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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ボローニャで中世のユダヤ人墓地が発見される』

RITROVATO IL CIMITERO EBRAICO MEDIEVALE DI BOLOGNA DISTRUTTO NEL 1569, SE NE ERA PERSA OGNI TRACCIA

Con le sue 408 sepolture è il più grande finora noto in Italia.


L'eccezionale scoperta sarà il fulcro di un progetto di studio e valorizzazione del patrimonio culturale e della storia della comunità ebraica bolognese.

È la più vasta area cimiteriale medievale mai indagata in città, testimone di eventi che hanno radicalmente mutato la storia e la vita di una parte della popolazione bolognese tra il XIV e il XVI secolo.

Per 176 anni è stato il principale luogo di sepoltura degli ebrei bolognesi ma dopo le bolle papali della seconda metà del Cinquecento -che autorizzano la distruzione dei cimiteri ebraici della città- sopravvive per secoli solo nel toponimo di "Orto degli Ebrei".

Ritrovato nel corso degli scavi archeologici del 2012-2014, il cimitero ebraico medievale scoperto in Via Orfeo a Bologna non è solo il più grande finora noto in Italia ma un'opportunità unica di studio e ricerca.

Sono state scavate 408 sepolture di donne, uomini e bambini, alcune delle quali hanno restituito elementi d'ornamento personale in oro, argento, bronzo, pietre dure e ambra. Un gruppo di lavoro composto da Soprintendenza Archeologia Belle Arti e Paesaggio di Bologna, Alma Mater Studiorum Università di Bologna, Comunità Ebraica di Bologna e ricercatori indipendenti, con il supporto del Comune di Bologna, cercherà di ricomporne le vicende storiche, ricostruendo le dinamiche insediative e l'evoluzione topografica e sociale dell'area.

Uno degli obiettivi primari del Progetto è l'elaborazione di un piano di recupero della memoria e la valorizzazione del patrimonio culturale ebraico e della storia della comunità bolognese.

 

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(以下、私訳)

 

1569年に破壊され、あらゆる痕跡が失われていた、ボローニャの中世ヘブライ人墓地が発見される

 

408の墓によって、現在までにイタリアで知られている一番大きい墓地

 

この並外れた発見は、ボローニャのヘブライ人共同体の文化遺産と歴史の研究と価値の認識促進のプロジェクトの基点となるであろう。

ボローニャ市において今まで調査された一番広い中世の墓地エリアで、14世紀と16世紀の間のボローニャの人たちの一部の歴史と生活を根源的に変えた出来事の証拠である。

176年間にわたって、ボローニャのヘブライ人の埋葬の主要な場所であったが、1500年代後半の教皇の回勅の後、何世紀にも渡って「Orto degli Ebrei (ヘブライ人の菜園)」という地名だけにおいて生き残ることになる。

2012年から2014年の考古学発掘中に、ボローニャのオルフェオ通りに発見された中世のヘブライ人墓地は、現在まででイタリアで知られているなかで一番大きいだけでなく、研究と調査の唯一無二な機会である。

女性や男性、子供たちの408個の墓が発掘され、そのうちのいくつかからは、金や銀、青銅、準宝石、琥珀などの個人装飾品が発見された。

ボローニャ市のサポートと共に、ボローニャ考古学・美術・景観保護局とボローニャ大学、ボローニャヘブライ人共同体、フリーランスの研究者によって構成されたチームが、地域の人口定住の動学と地形学・社会学的発展を再現しながら、歴史の推移を再構成するよう努める。

このプロジェクトの主要な目標の一つは、(失われていた)記憶の回復の計画を作り上げ、ヘブライ文化遺産とボローニャ共同体の歴史の価値の認識促進である。

 

2017年11月7日

 1569年にユダヤ人墓地が破壊されたのは、同年2月26日に当時の教皇ピオ5世(本名アントニオ・ギスリエーリ Antonio Ghislieri)が公布した回勅『Hebraeorum Gens sola quondam a Deo dilecta』によって、ローマとアンコーナ以外の教皇領からユダヤ人を追放したことによる。教皇領の属していたボローニャのゲットーに住んでいたユダヤ人も追放され、その結果彼らの墓地は没収、サン・ピエトロ・マルティレ修道院の贈与され、そこの墓碑は破壊するよう命令が下された。(Breve storia della Comunità - Comunità Ebraica di Bologna 参照)

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I riassunti degli atti notarili conservati presso l’Archivio di Stato di Bologna riportano, nell’anno 1393, il resoconto dell’acquisto, da parte di Elia ebreo de Urbeveteri, di un appezzamento di terre ortive arborate collocato in contracta sancti Petri Martiris. Il terreno può essere identificato con l’area che sarà poi consacrata a luogo di sepoltura degli ebrei bolognesi fin dalla fine del XIV secolo. Questa funzione permane fino al 1569, quando l’emanazione di un Breve e di due Bolle Papali condanna le persone di religione ebraica ad abbandonare le città dello Stato Pontificio e ad essere cancellate dalla memoria dei luoghi dove avevano vissuto e operato.
Con la Bolla «Cum nimis absurdum», emanata il 14 luglio 1555, papa Paolo IV pone una serie di limitazioni ai diritti delle comunità ebraiche presenti nello Stato Pontificio: in particolare impone agli ebrei l’obbligo di portare un distintivo giallo, li esclude dal possesso di beni immobili, vieta ai medici ebrei di curare i cristiani e sancisce la costruzione di appositi ghetti dentro i quali gli ebrei avrebbero dovuto vivere.
Con la bolla «Hebraeorum Gens», emanata il 26 febbraio 1569, papa Pio V ordina entro tre mesi l’allontanamento dalle terre dello Stato Pontificio di ogni ebreo di ambo i sessi. “Trascorsi questi tre mesi chiunque, sia abitante sia forestiero, sia adesso sia in futuro, in qualunque momento sarà trovato in una città, terra o luoghi dei detti possedimenti […] sia spogliato di ogni avere e gli siano applicate le leggi fiscali, diventi schiavo della Chiesa di Roma e sia in perpetua servitù e la detta Chiesa rivendichi per se quegli stessi diritti che gli altri signori hanno sui servi e sulle proprietà.”

http://www.archeobologna.beniculturali.it/bologna/via_orfeo/cimitero_eb_med.htmから一部抜粋

 

(以下、私訳)

 ボローニャ国立文書館に保管されている公正証書のレジュメには、1393年にElia ebreo de Urbeveteri(「へブル人長老エリヤ」)による、contracta sancti Petri Martiris(サン・ピエトロ・マルティレの契約)の中の、樹木が植えてある菜園の土地一区画の購入の記録が残されている。土地は14世紀末からボローニャヘブライ人の埋葬の場所として聖別されることになるエリアと一致する。

 この機能は、一つの小勅書と二つの回勅の発布が教皇領の都市からユダヤ教徒の立ち退きと、生活し働いていた場所の記憶から消去されることを宣告した、1569年まで続くことになる。

 1555年7月14日に発布された回勅『Cum nimis absurdum』によってパウロ四世は教皇領にいるヘブライ人共同体の権利に対する一連の制限を設けた。特に、ヘブライ人に黄色い目印をつけて生活するよう義務付け、不動産の所有から除外し、ヘブライ人医師がキリスト教徒を治療することを禁じ、ヘブライ人が生活する場所としてゲットーの建設を認可した。

 1569年2月26日に発布された回勅『Hebraeorum Gens』によって教皇ピオ五世は、男女共全てのヘブライ人が3か月以内に教皇領の土地から離れるよう命じた。

 「三か月が経過したら、住民であろうと寄留者であろうと誰でも、現在も将来における如何なる時でも、町や土地、所有地にいた場合には、あらゆる所有物を剥奪され、収税法が適用され、ローマ教会の奴隷となり、永久の隷従にとどまり、上述の教会は他の主人が奴隷や所有物に対して持っているのと同じ権利を宣言するように。」

 ちなみにこの教皇ピオ5世は元々異端審議に関わり、教皇になってからは反宗教改革を強烈に推し進めた人物である。

 引用記事の翻訳には原文に忠実に「ヘブライ人」という表現を使ったが、基本的に「ユダヤ人」と同じ意味で使っている。

救われていないから救いを求め、そして「信じる者はみな救われる」

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信じる者は救われる、のか 社会学者 橋爪大三郎 :日本経済新聞

信じる者は救われる、のか 

社会学者 橋爪大三郎

2017/11/14 14:00

情報元

日本経済新聞 電子版

 

スピリチュアル(霊性)の話の三回目。

 救世軍(メソジスト教会系)の社会鍋。♪信じる者はみーんなー、みーんな救われるー、と歌っていた。キリスト教は、神を信じれば救われる、という教えなのか。

 むずかしい点だが、厳密にはそうではない。キリスト教は、神を信じれば救われます、などといった甘い教えではない。

 神を信じようかどうしようか→よし、神を信じよう→じゃあ救ってあげましょう。これだと、人間の決意(信仰)が、自分を救うことになる。そうではなく、人間を救うかどうかは神の一存で、人間が口をさし挟めない、と考えるのが正しい。

 じゃあ、神を信じても意味がないのか。いや、信仰は意味がある。こんな理屈だ。誰を救い誰を救わないか、決めるのは神。誰が信仰をもつか、決めるのも神。信仰は、神の恵みである。信じるから救われる、のではなく、救われているから信じることができる、である。こう理解すれば、「信じる者は救われる」と歌っても間違いでない。

 神は全知全能なので、人間の精神に働いて信仰を与えたり与えなかったりできる。キリスト教は、この働きをとくに聖霊とよぶ。信仰は、聖霊の働きとそれに応える人間の共同作業なのである。

 信仰をもつAさんには、聖霊が働いている。では、信仰しないBさんに、聖霊は働ていないのか。いや、働いている。まだその時期でないという神の計画で、信仰にストップがかかっているだけ。もちろん、救われるチャンスは十分にある。

 キリスト教は人間の精神活動を、聖霊の働きと考える。そんな人びとが集まったアメリカは、スピリチュアルの国なのだ。

 「信じるから救われる、のではなく、救われているから信じることができる、である。」 

 しかし御子はこう語っている。

マルコ16:15-16(新改訳)

15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

 「あなたはすでに救われているのですから、それを信じなさい」というメッセージを宣べ伝えなさい、とは命じてはいない。個人的な信仰が「救われるか」それとも「罪に定められるか」を条件づけているのは、聖書の言葉をそのまま読めば明らかである。

 むしろ聖書は、全ての人は御子の十字架の死によってそのままでは「すでにさばかれている」ゆえ、救われる必要があると啓示している。

ヨハネ3:17-18

17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

 緑に囲まれたのどかな湖に浮かぶボートの中で、初夏の心地よい陽射しをうけて寝ている人を「救助しよう」とするだろうか。しかし、もしそのボートが滝に向かって流されていて、そのままでは滝つぼに呑み込まれてしまうならば、その人は救助が求めるだろう。

ローマ10:9ー13

9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。

10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。

11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。

12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。

13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。

 主なる神は天地創造の前から、御子において救いの計画を定められていた。それは「誰を救い誰を救わないか、決めるのは神」という予定論ではない。悪(この文脈では不信仰)は、神が創造したものではなく、自由意志を与えられた被造物が善、つまり神に信頼し、従い仕えるという選択を否定した当然の帰結である。

 神が定めた法則は、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」である。

人となって来たイエス・キリストを告白する霊

Ⅰヨハネ4:1-3

1 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

2 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。

3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。 

 「神からの霊」「人となって来たイエス・キリストを告白する霊」と言っても、数々な霊があるというわけではなく、要するに聖霊のことである。なぜなら御子イエスの聖なる名によって父なる神が地上に遣わした霊は、聖霊の他ないからである。

ヨハネ14:26

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう

ヨハネ15:26

わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう

ヨハネ16:13-14

13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

14 御霊はわたしに栄光を得させるであろうわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。 

 つまり「人となって来たイエス・キリストを告白する霊」とは、ただ単に「イエス・キリストの名前を口にする」とか「イエス・キリストが人間としてこの地上に実在したという知識をもつ」という意味ではなく、聖霊によってイエス・キリストが真理であり、彼の教えもまた真理であることを証し、自分や組織を誇るのではなく聖霊が御子に栄光を帰するように御子の栄光だけを誇ることである。「告白する【ὁμολογέω homologeō, homo (same) + logos (said, topic, doctrine,cause, intent, talk)】」という動詞は、そのような意味に解釈すべきである。

無邪気ではいられない(9)不法の秘密はすでに働いている

ダニエル9:27

彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

Ⅱテサロニケ2:1-10

1 さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。

2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。

3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。

6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。

7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。

8 その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。

9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、

10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。 

 現在、反キリストの顕れを引き止めている者が取り除かれる時、反キリストはこの世にかつてないかたちで出現し、その邪悪な力を示すことになる。その時、この「荒らす忌むべき者」「不法の人」「滅びの子」は多くの者と平和協定(現実には支配者と被支配者の隷属関係なのだが)を結び、その多くの者の中には特に政治国家イスラエルも含まれることになる。なぜなら、反キリストは現在では絶対にあり得ない「エルサレムの第三神殿建設」を不思議な力によってイスラエルのために実現するからである。勿論、反キリストの目的はイスラエル人たちを喜ばせるためなどではなく、その神殿において礼拝を捧げることになるイスラエル人が、最終的に反キリストを神として崇拝をすることを強要するためである。

 これだけ聖書の中で預言されていて、キリスト者だけでなく一般的にも知識をもつ人々がいるにも関わらず、ほとんどの人々が騙されてしまうのだから、その偽りの力が如何に強大で狡猾であるか暗示している。

 そしてイスラエル人たちのうちの残された者たちが反キリストの偽りに気付く段階まで、政治国家イスラエルは反キリストの魔的力に引きずり込まれることがわかっている以上、キリスト者が手放しで政治国家イスラエルを擁護し、協力関係を築くのは大変危険な選択だと思う。近い将来に現われる反キリストの霊、使徒パウロが言うところの「不法の秘密」はすでに働いているのだから。

Ⅱペテロ3:17-18

17 愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。

18 そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。 

 

 残念ながらイタリアの福音派の教会も、近年驚くような勢いでシオニズムに走っている。

 

「霊の戦い」の世界観に対する警告記事(B・デウェイ牧師)の紹介

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 現代の「霊の戦い」に関する危険な間違いを、論者自身の経験から指摘している非常に重要な警告記事である。私自身、過去にこのような教えを実践しているいくつかの教会や兄弟姉妹に出会い、また強迫観念による神経症を患ってしまった人たちを何人かサポートしたことがある。

 勿論、私も聖書が啓示しているように悪霊の存在を知っているし、その超自然的働きを見たことがあるが、やはり御子イエスの十字架の勝利の力は、それらの悪霊の顕現とは比較にならないほど圧倒的であり、いのちに満ちているのである。

 だからボブ・デウェイ牧師が語っているように、いかなる状況においても福音を、特に「十字架に架けられた御子イエス・キリストの福音」に全幅の信頼を寄せ、語り伝えていきたいと思う。ゴルゴタの丘の十字架にこそ歴史上最も悪霊の力が働いたのに対して、御子は完全に勝利したのであるから!

ローマ8:31-39(新改訳)

31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。

37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、

39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 

 使徒パウロのレトリックな問いかけに愚直に答えてみよう。

  • 誰が私たちに敵対しているのか。悪魔である。(ヘブル語【שָׂטָן śâṭân】の原義は「敵対者」である。)
  • 誰が私たちを訴えるのか。悪魔である。(ギリシャ語【διάβολος diabolos】の原義は「中傷する者」「偽って訴える者」である。)
  • 誰が私たちを罪に定めようとするのか。悪魔である。
  • 私達をキリストの愛から引き離そうとする「天使ら【ἄγγελος aggelos】」や「力ある者たち」もしくは「力」とは、いったい誰であろうか。悪魔と悪霊どもである!(罪を犯さなかった御使いたちは、私たちを御子の愛に近づけることはあっても、決して引き離そうとはしないからである。)

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって(それは私たちの賜物や力、能力、経験、知識によってではない!)、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者であることが保証されている。

 その根拠は何だろうか。それは御子が十字架の上で私たち罪びとの救いの為に身代わりとなって、父なる神から「引き離されてくださった」、その愛と「十字架の勝利」のみに根差している。

わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

ローマ5:5-8(新改訳)

5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

コロサイ2:14-15

14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。

15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。 

もし御子イエスを大祭司として認めるならば

へブル7:11-28

11 もし全うされることがレビ系の祭司制によって可能であったら――民は祭司制の下に律法を与えられたのであるが――なんの必要があって、なお、「アロンに等しい」と呼ばれない、別な「メルキゼデクに等しい」祭司が立てられるのであるか。

12 祭司制に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずである。

13 さて、これらのことは、いまだかつて祭壇に奉仕したことのない、他の部族に関して言われているのである。

14 というのは、わたしたちの主がユダ族の中から出られたことは、明らかであるが、モーセは、この部族について、祭司に関することでは、ひとことも言っていない。

15 そしてこの事は、メルキゼデクと同様な、ほかの祭司が立てられたことによって、ますます明白になる。

16 彼は、肉につける戒めの律法によらないで、朽ちることのないいのちの力によって立てられたのである。

17 それについては、聖書に「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」とあかしされている。

18 このようにして、一方では、前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になると共に、

19 (律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。

20 その上に、このことは誓いをもってなされた。人々は、誓いをしないで祭司とされるのであるが、

21 この人の場合は、次のような誓いをもってされたのである。すなわち、彼について、こう言われている、「主は誓われたが、心を変えることをされなかった。あなたこそは、永遠に祭司である」。

22 このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。

23 かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。

24 しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。

25 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。

26 このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。

27 彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。

28 律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。 

 もし御子イエスを大祭司として認めるならば、必然的・不可避的に以下の真理を受け入れることになる。

 御子は:

  • 「アロンに等しい」ではなく、別な「メルキゼデクに等しい」祭司である。
  • いまだかつて祭壇に奉仕したことのない他の部族、ユダ部族出身の祭司である。
  • 肉につける戒めの律法によらないで、朽ちることのないいのちの力によって立てられた祭司である。
  • イエスは更にすぐれた契約の保証である:κρειττονοςは比較級である。つまり律法による契約と比較して「さらに優れた」と主張している。
  • 変らない祭司の務を持ちつづけておられる、もろもろの天よりも高くされている永遠の大祭司:つまりエルサレムの神殿も律法によるレビ族の祭司職も存在しなくなった西暦70年から現在に至るまで、御子は大祭司である。
  • 律法の後にきた誓いの御言によって立てられた祭司である。

 さらにモーセの律法に関する以下の真理に関しても受け入れるはずである。

  • 祭司制に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずである。
  • 前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になった

 つまり御子イエス・キリストを自分の魂の救いのための大祭司と認めながら、モーセの律法の効力の領域に留まろうとすることは、ただの自己矛盾でしかないと言える。

ガラテヤ2:21

わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

ガラテヤ5:4

律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。 

 御子イエス・キリストを聖霊によって知る時、様々な執着や偏見からの解放を体験する。

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見かけで裁かず、正しい裁きをせよ。

ヨハネ7:23-24(新改訳)

23 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。

24 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。

 律法学者やパリサイ人が主張していた、モーセの律法の適用から派生する「正しさ」と、御子イエスが主張する「正しさ」との間に、ギャップがあることが示されている。御子の言葉によれば、それは「うわべの正しさ」と「本質的な正しさ」の違いであった。

 24節は「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」(マタイ7:1)と共によく議論の時に引用されるが、この言葉は御子の言動を批判していた人々に対して御子自身が語ったものである。口語訳や新改訳では原文にはない【人を】という表現が挿入されており、一般論的な適用になりがちであるが、まず第一に適用する領域は、御子の言葉や働きに対して私たちがどのような基準でどう判断しているかを省察することではないだろうか。

 私たちは聖書の啓示を「自分の正しさ」によって解釈し、裁いていないだろうか。聖霊を通して今も働かれている神のわざを、律法的な正しさや「肉」によって、つまり伝統や、数の法則、自分の感情・感覚を判断基準にして容認したり、称賛したり、否定・拒否したりしていないだろうか。

(前田訳)

見かけで裁かず、正しい裁きをせよ。