an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

エリクソン氏の「再臨の切迫性」に関する意見の検証

 M・J・エリクソン氏は『キリスト教神学 第4巻』の中で「再臨の切迫性」というテーマに関して、大患難前携挙説の論拠を列挙した後、以下のような意見を記している。

しかしながら、よく調べてみると、これらの議論に十分な説得力はない。ご自身が来ることに気をつけているようにというキリストの命令や、思いがけないときにはっきりした兆候もなく来るという警告は、それが切迫していることを必ず意味するのだろうか。すでに約2千年という期間が間に存在している。正確な時も知らないが、今も知っていることは、まだであるということである。いつ起こるかわからないからといって、ある一定の時には起こらないとわかっているということにはならない。

 さらにイエスの言明は、それが発表されたとき、再臨が切迫していることを意味していなかった。イエスは少なくとも三つのたとえ話(遠い国に言った身分の高い人―ルカ19:11-27、賢い娘と愚かな娘―マタイ25:5、タラントー25:19)で、遅れがあることを示した。同じように、しもべのたとえ(マタイ24:45-51)では、しもべたちが自分の品性を証明するには時間が必要である。加えて、再臨の前にはある出来事が起こっていなければならなかった。たとえば、ペテロが歳を取って弱くなり(ヨハネ21:18)、福音は全世界に宣べ伝えられ(マタイ24:14)、神殿は破壊される(24:2)。もしこれらの出来事が、イエスが戻ってくる前に起こっていなければならなかったのなら、再臨が直ちに起こっていたはずはない。イエスが「目をさましていなさい」、「その時をあなたがたは知らない」と言ったことは、ある出来事が起こるのを許すために遅れがあるということと矛盾しない。

 これは切迫性を語ることが不適切だと言っているのではない。ただし、切迫しているのは、再臨という一つの出来事というより、それを取り巻く出来事の複合体のほうである。この複合体が切迫している(imminent)のであり、再臨そのものは「近い将来起こる」(”impending” )、というべきなのであろう。

 

(『キリスト教神学 第4巻』ミラード・J・エリクソン著 いのちのことば社 402頁から引用)

 それではエリクソン氏の意見には、論駁の余地のないほどに十分な説得力があると言えるだろうか。「正確な時も知らないが、今も知っていることは、まだであるということである」とあるが、「まだ」起こっていないからと言って、「次の瞬間に起こらない」と言えるのだろうか。御子の譬えを使うならば、大洪水がそれまで一度も起きていなかったからと言って、義の伝道者ノアは当時の人々に「まだ大洪水は起こらない」と語ったのだろうか。今まで泥棒に入られたことがないからといって、「今しばらくは入らないだろう」と言えるのだろうか。

 さらにエリクソン氏が「再臨の前にはある出来事が起こっていなければならなかった」と言って列挙している三つの出来事のうち、少なくとも二つは大分前にすでに起こっているのである!使徒ペテロは1世紀に殉教し、エルサレムの神殿は西暦70年に完全に破壊された。唯一、御子イエスの再臨が「遅れている」(それは神にとっての「遅れ」ではない)としたら、もう一つの出来事「福音は全世界に宣べ伝えられなければならない」だけが理由である。

 実際、聖書にはこう書かれている。

Ⅱペテロ3:3-9

3  まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、 

4  次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」 

5  こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、 

6  当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。 

7  しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。 

8  しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 

9  主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 

 御子が復活して聖霊を遣わした時から約2千年近く経過した時代に生きる私達が、もし福音の恵みに与っているのならば、それはただこの「遅れ」、つまり神の忍耐と慈悲深い愛によるものであることを再度覚える必要があるだろう。電車がたまたま遅れてそれに飛び乗ることができたからと言って、「今すぐには出発しない」「まだ出発までに時間がある」とホームに留まっている人々に言うのは正しくない。

 主なる神による福音宣教命令を意識している信仰者は、再臨の時を待ち望むと同時に、それが恵みの時の終わりと主の裁きの日の始まりを意味していることを知っているからこそ、再臨か「複合体」かとか、「Imminentか、それともImpendingか」とかの定義付けと関係なく、いまだに福音を受け入れていない人々に「今日、御声を聞いたならば、心を頑なにせず、救いを受け、備えてください」と語るのではないだろうか。

へブル3:12-15

12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。 

13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。

14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

15 それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。

ローマ13:11

なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。

P.S. 何度読んでも「いつ起こるかわからないからといって、ある一定の時には起こらないとわかっているということにはならない」の意味が文脈に適していない気がするのだけれど、どなたかに説明していただけたら、と思う。

「Θ」の文字が刻みこまれたリベルテンの家族の石碑

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 ボローニャ市立考古学博物館のエントランスに展示してある、紀元前一世紀後半から末の時代の石碑。
 左の初老の男性とベールで頭を覆った女性は、それぞれ「リベルテン」つまり奴隷としての社会地位から解放されローマ市民権を獲得していた人物(使徒行伝6:9参照)の夫婦と思われ、右の女性はこの夫婦の娘であったと言われている。
 人物像の上にはそれぞれ名前が刻まれている。

C-CORNELIUS HERMIA C‐L (カイオのリベルテン)
FULLONIA OFFICIOSA SAL-L(サルヴィオのリベルテン)
CORNELIA PRISCA C-L(カイオのリベルテン)

「カイオ」や「「サルヴィオ」は地名ではなく、元主人の名前だと思われる。

 特に意味深いのは、それぞれ名前とレリーフ像の間に刻まれている「V」と「Θ」の文字で、「V」は【vivus】の頭文字で「生きている」を意味し、「Θ」はギリシャ語【θάνατος / thanato】の頭文字テータで「死」を意味する。つまりこの石碑が造られた時、初老の夫婦は一人娘に先立たれていたことになる。
 親にとって自分の子供を失う以上の苦しみはないだろう。奴隷としての地位から苦労して解放され、石碑を残すほど富と地位を得ることに成功した夫婦が、成長した一人娘を失い、その痛みを石に刻み込んでいる。
 皺までリアルに表現されている男性の顔を見ながら、一度に十人の息子や娘を失い、自身も重い皮膚病と三人の「友人たち」による不条理な叱責に苦しんだヨブの魂の叫びの言葉を連想していた。

ヨブ19:23-27
23 どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように。どうか、わたしの言葉が、書物にしるされるように。
24 鉄の筆と鉛とをもって、ながく岩に刻みつけられるように。
25 わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。
26 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。
27 しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。 

『ダニエル書「第70週の契約」』に関する検証

 ダニエル書9章に啓示されている「第七十週の契約」に関して、御子が十字架の贖罪のわざによって成し遂げた契約であるという解釈を展開している。全体的に難解で何度か読まないと理解しにくいところがあったが、少なくとも『マタイによる福音書』に記録されている御子イエス自身の言葉の光によって、再確認が必要ではないかと思う。

マタイ24:15-22

15 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、

16 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。

17 屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。

18 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。

19 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。

20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。

21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。

22 もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。  

 福音書記者マタイは霊感を受けて御子イエス・キリストの言葉を思い出し、それを書き残しているのだが、御子はまさにダニエル書の9章と12章の預言を根拠に、「世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難」の期間について弟子たちに語っているのである。

ダニエル9:27

彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。

ダニエル12:11

常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。 

 「神のことば」である御子イエス自身が、ダニエル9章の預言をご自身の地上宣教の期間ではなく、「荒らす憎むべき者」反キリストが現れる大患難期に適用しているのだから、私達もヘブライ語の蘊蓄以前に、御子自身の適用を根拠に読解すべきだろう。

花嫁と花婿の呼びかけ

黙示録22:16-21

16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。

19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

21 主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。  

 聖書の結びの部分が、御子キリストとその花嫁である教会との呼びかけ合いで締め括られているのはとても美しい。

 花嫁はただ人生に退屈して暇つぶしに「来てください」と声をかけているのではない。なぜなら花嫁のうちに宿る御霊も一緒に「来てください」と言っているからである。それは御霊自らの切なる願いである。

 そしてその声を聞いた御子キリストは、「しかり。わたしはすぐに来る」と答え、その声を聞いた教会は再度「アーメン。主イエスよ、来てください」と回答しているのである。

 それは終末論に関する高尚な解説などではなく、互いに一緒にいることを求める花婿と花嫁の声の掛け合いとして啓示されているところに、私のうちの霊が震える。

 そう、わたしのうちで同じように「来てください」と叫んでいる。

Ⅱテモテ4:8

今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。 

 

「主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけ」

使徒8:9-19

9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。

10 小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。

11 人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。

12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。

13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。 

14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。

15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。

16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

18 使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、

19 「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。 

 エルサレム教会によって選ばれた七人の執事の一人であったピリポの伝道によって、サマリヤの町の多くの人々が御子イエス・キリストを信じ、水のパプテスマを受けた。

 そしてそのニュースを聞いたエルサレムの使徒たちは、ペテロとヨハネをサマリヤに遣わした。(「遣わす」という動詞自体、ペテロがエルサレム教会において最高責任者としての指導権をもっていなかったことを暗示している。)

 二人はそこでサマリヤの人々の上に手を置くと、人々は聖霊を受けた。聖書の記述はとてもシンプルで、「当たり前のこと」として書いているように見えるが、ここでは現代の信仰者が決して読み流すことができない重要な一つの単語が使われている。

16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

 原語【μόνον monon】をいくつかの英語訳は「simply」と訳しているが(http://biblehub.com/acts/8-16.htm 参照)、そのニュアンスは「only」と訳している他の全てのバージョンと同じである。

  霊感を受けて『使徒行伝』を書き記していたルカにとって、御子イエスの御名によって水のバプテスマを受けていたサマリヤの信仰者たちは、本来受けていなければいけないものを受けていなかった状態にいたのである。

 サマリヤの人々を罪の悔い改めと御子イエスに対する信仰告白へと導いたのは、聖霊の働きではなかったのだろうか。彼らには聖霊の臨在がなかったのだろうか。

 しかしペテロとヨハネの祈りを通してサマリヤの人々が経験した聖霊の働きは、本人たちが明確な自覚もないような曖昧なタイプの経験ではなかった。むしろ、すぐ近くにいた魔術師シモンにして、お金を払ってでもどうしても欲しいと強く願わせるような強烈なもの、しかもシモンがその現象を自分の目で見て、「これがピリポにしるしとすばらしい奇蹟を行わせている超自然的な力の正体である」と納得させるものがあったのである。

 聖霊はその働きを今の時代に合わせて変更したのだろうか。使徒たちが語り伝えていた福音を、神は現代風にアレンジして書き換えたのだろうか。

 「主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけ」という一言の御言葉にとまどいを覚え、「聖霊が下る」とは実際にどういうことを指すのかを祈り求める魂は、教会は、一体どこにいるのだろうか。

 ペテロとヨハネをわざわざエルサレムからサマリヤへ遣わした神は、そのような魂を探している。

神の義:「宥めの供え物」として示された御子イエス

ローマ3:21-26(新改訳)

21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 

 今までに数えきれないほど読み、デボーションをしてきた箇所だが、読めば読むほど輝きを増す啓示がちりばめられている。

  • 「神ご自身が義」:神の本質、変わることない永遠の属性を啓示している。それ自体、独立したもので、変質したり損なわれたりすることのない、完全な義である。神の存在自体が義そのものである
  • 「律法と預言者によってあかしされて」:その見えない神の義は、モーセの律法や預言者の言葉、つまり旧約聖書に証しされている。
  • 「律法とは別に…神の義が示されました」:律法において証しされていた神の義とは異なる形で、神の義が示された。
  • 「神はキリスト・イエスを…なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです」「今の時にご自身の義を現わすため」:神はご自身の義を示すにあたって、御子イエス・キリストを宥めの供え物として公に示す方法を選んだ。
  • 「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって」「信仰による、なだめの供え物として」「イエスを信じる者を義とお認めになるため」:完全な義なる神自身が、御子を十字架の犠牲の死を通して、ご自身の義を公に示されたから、人間はそれに何か加えることも取り除くこともできない。ただその完璧な義を心から信じ、受け入れるだけである。
  • 「それはすべての信じる人に与えられ」「価なしに義と認められる」:神自身が御子を通して示されたご自身の義を完全だと知っているから、それを受け入れる人間を義と認めることができる。

 多くの人が神の正義を疑い、「もし神がいたならば、あんなことは起こらなかっただろう」とか「なぜ神は悪が蔓延るのを黙ってみているのか」と非難する。信仰をもつ前の私がしていたように。

 彼らが訴えるのは、ただ「宥めの供え物」として十字架の上で公に示された御子イエス・キリストを、人間がいじくり回すことのできないその完璧な義を、その真の美しさを見出していないからだけである。

 そしてそれは多くのものに気を囚われているキリスト者自身にも責任があるのではないだろうか。

Ⅰコリント1:23-24;30-31

23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。 

30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。