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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

霊における「物乞い」の至福

マタイ5:1-12

1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。 

2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう

5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 

12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。 

 所謂、『山上の垂訓』と呼ばれる、御子イエスによる一連の教えが、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」という、ぱっと読めば逆説的に思える至福(「この上もない幸せ」という意味)の言葉で始まっているのは、大変印象深い。

 さらに「こころ」と和訳されている原語【πνεῦμα pneuma】は「霊」であり、「貧しい人たち」【πτωχός ptōchos】は字義的には「物乞い、乞食、貧乏人」である。つまり「霊における乞食はさいわいである」と言っているのである。

 山の上で御子の教えを聞こうと集まっていた弟子たちは、エルサレムの富裕者階級に属していなかったとはいえ、御子に従っていく前にはそれぞれ仕事を持っている人々だった。だから御子の言葉を聞いて非常に驚いたのではないかと思う。現代の先進国のような社会保障制度や人権意識がなかった時代に、「物乞い」であることが現代社会に比べてどれだけ疎外されていたか、正確に判断することは難しい(そもそも疎外を比較することはできないかも知れないが)。ただ富が神の祝福の徴であると考えられていた当時の社会において、「物乞い」は決して霊的祝福を象徴する存在ではなかったことは確かである。

 実際、ある機会に御子が「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」と説いた時、弟子たちは非常に驚いたのである。

マタイ19:25

弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。 

 弟子たちは一般通念によって「神に祝福されていた金持ちが神の国に入れないのなら、私達など入れるわけがない!」と勝手に思い込んでいたので、御子の言葉に大いに驚いたわけである。

 確かにこの「霊における物乞いは幸いである」という真理は、御子の十字架によってのみ成就するものである。聖霊によって十字架の死を自分の中で体験する時、私達の古き人も御子と共に十字架に架けられ、葬られたことを悟る。つまり私達の古き人は「すべてを失う」のである。

ガラテヤ6:14

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 

 使徒パウロは「キリストのゆえに、わたしはすべてを失った」(ピリピ3:8)と告白したが、それと同時に、復活し栄光を受けたキリストにあって、「全てを持っている」と言っているのである。

コロサイ2:9-10a

9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、 

10a そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。

 しかし私達はその満ち満ちた神の徳を、信仰によってキリストのうちに見るのであって、「繁栄の福音」の信奉者のように、地上の物質的富や繁栄、「霊的賜物」に強引に反映させようなどとは決して考えない。

コロサイ3:1-4

1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。

2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。

3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。

4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

 「上にあるもの」を味わえば味わうほど、「地上のもの」では心が満たされず、やがて顕れる「神のうちに隠されたいのち」を激しく慕い求めるようになる。

 旧約聖書の詩篇記者アサフも、御子の十字架を知らなかったにもかかわらず、「霊における物乞いの至福」の光を受けていたことが記されている。

詩篇73:25-26

25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。 

26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。 

 もし信仰者が 「霊における物乞い、乞食、貧乏人」と聞いて、侮辱や不快を感じるならば、御子イエスの十字架と自分との関係を見つめ直したほうがいいかもしれない。

「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません」の真意

マタイ10:5-6

5 イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけ、ません。

6 イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。

 12使徒を選び、宣教に遣わす前に御子が命じたこの言葉に関して、ユダヤ人の選民意識に媚を売るような解釈を読んだことがあるが、文脈を考慮すると、ただ単に福音宣教初期の優先順位を啓示しているだけではなく、異邦人、特にサマリヤ人の魂の救いに関する御子の深い憐みの心が隠されているのではないか、と思うようになった。

 なぜなら、この段階では12使徒たちを含め、弟子たちの誰も御子イエスの死と復活による聖霊を受けておらず、自分たち以外の民族の人々を、真の意味で偏見なく愛する心が全く備えられていなかったからである。

 実際、御子イエスの一行がサマリヤの町を通ってエルサレムへ上っていこうとしたとき、サマリヤ人たちが御子イエスを受け入れなかったという理由で、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」という何とも悪辣な提案した。(主は弟子たちを「最後の審判者」に任命したわけではなかった!)

ルカ9:51-56(新改訳)

51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、

52 ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。

53 しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。

54 弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」

55 しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。

56 そして一行は別の村に行った。

 55節に関して、新改訳の脚注には

*異本「そして彼は言われた。『あなたがたは自分たちがどのような霊的状態にあるのかを知らないのです。

56 人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなくそれを救うためです』」を加える。

とある。英語訳のKJVやNASB、WEB(http://biblehub.com/luke/9-55.htm 参照)において、またイタリア語訳のDDTやNRVでも、同じように挿入されている。

 つまり弟子たちは、自分たちがどのような霊によってサマリヤ人たちを扱っているか、全く理解していなかったのである。言い換えるならば、弟子たちも御子の死と復活に対する信仰によって新しく生まれ変わり、聖霊によって心を満たされなければ、サマリヤ人やその他の異邦人に、恵みの福音を伝える適性を持っていなかったのである。

 もし御子がそのまま弟子たちに「異邦人の道に行きなさい。サマリヤ人の町に入って『天国が近づいた』と告げなさい」と命令していたら、弟子たちは救いを受け入れる人よりもはるかに多くのサマリヤの人々を躓かせていただろう。自分たちのことをすぐに受け入れなかったという理由で、何度も呪いと裁きの言葉を吐き捨てていたかもしれない。

 こう考えると、御子が「サマリヤ人の町にはいってはいけません」と禁じながらも、サマリヤのスカルの一人の女にご自身を啓示し、同じ町の住民に真理を証ししたり(ヨハネ4章)、『善きサマリヤびとの譬え』(ルカ10:25-37)を教示したり、またその段階では受け入れられないことを知りながらも、あえてサマリヤの町を通っていこうとしたのは、このような弟子たちがやがて新生し、聖霊に満たされて福音を語りにサマリヤの町々に行く時(使徒行伝8章)のことを考えて、自ら模範を示すことで彼らを備えようとしていた、とも考えることもできるだろう。

 何という知恵、何という愛だろうか。

 自分たちは真剣に福音宣教をしたいと自覚しているにもかかわらず、まるで門が閉ざされ、思うようには全く展開していかないと感じる時、私達は一旦立ち止まって、自分たちがどのような霊によって動かされているかを確認するのは、非常に賢明な選択だと思う。

 

ヨハネ16:13における真理の聖霊の約束に関する検証(3)

●文脈の重要性

この箇所は、最後の晩餐のときに、主イエスが十二弟子に語られたことの一部です。ヨハネの福音書の13章から16章までに書かれていることは、基本的にすべて十二弟子に対する言葉ですから、彼ら以外の信者には適用できない内容が含まれるのです。

ヨハネ16:13は、正に適用できない部分です。

主イエスは、後になると十二弟子が、新約聖書を書くことになったり、教会の土台となる教えを担うようになる(エペソ2:20)ことを想定して、この御言葉を語りました。敢えてこの箇所の「すべての真理」を定義づけするなら、教会の土台となる教えとか、使徒による言い伝えということになるでしょう(2テモテ1:13~14)。

つまり、この箇所は、初代の使徒には当てはまりますが、それ以外のクリスチャンには適用できません。

(一部引用)

 御子が最後の晩餐の間に啓示した聖霊についての教えを以下に抜粋してみよう。ちなみに「助け主」と和訳されている【παράκλητος paraklētos】は、「仲裁者、慰める者、弁護人」という意味で、「もうひとりの助け主」(新改訳)とあるように、御子の代わりに御子の働きをする方のことを指している。

ヨハネ14:16-17

16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。

17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。 

ヨハネ14:24-26

24 わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。

25 これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。 

26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 

ヨハネ15:26-27

26 わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。

27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。

ヨハネ16:7-8

7 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。

8 それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。

ヨハネ16:12-15

12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。

13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

15 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。

 これらの教えの文脈は同じであるから、一つ一つは互いに補完して全体を構成するものであると言える。つまり「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り」(ヨハネ13:1)、ご自身の代わりに聖霊を遣わすことを約束し、その聖霊の働きについて予め、様々の観点で啓示しているのである。

  • 永続的な内在: いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
  • 御子のことば、つまり父なる神のことばを思い出させる:あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
  • 御子について証しをする:それはわたしについてあかしをするであろう。
  • 人間の罪と神の義と裁きについて世に示す:罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
  • あらゆる真理に導き、来るべきことを啓示する:あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
  • 御子の栄光について啓示し、御子に栄光を帰す:わたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

  一つ一つの言葉について丹念に探究したくなる箇所だと思うが、核心的なテーマは、御子の代わりに遣わされる聖霊は、父なる神から地上に遣わされた御子自身のことを証しし、彼の言葉をそのまま伝え、御子の栄光を示すから、「真理の聖霊」と呼ばれていることである。なぜなら御子自身が真理であり、その御子についてそのまま証しするからである。

 同じ文脈において御子がご自身のことを「私は道であり、真理であり、命である」と啓示しているのは偶然ではない。 

ヨハネ14:6

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。  

 つまり「真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」とある時、それは単に「私達が聖書に書かれたことから抜粋したイエス・キリストの教えの数々」を対象にしているのでなく、「信仰者が歩むべき道」であり、「信仰者を罪から解放する真理」であり、「信仰者を革新しつづける命」である御子イエス・キリストその方自身のことが対象なのである。

 というのは、人間の宗教心は多くの場合、「神のことば」と「御子のいのち」を別々なものとして扱おうとする傾向があるからである。当時の最も宗教的に熱心なカテゴリーに属していたユダヤ人の律法学者やパリサイ人たちは、旧約聖書やそこから派生した様々な教えを入念に調べ、記憶し、適用しようとしていた。

 しかし御子はそのような人々に欠けていた決定的な点について明確に指摘している。

ヨハネ5:39-40

39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。

40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。 

  まさに御子において「この言に命があった。」「言は肉体となった」(ヨハネ1:4;14)のである。

 私達人間がアダムから受け継いだ性質は、「いのちの木の実」ではなく「善悪の知識の木の実」を食べようとする。「いのち」から離れた「知識」で満たされようとする。御子イエス自身のいのちのうちに、「知恵と知識との宝がいっさい隠されている」(コロサイ2:3)にもかかわらず、である。

 指摘されているようなキリスト教会内での教理的不一致の問題の根源には、この「御子のいのち」と「神のことば」を別々に捉え、扱っていることがあり、まさしく「真理の御霊が全ての信仰者をあらゆる真理に導いてくれる」「真理の聖霊が御子を証しする」という約束に対して、全幅の信頼を置き、祈りの中で真理の聖霊の導きと光を待つ信仰が、私達の教会に不足しているからではないだろうか。

 

ヨハネ16:13における真理の聖霊の約束に関する検証(2)

(1)の続き

主イエスは、後になると十二弟子が、新約聖書を書くことになったり、教会の土台となる教えを担うようになる(エペソ2:20)ことを想定して、この御言葉を語りました。
敢えてこの箇所の「すべての真理」を定義づけするなら、教会の土台となる教えとか、使徒による言い伝えということになるでしょう(2テモテ1:13~14)。
つまり、この箇所は、初代の使徒には当てはまりますが、それ以外のクリスチャンには適用できません。
この記事のタイトルは、そういう意味です。
 
それが証拠に、初代の使徒たちは教理的に一致していました(使徒15章、エルサレム教会会議)。

初代教会で教理的な異論を唱えたのは、それ以外の人たちです。

(一部引用)

 『使徒行伝』全体、さらに使徒パウロの各書簡を読むと、実際には「教理の一致」が理念的に存在していたわけではなく、多くの議論と誘惑を通して「勝ち取られ、死守されていたもの」であることが伝わってくる。

 特に「イエス・キリストにある恵みによる救い」という、福音の核とも言える教理に関しては、使徒たちを含め教会全体を揺り動かすような激しいプロセスを通して「勝ち取られ、死守された真理」であった。

 順を追ってみてみよう。その「舞台」は、シリアのアンテオケにあった教会であった。

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 エルサレムで起きた大迫害から逃れた信仰者たちは北上し、シリアのアンテオケ(現代のトルコのAntakya)においてユダヤ人だけでなくギリシャ人にも福音を伝えたことにより、多くの人々が救われ、様々な人種が共存する国際色豊かな教会が形成された。

使徒11:19-26(新改訳)

19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。

20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。

21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。

22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。

23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。

24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。

25 バルナバはサウロを捜しにタルソヘ行き、

26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。 

 アンテオケ教会の霊的成長は著しく、聖霊から直接二人の宣教師、バルナバとパウロが任命され、教会からアジアへ送り出すほどになっていた。

使徒13:1-3

1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。

2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。

3 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。 

 時期的には、西暦45年頃である。当然、まだ新約聖書などなく、現代の教会で使われているような伝道用トラクトなどあるはずもなかった。ただバルナバとパウロは、聖霊の導きと力強い働きだけを信じて宣教に出たのである。

 そして聖霊による多くの実をもって、彼らを派遣したアンテオケ教会に戻り、神の働きを報告した。その報告を聞いた教会が、大きな喜びに満たされたことは容易に想像できる。

使徒14:26-28

26 そこから舟でアンテオケに帰った。彼らが今なし終った働きのために、神の祝福を受けて送り出されたのは、このアンテオケからであった。

27 彼らは到着早々、教会の人々を呼び集めて、神が彼らと共にいてして下さった数々のこと、また信仰の門を異邦人に開いて下さったことなどを、報告した。

28 そして、ふたりはしばらくの間、弟子たちと一緒に過ごした。 

 まさにそのような霊的に大いに祝福されたアンテオケ教会において、福音の真理を実際に生きることがどういうことかが試されたのである。

使徒15:1-4

1 さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と、説いていた。

2 そこで、パウロやバルナバと彼らとの間に、少なからぬ紛糾と争論とが生じたので、パウロ、バルナバそのほか数人の者がエルサレムに上り、使徒たちや長老たちと、この問題について協議することになった。

3 彼らは教会の人々に見送られ、ピニケ、サマリヤをとおって、道すがら、異邦人たちの改宗の模様をくわしく説明し、すべての兄弟たちを大いに喜ばせた。

4 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たち、長老たちに迎えられて、神が彼らと共にいてなされたことを、ことごとく報告した。

 パウロやバルナバがいたアンテオケ教会に、ユダヤ地方から「ある人々」がきて、ギリシャ人信仰者たちに「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と教え始めたのである。

 当然、福音宣教によって異邦人が信仰による救いを体験していたことを実際に見ていたパウロとバルナバは、そのような教えに反駁し、エルサレム教会の使徒たちや長老たちと協議するために、都へ上った。

 その時の状況を、使徒パウロは『ガラテヤびとへの手紙』の中で記述している。

ガラテヤ2:1-5

1 その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上った。

2 そこに上ったのは、啓示によってである。そして、わたしが異邦人の間に宣べ伝えている福音を、人々に示し、「重だった人たち」には個人的に示した。それは、わたしが現に走っており、またすでに走ってきたことが、むだにならないためである。

3 しかし、わたしが連れていたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼をしいられなかった。

4 それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。

5 わたしたちは、福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっているように、瞬時も彼らの強要に屈服しなかった。 

 使徒パウロは「ユダヤ地方からアンテオケ教会にきた、異邦人信仰者に割礼を強いる教えを説いていたある人々」のことを、「忍び込んできたにせ兄弟ら」と厳しい表現を使っている。そしてエルサレムにおいても「パリサイ派から信仰に入ってきた人たち」(つまり宗教的経緯において、使徒パウロと同じような信仰者たちであった)が、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」という教え(「割礼を受けなければ救われない」とは言っていない点に注目。実質的に「異邦人も救われているけれど、割礼を受けなければその救いは完全ではない」という教えである)を説いていた。

 そしてその教えは、パリサイ派から信仰に入った人々の間だけでなく、使徒たちや長老たちの間でも少なからぬ影響があったことは、彼らの間で行われた審議(いわゆる「エルサレム会議」)において、「激しい議論」があったことからも理解できる。

使徒15:5-11

5 ところが、パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが立って、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と主張した。

6 そこで、使徒たちや長老たちが、この問題について審議するために集まった。

7 激しい争論があった後、ペテロが立って言った、「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに、諸君の中からわたしをお選びになったのである。

8 そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、

9 また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。

10 しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。

11 確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」。

 使徒ペテロが異邦人とユダヤ人を分けて議論をしているところを見ると(「聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって」「われわれの先祖もわれわれ自身も」)、この審議にはユダヤ人信仰者である「使徒たちと長老たち」によって行われたことがわかる。そのような責任者たちの会議の中で使徒ペテロが「諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか」と非常に強い調子で問い詰めていること自体、如何にその教えがエルサレム教会の間で影響を与えていたかが読み取れる。

 そしてこの使徒ペテロの厳しい言葉のうちに、実は目に見えない「偽善の種」が隠されていた。というのは、このような教えがエルサレムの教会において、ある日突然生れていたとは考えられず、ある程度の時間の中で少しずつ浸透していたはずだからである。しかしその危険な教えは、パウロとバルナバが指摘するまで厳格に取り扱われることはなかったのである。

 パウロとバルナバだけが聖霊に満たされ、偽りの教えを識別する賜物を持っていたのだろうか。エルサレム教会には、真理の聖霊に満たされた12使徒たちがいたではないか。パウロとバルナバにその教えの危険性を示した聖霊は、12使徒たちのうちにも宿っていたはずである。

 私は根拠もなく、猜疑心からこのような事を書いているわけではない。なぜなら実際に、その「目に見えない偽善の種」は、アンテオケの教会で芽を出し、死に至る実を結びかけたからである。

ガラテヤ2:11-14

11 ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。

12 というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。

13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。

14 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。

  ケパ(ペテロ)は、最後の晩餐で御子イエスから真理の聖霊について聞いていた12使徒たちの一人ではなかったか。ペンテコステの日に聖霊のバプテスマを受け、真理の福音を群衆に語った使徒ではなかったか。そのような使徒であっても、「福音の真理に従ってまっすぐに歩いていない」偽善の罠に陥っていたのである。

 さらに真理の御霊に満たされ、「教理の一致」のためにケパやバルナバの偽善を厳しく糾弾した使徒パウロは、一致の実践において常に正しく、過ちを犯さなかっただろうか。エルサレム会議によって「教理の一致の使者」として任命されたはずのパウロとバルナバの間で、多くの日を隔てず起きたある事件が、実践の現実の厳しさを証明している。

使徒15:22

そこで、使徒たちや長老たちは、全教会と協議した末、お互の中から人々を選んで、パウロやバルナバと共に、アンテオケに派遣することに決めた。選ばれたのは、バルサバというユダとシラスとであったが、いずれも兄弟たちの間で重んじられていた人たちであった。 

使徒15:36-41

36 幾日かの後、パウロはバルナバに言った、「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか」。

37 そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。

38 しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。

39 こうして激論が起り、その結果ふたりは互に別れ別れになり、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、

40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。

41 そしてパウロは、シリヤ、キリキヤの地方をとおって、諸教会を力づけた。 

 だから「真理の聖霊を受けていた初代の使徒たちは、教理的に一致していました」という主張は美しいが、現実の一面しか表していない短絡的なものであり、その「教理の一致」は多くの誘惑と、過ち、霊的戦い、議論、修正などを通して、同じ真理の聖霊の力と知恵と導きによって「勝ち取られ、死守されてきたもの」である。

 真理の御霊を受けることは素晴らしい恵みである。しかしその聖霊によって始めるだけではなく、同じ聖霊によって歩み続けることに、多くの失敗と過ちと葛藤と挑戦と痛み、そして信頼と勝利があることを、私達と同じ真理の御霊を受けた初代教会の使徒たちの記録が証明しているのである。

ガラテヤ3:1-3

1 ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。 

2 わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。

3 あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。

ガラテヤ5:16

わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 

(3)へ続く

ヨハネ16:13における真理の聖霊の約束に関する検証(1)

ヨハネの福音書の13章から16章までに書かれていることは、基本的にすべて十二弟子に対する言葉ですから、彼ら以外の信者には適用できない内容が含まれるのです。
ヨハネ16:13は、正に適用できない部分です。

(一部引用)

 このような主張は、聖書的に正当性があるかどうか検証してみたい。まず中心的聖句をその前の聖句と共に検証してみよう。

12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。

13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

 この文章そのものを読めば、御子イエスはその場にいた弟子たちに真理の聖霊がまだ来ていなかったために、その時点では多くの言葉を弟子たちに語ることができないが、ご自身が真理の聖霊を遣わすときにはその問題が解決することを明確に約束しているのである。つまり「12弟子たちが最後の晩餐の場で御子の言葉を直接聞いている」という、文脈上のメリットについて主張しておらず、むしろ強調している点はその時点では実現していなかった「真理の聖霊が来る時」と「その聖霊の働き」である。

 それでは御子が啓示している「真理の聖霊が来る時」とは、いつのことを指しているのだろうか。御子が死から復活して怯え隠れていた弟子たちに「聖霊を受けなさい」といって息を吹きかけた時、という見解もある。

ヨハネ20:19-22

19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。

20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。

22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。 

 しかし以下の聖句などを読むと、御子が語っていたのは、死から復活し地上において40日間弟子たちに度々顕れていた時期のことでなく、天に引き上げられた後のこと、つまりペンテコステの時の聖霊の働きを指していたことがわかる。

ヨハネ16:7

しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。

ルカ24:49

見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。 

使徒1:3-5;8-9

3 イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。

4 そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。

5 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。

8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

9 こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。

 そしてその御子の約束が成就し、実際に聖霊が下った時、最後の晩餐に参加していた12弟子たちだけでなく、120人近い人々が集まり、祈っていたのである。

使徒1:13-15a

13 彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。

14 彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。

15a そのころ、百二十名ばかりの人々が、一団となって集まっていた

使徒2:1-4

1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、

2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。

3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。

4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

 そして聖霊を受けたペテロが、最後の晩餐において御子が約束した言葉の成就を証しし、聴衆がそれを目撃したことを語っている。実際、エルサレムの聴衆は「あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」と驚き、120人近い弟子たち(「みんなの者」「一同」に注目)が真理の聖霊によって神の大きな働きを宣べ伝えるのを聞いたのである。

使徒2:33

それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。

 ペテロはさらに、自分たちが受けた聖霊の賜物の約束が、12弟子たちだけに限定されたものではなく、「われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」と御霊に満たされて証しているのである。

使徒2:38-39

38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。

39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。

 そのペンテコステの日の聖霊の働きによって、3千人近くの人々が救われ、バプテスマを受けたとも書かれている。

使徒2:41

そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。

 さらに同じ使徒ペテロが、カイザリヤにいたローマ帝国の軍人コルネリオの家に福音を語るために訪れ、そこに聖霊が下った時、ペテロはそこにいた異邦人たちが「自分たちと同じように聖霊を受けた」と証しているのである。

使徒10:44-47

44 ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。

45 割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。

46 それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出した、

47 「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。

 ペテロはエルサレムに戻って兄弟たちに報告をした時、御子によって約束され、実際に自分たちが受けた聖霊の賜物を、神が異邦人にも全く同じように与えてくださったのを見て、御子の約束の言葉を思い出したことを証した。

使徒11:15-17

15 そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった。

16 その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰せになった言葉を思い出した。

17 このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。

 それはまさに御子が最後の晩餐において約束した聖霊の働きの成就である。

ヨハネ14:26

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。

 父なる神が御子の名によって、ユダヤ人にも異邦人に対しても、信じる者皆に同じように聖霊を与えてくださった以上、その三位一体の神の約束「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです」を、「この箇所は、初代の使徒には当てはまりますが、それ以外のクリスチャンには適用できません」と限定する根拠は全くないと言える。

 聖霊は絶対主権者である神の位格であり、その方がご自身の性質に基づいて、信仰者の心の中でどのように働くべきか、私達が決定することではない。

Ⅰコリント12:11ー13

11 すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。

12 からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。

13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。

Ⅱコリント4:13

「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。

 

(2)に続く

異邦人が全部救われるに至る時まで

ローマ11:25-27

25 兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、

26 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。

27 そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。

 25節では、イスラエル人の救いの計画が、異邦人【ἔθνος ethnos】の救いの完了【πλήρωμα plērōma】(原語では「時間」よりも「状態」を啓示している)の次のステップとして成就することが啓示されている。

 当然、信仰による救いの福音の啓示に基づけば、「異邦人が全部救われるに至る時まで」という表現が、万人救済論を主張しているわけではなく、全世界に救いの福音が宣べ伝えられ、各自が個人の責任においてそれを信じる機会を与えられることになる状態を指している。その平等な機会は、愛の神の願いに基づくものである。

Ⅰテモテ2:4
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。

 勿論、それは神自身が「これ以上はもういい」と判断される状態であり、全知の神だけがその「満期」をご存じで、人間にはそれがいつ満ちるか知ることができない「時」である。

 ちょうど御子イエスが「時の満ちる時に及んで」この地上に与えられたが、多くの明確なしるしにもかかわらず、人々はその「訪れの時」を知らずにいて、また知ろうともせず、御子が地上から去ったのと同じである。

ガラテヤ4:4
しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。

ルカ13:34-35

34 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

35 見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。

ルカ19:41-44

41 いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、

42 「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。

43 いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、

44 おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。

 使徒パウロは「異邦人の救いの時」に関して語っているが、ルカは似たような「異邦人の時期」について語りながらも、大患難期を含む、諸国の裁きの時までの終末論的時期を啓示している。

ルカ21:20-24

20 エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。

21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。

22 それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ。

23 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、

24 彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。

 ちなみに24節において「諸国」「異邦人」と和訳されている原語は同じ【ἔθνος ethnos】で、複数形である。また「時期」と和訳されている【καιροι kairoi】は複数形で、ルカ19:44の「神の訪れの時」と「時」は単数形なのは興味深い。

 黙示録はこの「エルサレムが異邦人に踏みにじられている時」のクライマックスである、大患難期後半の42か月間について特記している。

黙示録11:1-2

1 それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。

2 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。

 このように新約聖書は恵みの福音に基づき、救いに関して「イスラエル人(ユダヤ人)とその他の異邦人の違いはないこと」と啓示しながらも(ローマ10:12参照)、その神の救済の働きの計画の成就においては区別化されていることがわかる。

主なる神が「偽りを信じるように迷わす力を送る」時がやがて来る

Ⅱテサロニケ2:9-12

9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、

10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。

11 そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、

12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。

 神の甚大な恵みと慈愛によって救いを受け、日々支えられている存在として、私が神の恵みについて証しするとき、誇張し過ぎることは決してないだろう。実際、それはまるで預言者エゼキエルが見た、神殿から溢れ出る泉のようで、いつの間にか川となり、泳いで渡ることすらできないほど深く、その流れは力強い。

 その恵みの深遠さを考えれば、私はまだ浅瀬でちゃぷちゃぷと水遊びをしている子供のような存在なのかもしれない。11節を読んでいまだにその峻厳さにある種の「気まずさ」を感じるのは、御子イエス・キリストが払ってくださった恵みの代価に関して理解がまだまだ浅く、その恵みを踏みにじる選択に対する神の正当な怒りが大患難期において下るべきことに実感が伴っていないからだろう。

 11節の「偽りを信じるように、迷わす力を世に送る」の主語は、間違いなく「神」である。信じる者が救われるために、神の力としての「十字架につけられたキリスト」を与え、真理の御霊を遣わしてくださった方自身が、「偽りを信じるように迷わす力を送る」とは、何という啓示だろうか。

Ⅰコリント1:21-24

21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 

22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 

23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、

24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

ヨハネ14:16-17

16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。

17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。 

 信仰者は「誰も傷つけないため」に、この部分をスルーすべきだろうか。あるいはギリシャ語の蘊蓄で「もう少し受け入れやすくソフトなメッセージ」にすべきか。

 使徒パウロは「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」(ローマ5:10)と書いたが、敵に対してさえ和解のための手を差し出す方を拒絶し、神の敵としての立場を自ら選ぶことが一体何をもたらすか、信仰者にはそれを誤魔化したり、覆いを被せたりする権利はない。

へブル10:28-31

28 モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、

29 神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。

30 「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。

31 生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。

 今この瞬間の「恵み」が、不可逆的に「裁き」と変わる時が確かにくる。だから救いの手が差し伸べられている「今日」そして「今」、その救いを探し求めてほしい。

イザヤ55:6-7

6 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。

7 悪しき者はその道を捨て、正らぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。