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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ヨハネ16:13における真理の聖霊の約束に関する検証(1)

ヨハネの福音書の13章から16章までに書かれていることは、基本的にすべて十二弟子に対する言葉ですから、彼ら以外の信者には適用できない内容が含まれるのです。
ヨハネ16:13は、正に適用できない部分です。

(一部引用)

 このような主張は、聖書的に正当性があるかどうか検証してみたい。まず中心的聖句をその前の聖句と共に検証してみよう。

12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。

13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

 この文章そのものを読めば、御子イエスはその場にいた弟子たちに真理の聖霊がまだ来ていなかったために、その時点では多くの言葉を弟子たちに語ることができないが、ご自身が真理の聖霊を遣わすときにはその問題が解決することを明確に約束しているのである。つまり「12弟子たちが最後の晩餐の場で御子の言葉を直接聞いている」という、文脈上のメリットについて主張しておらず、むしろ強調している点はその時点では実現していなかった「真理の聖霊が来る時」と「その聖霊の働き」である。

 それでは御子が啓示している「真理の聖霊が来る時」とは、いつのことを指しているのだろうか。御子が死から復活して怯え隠れていた弟子たちに「聖霊を受けなさい」といって息を吹きかけた時、という見解もある。

ヨハネ20:19-22

19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。

20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。

22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。 

 しかし以下の聖句などを読むと、御子が語っていたのは、死から復活し地上において40日間弟子たちに度々顕れていた時期のことでなく、天に引き上げられた後のこと、つまりペンテコステの時の聖霊の働きを指していたことがわかる。

ヨハネ16:7

しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。

ルカ24:49

見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。 

使徒1:3-5;8-9

3 イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。

4 そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。

5 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。

8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

9 こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。

 そしてその御子の約束が成就し、実際に聖霊が下った時、最後の晩餐に参加していた12弟子たちだけでなく、120人近い人々が集まり、祈っていたのである。

使徒1:13-15a

13 彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。

14 彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。

15a そのころ、百二十名ばかりの人々が、一団となって集まっていた

使徒2:1-4

1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、

2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。

3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。

4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

 そして聖霊を受けたペテロが、最後の晩餐において御子が約束した言葉の成就を証しし、聴衆がそれを目撃したことを語っている。実際、エルサレムの聴衆は「あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」と驚き、120人近い弟子たち(「みんなの者」「一同」に注目)が真理の聖霊によって神の大きな働きを宣べ伝えるのを聞いたのである。

使徒2:33

それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。

 ペテロはさらに、自分たちが受けた聖霊の賜物の約束が、12弟子たちだけに限定されたものではなく、「われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」と御霊に満たされて証しているのである。

使徒2:38-39

38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。

39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。

 そのペンテコステの日の聖霊の働きによって、3千人近くの人々が救われ、バプテスマを受けたとも書かれている。

使徒2:41

そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。

 さらに同じ使徒ペテロが、カイザリヤにいたローマ帝国の軍人コルネリオの家に福音を語るために訪れ、そこに聖霊が下った時、ペテロはそこにいた異邦人たちが「自分たちと同じように聖霊を受けた」と証しているのである。

使徒10:44-47

44 ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。

45 割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。

46 それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出した、

47 「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。

 ペテロはエルサレムに戻って兄弟たちに報告をした時、御子によって約束され、実際に自分たちが受けた聖霊の賜物を、神が異邦人にも全く同じように与えてくださったのを見て、御子の約束の言葉を思い出したことを証した。

使徒11:15-17

15 そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった。

16 その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰せになった言葉を思い出した。

17 このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。

 それはまさに御子が最後の晩餐において約束した聖霊の働きの成就である。

ヨハネ14:26

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。

 父なる神が御子の名によって、ユダヤ人にも異邦人に対しても、信じる者皆に同じように聖霊を与えてくださった以上、その三位一体の神の約束「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです」を、「この箇所は、初代の使徒には当てはまりますが、それ以外のクリスチャンには適用できません」と限定する根拠は全くないと言える。

 聖霊は絶対主権者である神の位格であり、その方がご自身の性質に基づいて、信仰者の心の中でどのように働くべきか、私達が決定することではない。

Ⅰコリント12:11ー13

11 すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。

12 からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。

13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。

Ⅱコリント4:13

「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。

 

(2)に続く

異邦人が全部救われるに至る時まで

ローマ11:25-27

25 兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、

26 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。

27 そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。

 25節では、イスラエル人の救いの計画が、異邦人【ἔθνος ethnos】の救いの完了【πλήρωμα plērōma】(原語では「時間」よりも「状態」を啓示している)の次のステップとして成就することが啓示されている。

 当然、信仰による救いの福音の啓示に基づけば、「異邦人が全部救われるに至る時まで」という表現が、万人救済論を主張しているわけではなく、全世界に救いの福音が宣べ伝えられ、各自が個人の責任においてそれを信じる機会を与えられることになる状態を指している。その平等な機会は、愛の神の願いに基づくものである。

Ⅰテモテ2:4
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。

 勿論、それは神自身が「これ以上はもういい」と判断される状態であり、全知の神だけがその「満期」をご存じで、人間にはそれがいつ満ちるか知ることができない「時」である。

 ちょうど御子イエスが「時の満ちる時に及んで」この地上に与えられたが、多くの明確なしるしにもかかわらず、人々はその「訪れの時」を知らずにいて、また知ろうともせず、御子が地上から去ったのと同じである。

ガラテヤ4:4
しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。

ルカ13:34-35

34 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

35 見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。

ルカ19:41-44

41 いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、

42 「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。

43 いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、

44 おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。

 使徒パウロは「異邦人の救いの時」に関して語っているが、ルカは似たような「異邦人の時期」について語りながらも、大患難期を含む、諸国の裁きの時までの終末論的時期を啓示している。

ルカ21:20-24

20 エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。

21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。

22 それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ。

23 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、

24 彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。

 ちなみに24節において「諸国」「異邦人」と和訳されている原語は同じ【ἔθνος ethnos】で、複数形である。また「時期」と和訳されている【καιροι kairoi】は複数形で、ルカ19:44の「神の訪れの時」と「時」は単数形なのは興味深い。

 黙示録はこの「エルサレムが異邦人に踏みにじられている時」のクライマックスである、大患難期後半の42か月間について特記している。

黙示録11:1-2

1 それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。

2 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。

 このように新約聖書は恵みの福音に基づき、救いに関して「イスラエル人(ユダヤ人)とその他の異邦人の違いはないこと」と啓示しながらも(ローマ10:12参照)、その神の救済の働きの計画の成就においては区別化されていることがわかる。

主なる神が「偽りを信じるように迷わす力を送る」時がやがて来る

Ⅱテサロニケ2:9-12

9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、

10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。

11 そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、

12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。

 神の甚大な恵みと慈愛によって救いを受け、日々支えられている存在として、私が神の恵みについて証しするとき、誇張し過ぎることは決してないだろう。実際、それはまるで預言者エゼキエルが見た、神殿から溢れ出る泉のようで、いつの間にか川となり、泳いで渡ることすらできないほど深く、その流れは力強い。

 その恵みの深遠さを考えれば、私はまだ浅瀬でちゃぷちゃぷと水遊びをしている子供のような存在なのかもしれない。11節を読んでいまだにその峻厳さにある種の「気まずさ」を感じるのは、御子イエス・キリストが払ってくださった恵みの代価に関して理解がまだまだ浅く、その恵みを踏みにじる選択に対する神の正当な怒りが大患難期において下るべきことに実感が伴っていないからだろう。

 11節の「偽りを信じるように、迷わす力を世に送る」の主語は、間違いなく「神」である。信じる者が救われるために、神の力としての「十字架につけられたキリスト」を与え、真理の御霊を遣わしてくださった方自身が、「偽りを信じるように迷わす力を送る」とは、何という啓示だろうか。

Ⅰコリント1:21-24

21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 

22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 

23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、

24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

ヨハネ14:16-17

16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。

17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。 

 信仰者は「誰も傷つけないため」に、この部分をスルーすべきだろうか。あるいはギリシャ語の蘊蓄で「もう少し受け入れやすくソフトなメッセージ」にすべきか。

 使徒パウロは「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」(ローマ5:10)と書いたが、敵に対してさえ和解のための手を差し出す方を拒絶し、神の敵としての立場を自ら選ぶことが一体何をもたらすか、信仰者にはそれを誤魔化したり、覆いを被せたりする権利はない。

へブル10:28-31

28 モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、

29 神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。

30 「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。

31 生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。

 今この瞬間の「恵み」が、不可逆的に「裁き」と変わる時が確かにくる。だから救いの手が差し伸べられている「今日」そして「今」、その救いを探し求めてほしい。

イザヤ55:6-7

6 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。

7 悪しき者はその道を捨て、正らぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。

来臨の兆候と人間の弱さ

マタイ24:36-44

36 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。

37 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。

38 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。

39 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。

40 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。

41 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。

42 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。

43 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。

44 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。 

ルカ21:34-36

34 あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。

35 その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。

36 これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。 

「あなたがたも用意していなさい」

「よく注意していなさい」

「絶えず目を覚まして祈っていなさい」

 御子のこれらの命令は、私達が「食い、飲み、めとり、とつぎなどしている」時、つまりごく通常の生活を営んでいる時に、いつ来るかわからない主イエスの来臨のために備えるためには、継続的な注意と祈りが必要であることを示している。なぜなら、言うまでもないことだが、私達の性質は不断の注意や祈りとは全く異なることに魅かれてしまう傾向があるからである。

 確かに主なる神は私達人間の性質をよくご存じである。私達はまるで今生きているこの地上の生活が、明日も明後日も、そして何年も続くと思い込み、「さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」と心の中で自分を祝福し、「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と将来の計画を立て、さらに「主人の帰りは遅い」「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と思いがちである。

ルカ12:19

そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。

ヤコブ4:13-15

13 よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。

14 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。

15 むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。 

ルカ12:45

しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、 

Ⅱぺテロ3:3ー4

3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、 

4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。 

 とても意味深いのは、冒頭のマタイの聖句の箇所の前に、御子イエスは来臨の兆候について多くの啓示し、「すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」と言っていることである。

マタイ24:32-33

32 いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。

33 そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 

 つまりある意味、「人がイチジクの木の枝に葉が出てくることによって夏が近いことがわかり」、「家の主人が強盗の気配を察し、目をさましていて、自分の家に押し入ることを警戒する」ように、これらの兆候を実際に見ることによって、「人の子(御子イエスのこと)が戸口まで近づいている」ことを知ることができる、と言っているのにもかかわらず、「あなたがたも用意していなさい」「よく注意していなさい」「絶えず目を覚まして祈っていなさい」と繰り返し警告しているのである。

 それは御子の来臨の兆候が全くないからではなく、多くの兆候があるにもかかわらず、「放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍って」、霊的に鈍感になってしまう危険性を示しており、また今も働き、大患難期には歯止めなく働くことになる惑わしの霊のゆえではないだろうか。

Ⅱテサロニケ2:9-12

9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、

10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。

11 そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、

12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。

 信仰の祈りを通して御子との交わりを途切れないようにすることで、「これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができる」という教えは、弱い私達にとって大きな慰めであり、希望の光である。

ルカ21:36

これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」

【parousia】と「キリストの地上来臨」の関連性に関する検証

第二テサロニケ2:1-12

1 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちがみもとに集められることとについて、あなたがたにお願いすることがある。 

2 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。

3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。

4 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。

5 わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。

6 そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。

7 不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。

8 その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。

9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、

10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。

11 そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、 

12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。 

1 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちがみもとに集められることとについて、あなたがたにお願いすることがある。 

8 その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。

 ここでは、主イエス・キリストが地上を裁くために来臨することを示している。実際、「不法の者」「滅びの子」「反キリスト」つまり黙示録に啓示されている「獣」は、御子の地上来臨によって裁かれることになると啓示されている。

黙示録19:19-20

19 なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。

20 しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。 

 「来臨」と和訳されている原語【παρουσία parousia】が「臨在」という身体的様相を含むニュアンスをもつことから、そのニュアンスを特別視し、使徒パウロがこの単語をキリストの地上来臨を指すために特定的な使い方をしているように主張する説がある。

 しかし実際には同じ目的のために別の単語【ἀποκάλυψις apokalupsis】も使われているのである。

Ⅱテサロニケ1:7

それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる(apokalupsis)時に実現する。

 また「滅びの子」「不法の者」つまり反キリストが肉体をもってこの世の顕れることに関して、使徒パウロは【apokaluptō】と【parousia】の両方の単語を使っている。

3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れる(apokaluphthE)にちがいない。 

6 そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れる(apokaluphthEnai)ように、いま彼を阻止しているものがある。 

8 その時になると、不法の者が現れる(apokaluphthEsetai)。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。 

9 不法の者が来る(parousia)のは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、

 つまり使徒パウロは【parousia】がもつ「臨在」というニュアンスを強調して使い分けているわけではなく、【apokaluptō】と同じ意味で使っている以上、【parousia】は「教会携挙のための空中再臨」か「裁きのための地上再臨」を識別する根拠とはなり得ないことがわかる。

 また興味深いことに、使徒パウロは「臨在」という意味をもつ別の単語【πρόσωπον prosōpon】(和訳では「御顔」)を同じ文脈な中で使っていることである。

Ⅱテサロニケ1:9

そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。 

 そして黙示録においては、まだ裁きのための御子の地上再臨が実現していないにもかかわらず、地上にいる人々が天の御座におられる神の臨在に恐れおののいているので、「臨在のニュアンスをもつ【parousia】は地上来臨を示している」という説は根拠がないと言える。

黙示録6:16-17

16 そして、山と岩とにむかって言った、「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。

17 御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。

ダニエル書12章の預言と大患難期

ダニエル12:1-13

1 その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。また国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。

2 また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。 

3 賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。

4 ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」。

5 そこで、われダニエルが見ていると、ほかにまたふたりの者があって、ひとりは川のこなたの岸に、ひとりは川のかなたの岸に立っていた。

6 わたしは、かの亜麻布を着て川の水の上にいる人にむかって言った、「この異常なできごとは、いつになって終るでしょうか」と。

7 かの亜麻布を着て、川の水の上にいた人が、天に向かって、その右の手と左の手をあげ、永遠に生ける者をさして誓い、それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民を打ち砕く力が消え去る時に、これらの事はみな成就するだろうと言うのを、わたしは聞いた。

8 わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった。わたしは言った、「わが主よ、これらの事の結末はどんなでしょうか」。

9 彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。

10 多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。

11 常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。

12 待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです。

13 しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」。

 預言者ダニエルは二つの質問をしている。

  • 「この異常なできごとは、いつになって終るでしょうか」
  • 「わが主よ、これらの事の結末はどんなでしょうか」(新改訳「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。」 )

「国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時」が「いつ」終わるのか、「どう」終わるのか、を質問しているのである。ここで「国」と和訳されている原語【גּוֹי gôy】は、イスラエルではなく異邦人の国のことを指しているので、その患難はイスラエルだけでなく全世界に及ぶ規模のもの、つまり大患難期について語っている。『マタイによる福音書』に書き記されている御子の言葉は、御子がダニエル書の12章の預言について語っていたことがわかる。

マタイ24:15-21

15 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、

16 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。

17 屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。

18 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。

19 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。

20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。

21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。

22 もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。 

 このマタイに書かれている「聖なる場所」「ユダヤにいる人々」「安息日」というディティールと、ダニエルに対する「あなたの民」という言葉から考えると、22節の「選民」とは信仰者全般というより、イスラエルの民のことを示していると思われる。

 そして「いつになって終わるのか」という質問に対して、「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民を打ち砕く力が消え去る時に、これらの事はみな成就するだろう」と答えている。つまり大患難期後半の三年半の最後にイスラエルの民を迫害する獣が裁かれ、サタンが縛られる時のことを示している。

 興味深いのは、ダニエルの二番目の質問「この終わりはどうなるでしょうか」にはダイレクトには答えず、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。」と答え、さらに「常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている」と回答している点である。

 ここでの「時(単数)」の連体修飾節は、「常供の燔祭が取り除かれる」と「荒す憎むべきものが立てられる」の両方であるから、二つは時を隔てた別々の事象ではなく、一連の出来事であることを意味する。

 「終わり」が「常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時」から42か月(黙示録13:5参照)より若干長い1290日なのは、その「終わり」が「荒らす憎むべき者の終わり」、つまり反キリストの裁きについてではなく、サタンの捕囚の時を指しているからではないかと思う。

「二人の証人の活動期間」と「獣の活動期間」

黙示録11:1-13

1 それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。 

2 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。

3 そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。

7 そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。

8 彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。 

9 いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。

10 地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。

11 三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がったので、それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。

12 その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを、彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。 

13 この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。

 3節には明確に、二人の証人がエルサレムにおいて預言活動する期間が「1260日」つまり約3年半であると記されている。(この強烈なアイデンティティーをもった二人の証人の活動を開始するタイミングについては、聖書に明記されていないことは意味深い。)

わたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう

 その活動期間が神の許可、つまり神の御心と導きによるものであることは、「許そう」という表現からだけでなく、その活動が完了してから、彼らが「底知れぬ所からのぼって来る獣」によって殺されたことからも理解できる。つまり神が定めていた1260日という期間は、誰にも中断されず完了するのである。

そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。

 神の任務を終えた二人の証人を殺すことになる「獣」については、13章に詳細が啓示されている。

黙示録13:1-8

1 (12:18) (そして、海の砂の上に立った。)

わたしはまた、一匹の獣が海から上って来るのを見た。それには角が十本、頭が七つあり、それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついていた。

2 わたしの見たこの獣はひょうに似ており、その足はくまの足のようで、その口はししの口のようであった。龍は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた。

3 その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった。そこで、全地の人々は驚きおそれて、その獣に従い、

4 また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」。

5 この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。

6 そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。

7 そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。

8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。 

 この海から上がってくる獣は反キリストであり、この者に権威を与える龍はサタン、悪魔である。

黙示録20:2

彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、 

 サタンは反キリストに「四十二か月」つまり3年半の活動する時間を授けることになる。

この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。

 そして『黙示録』の中には、この「底知れぬ所からのぼって来る」「海から上ってくる」時期より前にこの獣の顕現に関する記述がないことから(第一の封印が解かれる時に出現する白い馬に乗った者に関しては、解釈の分かれるところである)、反キリストがこの世に現れ、その邪悪な活動を地上においてするのは、二人の証人の活動期間の3年半が完了した後の、次の3年半の期間であることがわかる。

 そして反キリストの活動期間は、白い馬に乗って顕れる「王なる王、主なる主」である御子イエス・キリストの裁きによって終了する。

黙示録19:19-20

19 なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。 

20 しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。 

 ダニエル書の「荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている」というのは、サタンの捕囚の時を指し、千三百三十五日は義人が待ち望む「第一の復活」の時を指しているのかもしれない。

ダニエル12:11-13

11 常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。

12 待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです

13 しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」。

黙示録20:1-6

1 またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。

2 彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、

3 そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。

4 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。

5 (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。

6 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。 

  もう一つ興味深い点は、「二人の証人の活動期間」が完了し、「獣の活動期間」が始まった段階で、神の御前にいる二十四人の長老が、「すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時」の到来を告げていることである。

黙示録11:15-18

15 第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。

16 そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、

17 「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。

18 諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました」。