルナバが指摘するまで厳格に取り扱われることはなかったのである。
パウロとバルナバだけが聖霊に満たされ、偽りの教えを識別する賜物を持っていたのだろうか。エルサレム教会には、真理の聖霊に満たされた12使徒たちがいたではないか。パウロとバルナバにその教えの危険性を示した聖霊は、12使徒たちのうちにも宿っていたはずである。
私は根拠もなく、猜疑心からこのような事を書いているわけではない。なぜなら実際に、その「目に見えない偽善の種」は、アンテオケの教会で芽を出し、死に至る実を結びかけたからである。
ガラテヤ2:11-14
11 ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。
12 というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。
13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。
14 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。
ケパ(ペテロ)は、最後の晩餐で御子イエスから真理の聖霊について聞いていた12使徒たちの一人ではなかったか。ペンテコステの日に聖霊のバプテスマを受け、真理の福音を群衆に語った使徒ではなかったか。そのような使徒であっても、「福音の真理に従ってまっすぐに歩いていない」偽善の罠に陥っていたのである。
さらに真理の御霊に満たされ、「教理の一致」のためにケパやバルナバの偽善を厳しく糾弾した使徒パウロは、一致の実践において常に正しく、過ちを犯さなかっただろうか。エルサレム会議によって「教理の一致の使者」として任命されたはずのパウロとバルナバの間で、多くの日を隔てず起きたある事件が、実践の現実の厳しさを証明している。
使徒15:22
そこで、使徒たちや長老たちは、全教会と協議した末、お互の中から人々を選んで、パウロやバルナバと共に、アンテオケに派遣することに決めた。選ばれたのは、バルサバというユダとシラスとであったが、いずれも兄弟たちの間で重んじられていた人たちであった。
使徒15:36-41
36 幾日かの後、パウロはバルナバに言った、「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか」。
37 そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。
38 しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。
39 こうして激論が起り、その結果ふたりは互に別れ別れになり、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、
40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。
41 そしてパウロは、シリヤ、キリキヤの地方をとおって、諸教会を力づけた。
だから「真理の聖霊を受けていた初代の使徒たちは、教理的に一致していました」という主張は美しいが、現実の一面しか表していない短絡的なものであり、その「教理の一致」は多くの誘惑と、過ち、霊的戦い、議論、修正などを通して、同じ真理の聖霊の力と知恵と導きによって「勝ち取られ、死守されてきたもの」である。
真理の御霊を受けることは素晴らしい恵みである。しかしその聖霊によって始めるだけではなく、同じ聖霊によって歩み続けることに、多くの失敗と過ちと葛藤と挑戦と痛み、そして信頼と勝利があることを、私達と同じ真理の御霊を受けた初代教会の使徒たちの記録が証明しているのである。
ガラテヤ3:1-3
1 ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。
2 わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。
3 あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。
ガラテヤ5:16
わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
(3)へ続く