an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

見かけで裁かず、正しい裁きをせよ。

ヨハネ7:23-24(新改訳)

23 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。

24 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。

 律法学者やパリサイ人が主張していた、モーセの律法の適用から派生する「正しさ」と、御子イエスが主張する「正しさ」との間に、ギャップがあることが示されている。御子の言葉によれば、それは「うわべの正しさ」と「本質的な正しさ」の違いであった。

 24節は「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」(マタイ7:1)と共によく議論の時に引用されるが、この言葉は御子の言動を批判していた人々に対して御子自身が語ったものである。口語訳や新改訳では原文にはない【人を】という表現が挿入されており、一般論的な適用になりがちであるが、まず第一に適用する領域は、御子の言葉や働きに対して私たちがどのような基準でどう判断しているかを省察することではないだろうか。

 私たちは聖書の啓示を「自分の正しさ」によって解釈し、裁いていないだろうか。聖霊を通して今も働かれている神のわざを、律法的な正しさや「肉」によって、つまり伝統や、数の法則、自分の感情・感覚を判断基準にして容認したり、称賛したり、否定・拒否したりしていないだろうか。

(前田訳)

見かけで裁かず、正しい裁きをせよ。

「家族」のゆくえ

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ポーランド人作家 Igor Morskiの作品

 

 ボートの上にいる母親と水面に映りこんでいる父親は、コインの裏と表のように一体で同じボートに乗っているようだが、実はそれぞれが反対の方向に行こうとオールを漕いでいる。画面を対角に切るオールから、力の対立と緊張が伝わってくる。

 少し離れたところにいる少女がぬいぐるみを抱え、緊張を肌で感じているのか、あどけない表情のなかにも不安の陰りを見せる眼差しで、何かを訴えているかのようにこちらをじっと見ている。

 今にも冷たい雨が降り出しそうな怪しい雲行きに対して、家族はずいぶん無防備に見える。

 

 試しに上下を反転してみると、父親の方がより固い表情で、両腕や肩には力が入っているのがよくわかる。そして父親のボートの方には女の子の姿が写り込んでいないことも…

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 実に悲しい絵だが、 現代の「家族」の姿を映し出す鏡のように思える。

 

 「家族」はどこに向かっているのだろうか。

 

イエス・キリストの系図(マタイによる福音書):呪いからの贖い

マタイ1:1-17

1 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。

2 アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、

3 ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、

4 アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、

5 サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、

6 エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、

7 ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、

8 アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、

9 ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、

10 ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、

11 ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。

12 バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、

13 ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、

14 アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、

15 エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、

16 ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。

17 だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。

 新約聖書を読み始める人が最初で出会うこの系図は、系譜学的観点よりも、イエス・キリストが「イスラエルの父アブラハムの子」であり、「イスラエルの王ダビデの子」であることを示す目的のために、抜粋して書き記されたものである。

 実際、17節に三回「十四代」と書かれていることからわかるように、書き記されることなく省略された世代があり、上述の目的のために抜粋され象徴化された系図である。それは「はてしのない系図(endless genealogies)などに気をとられることもないように」(Ⅰテモテ1:4参照)、エンドレスなものに「御子イエスが預言によって約束されていたメシアである」ことを証する目的の「枠組み」をつけて提示されているものである。

 だからこの系図を読むときは、その「枠組み」のなかに留まるべきだろう。この条件を基に、贖罪論的・救済論的観点からこの系図の読むと、とても興味深い。

 例えば、通常なら系図に名を連ねることがなかった5人の女性、タマルラハブルツ、「ウリアの妻バテシバ、そしてマリヤである。それぞれの女性が、モーセの律法の観点から言えば、死罪に価していたり、呪いの対象だったり、神の民に属することができないカテゴリーに属していたりするのである。

 

1.タマル

 まずタマルから見てみよう。この女性は創世記38章に、ヤコブの四男ユダの息子エルの嫁として登場する。そのエルが死に、当時の風習に従って夫となったエルの弟オナンも死んでしまった。次々と息子を失ったユダは、三男シラをタマルと結婚させることを恐れた。不当に寡婦として放っておかれたタマルは、ある日売春婦に変装し、ユダと肉体関係を持ち、身籠った。いくらタマルと関係を持った時、ユダの妻はすでに死んでいたとはいえ、あくまで「息子の嫁」である。

 そしてモーセの律法には以下のように定められている。

レビ記18:15

あなたの嫁を犯してはならない。彼女はあなたの息子の妻である。彼女を犯してはならない。

レビ記20:12(新改訳)

人がもし、息子の嫁と寝るなら、ふたりは必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをした。その血の責任は彼らにある。 

 つまり律法に基づけば、ユダもタマルも死罪によって裁かれる存在だったのである。勿論、ユダの時代にはモーセの律法は与えられていなかったが、神の倫理的基準は不変である。要するに同じ聖書の中に啓示されている律法に基づけば、タマルの名は系図に書き記されるべきものではなかったのである。

 

2.ラハブ

 次にラハブである。このカナン人の女性は、イスラエルの民が40年間の放浪の末、約束の地にやっと入った時に、ヨルダン川の近くのエリコという城壁に囲まれた町で売春婦をしていた。主なる神はイスラエルの民が約束の地に入るにあたって、預言者モーセの口を通して、約束の地に住む原住民と結婚することを厳しく禁じていたのである。

申命記7:1-3

1 あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガシびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追いはらわれる時、

2 すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らとなんの契約をもしてはならない。彼らに何のあわれみをも示してはならない。

3 また彼らと婚姻をしてはならない。あなたの娘を彼のむすこに与えてはならない。かれの娘をあなたのむすこにめとってはならない。 

 それゆえラハブは本来、滅ぼされる運命にあったが、イスラエルの神を畏れ、その信仰によって救われた。

へブル11:31

信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。 

 

3.ルツ

 ルツはダビデ王の曽祖父にあたるボアズの妻で、モアブ人であった。モアブ人は、アブラハムのおいロトとロトの長女との近親相姦によって生まれた息子モアブ(מואב 「父によって」という意味)の子孫であり、やはり律法によってイスラエルの民の会衆に加わることが厳しく禁じられていた。

申命記23:3

アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。 

 同じことは冒頭の系図の中に直接名前は書かれてはいないが、ソロモン王の妻でレハベアムの母である、アンモンびとのナアマについても言える。(こちらの記事『ロトのことも思い出しなさい(5)ルツとナアマ - an east window』参照)

 

4.「ウリアの妻」バテシバ

 バテシバはラハブやルツ、ナアマとは違い、もともとイスラエルの民に属していたが、彼女は違う意味でやはり律法による死の呪いを背負っていた。ウリヤの妻だったにもかかわらず、夫が戦地で戦っている間にダビデ王と姦淫の罪を犯したからである。勿論、神に選ばれた王としてのダビデの責任ははるかに重いものだが、律法においては人妻バテシバの責任も明らかである。

レビ20:10

人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。

申命記22:22

もし夫のある女と寝ている男を見つけたならば、その女と寝た男およびその女を一緒に殺し、こうしてイスラエルのうちから悪を除き去らなければならない。 

 

5.マリヤ

マタイ1:18-19

18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。

19 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。 

 マリヤの場合も、もし神の霊による超自然的奇蹟という観点で見なければ、「不品行」として律法によって死罪に定められていた状況であった。だからこそ、婚約者ヨセフはひそかに婚約破棄をしようとしたのである。

申命記22:23-24

23 もし処女である女が、人と婚約した後、他の男が町の内でその女に会い、これを犯したならば、

24 あなたがたはそのふたりを町の門にひき出して、石で撃ち殺さなければならない。これはその女が町の内におりながら叫ばなかったからであり、またその男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたはこうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。

 しかしたとえ婚約をしていなかったということにしたとしても、生れてくる子(この場合、イエス)は、「私生児」として扱われ、やはり律法によって神の民から除外される運命であった。

申命記23:2

私生児は主の会衆に加わってはならない。その子孫は十代までも主の会衆に加わってはならない。 

 この点を考慮すると、ユダヤ人たちが御子に語った言葉は、強烈な皮肉のニュアンスがあったのかもしれない。

ヨハネ8:41

あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っているのである」。彼らは言った、「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である」。

 しかしこのような宗教権力者たちの揶揄は、御子イエスが安息日毎にシナゴーグにおける礼拝に参加し、聖書の巻物を朗読し(共同体によって選ばれ認められた者でしか朗読できなかった)、またエルサレムの神殿における祭に参加していたことでも、ただの「ゴシップ」であったことがわかる。

 

6.エコニヤ

 そして上述の女性たちだけでなく、系図の中に記されている男性も、やはり「負い目をもつ」人々であった。前述の息子の嫁タマルを身籠らせたユダや、バテシバと姦淫の罪を犯したダビデ王は明らかであるが、特にバビロニア捕囚の時期のエコニヤ(11-12節)に関するストーリーは驚くものである。

 彼はその不信仰の罪の故、以下のような呪いの預言が与えられていた。

エレミヤ22:30

主はこう言われる、「この人を、子なき人として、またその一生のうち、栄えることのない人として記録せよ。その子孫のうち、ひとりも栄えて、ダビデの位にすわり、ユダを治めるものが再び起らないからである」。 

 つまり御子イエスは遺伝子学的にはヨセフの子ではなくとも、系図学的には先祖エコニアの呪いを背負い、イスラエルの王としての栄誉を否定され、十字架の上で呪いとなられたのである。実際、御子が「ユダヤ人の王」であることを宣言したことが、公の罪状となったのである。

ヨハネ19:15;19-22

15 すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。

19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。

20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル、ローマ、ギリシヤの国語で書いてあった。

21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに言った、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」。

22 ピラトは答えた、「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」。

ガラテヤ3:10-14

10 いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。

11 そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。

12 律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。

13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

14 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。 

 

 このように、マタイの福音書に啓示されているイエス・キリストの系図は、律法による契約の呪いの下にあったイスラエルの民を贖い出すために、自らその呪いを負い、十字架の上で死に、復活した後に神の右に座し、「王なる王」として崇められることになる御子イエスによる神の計画を見事に啓示していると言える。

使徒2:29-36

29 兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。

30 彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、

31 キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。

32 このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。

33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。

34 ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せになった、

35 あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。

36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。 

 

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世の欲と誘惑

マタイ4:8-10

8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて

9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。

10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

ルカ4:5-8

5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて

6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。

7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。

8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 

 引用した聖句は、御子イエス・キリストが地上宣教活動を始めるにあたって、荒野で悪魔から誘惑を受けた場面の記述の一部である。

 ここでは御子に対する悪魔の恐ろしい傲慢さが顕れている。創造主であり、あらゆる被造物の目的でもある御子に対して、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから」と挑発しているのである。

 例えば、あなたの留守中に泥棒が家に侵入し、あなたの財産を好き勝手に使うだけでなく、家族に対して暴行し、帰宅したあなたに向かって「この家と全ての人と物は全部俺のものだ。欲しかったら、俺の前に跪け」と言っていることを想像してみてほしい。

 勿論、泥棒が不法に侵入した家が自分のものではないことをよく知っている以上に、悪魔はこの世が本来自分のものではないことを承知している。さらに最終的にも決して自分のものにはならないことさえも知っている。

 しかも悪魔は霊的な存在だから、物質的富や繁栄などそれがどれだけあろうと全く関心はなく、それらはただ人間を誘惑する手段、つまり自分の足元に引き寄せ、跪かせ、自分自身を崇めさせるための単なる「餌」でしかないのである。「世の欲」の究極な根源は、御子に対する傲慢である。

 だからこそ悪魔は、有り余るほどこの世の富を抱え、さらに肥え太ろうと強欲に身を沈めている、神を畏れぬ富者たちではなく、むしろ質素な生活、あるいは欠乏の中にいても主なる神だけを拝し、仕えようと願う信仰者たちを誘惑しようと隙を窺っているのである。何も持たず、何も食べていなかった御子を荒野で誘惑したように。

Ⅰテモテ6:3-10

3 もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば、

4 彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、

5 また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしのないいがみ合いが起るのである。

6 しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。

7 わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。

8 ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。

9 富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。

10 金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。

Ⅰペテロ5:8-11

8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。

9 この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。

10 あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。

11 どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。

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その愚かさに従って

箴言26:4-5

4 愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。

5 愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。

 4節と5節は表面的に読むと矛盾しているように思える。実際、この箇所を基に聖書を批判したり揶揄(やゆ)したりする人がいたりする。しかし現実には非常に知恵と誠実に満ちている聖句である。

 まず「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな」「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ」と言って、ひとりの人間を「愚かな者」としているその「愚かさ」を、人格そのものから切り離して判断するように促している。つまり読者に対して、その問題点を見極め、その性質によって正確に為すべきことを判断し、行動するように勧めているのである。これは「あいつはバカだから何言ってもダメ」という人格否定的な偏見による態度とは本質的に異なるものである。そしてなおかつ、その「愚かさ」を誤魔化したり、善い事として見なしてはいないことを意味する。

 「愚かさ」の本質を見極めるには、正しいことや良い事の本質を知らなければできないことである。それは私たちを謙遜にする。実に多くの場合、私たちはその判断基準を十分に理解していないために、独断と偏見と恐れで間違った態度をとってしまうからである。

 一朝一夕(いっちょう・いっせき)には習得できない、御言葉の光と祈りと成熟を必要とする心のあり方ではないかと思う。そしてそれは自分自身の善、そして聖別のため(「あなたも彼と同じようにならないためだ」)であり、また相手の善のため(「そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう」)でもある。

 特にこの複雑な世で御子イエス・キリストの福音を伝えるにあたって、必要不可欠な教えであると思う。

フランシスコ教皇のスピーチにおける「教会」に関する考察


Pope Francis: Relationships With Jesus Are Dangerous

 添付した映像は、2014年6月25日(水)にヴァチカン市国サン・ピエトロ広場における一般謁見のスピーチ『La Chiesa: 2. L'appartenenza al popolo di Dio (教会:2.神の民への帰属)』の内容の一部である。全体の映像やスピーチの内容は、こちらの公式サイトにおいて参照可能である。

 ローマ教皇がこの発言をした時から少々時間が経過しているが、インターネット検索の結果、日本語に翻訳されて取り扱われている記事を見つけることができなかったので、和訳してみた。

 以下、映像で抜粋されたイタリア語のスピーチの内容とその和訳である。

Nella Chiesa non esiste il “fai da te”, non esistono “battitori liberi”.

Quante volte Papa Benedetto ha descritto la Chiesa come un “noi” ecclesiale!

Talvolta capita di sentire qualcuno dire: “Io credo in Dio, credo in Gesù, ma la Chiesa non m’interessa…”. Quante volte abbiamo sentito questo? E questo non va. C’è chi ritiene di poter avere un rapporto personale, diretto, immediato con Gesù Cristo al di fuori della comunione e della mediazione della Chiesa. Sono tentazioni pericolose e dannose. Sono, come diceva il grande Paolo VI, dicotomie assurde. È vero che camminare insieme è impegnativo, e a volte può risultare faticoso: può succedere che qualche fratello o qualche sorella ci faccia problema, o ci dia scandalo… Ma il Signore ha affidato il suo messaggio di salvezza a delle persone umane, a tutti noi, a dei testimoni; ed è nei nostri fratelli e nelle nostre sorelle, con i loro doni e i loro limiti, che ci viene incontro e si fa riconoscere. E questo significa appartenere alla Chiesa. Ricordatevi bene: essere cristiano significa appartenenza alla Chiesa. Il nome è “cristiano”, il cognome è “appartenenza alla Chiesa”. 

 

教会には「D.I.Y.(*)」は存在しません。「フリーランサー」は存在しません。ベネディクト教皇は何度、教会を「教会の私たち」と言い表したことでしょうか。時折、ある人が「私は神を信じ、イエスを信じます。でも教会は興味ありません」と言うのを聞きます。何度聞いたことでしょう。これはよくないことです。なかには教会の交わりや仲介がなくても、イエス・キリストと個人的でダイレクトで、即時な関係をもつことができると信じる者もいます。これは危険で有害な誘惑です。偉大なるパウロ六世が言っていたように、それは馬鹿げた二分法です。

確かに共に歩むのは骨の折れることで、時に困難になりえます。ある兄弟やある姉妹が問題を引き起こしたり、憤慨させたりすることもあり得ることです。

しかし主はご自身の救いのメッセージを人間に、私たち全員に、証人に委ねました。私たちの兄弟や姉妹においてこそ、彼らの賜物と限界と共に、(主は)歩み寄って下さり、自らを知らしめてくださるのです。これこそ教会に帰属していることを意味します。よく覚えていてください。クリスチャンであるということは、教会に帰属するという意味です。名は「クリスチャン」、姓は「教会に帰属している」です。

 

(*) 訳者注:Do it yourself(専門家に依頼せずに自分の手で望む生活環境をつくる行為)

 教皇が使っている「dicotomie 二分法」という表現はわかりにくいかもしれないが、この文脈においては「二つの要素の完全な分断」を意味し、「馬鹿げた・不条理な」と形容しているのは、「本来完全に分断することができないものを分離している」という意味においてである。

 だからこそ、この教皇のスピーチで明らかにしておかなければならない点は、彼が言うところの「教会」の定義である。当然、フランシスコ教皇は自ら代表として「ローマ・カトリック教会」について話しているが、それは新約聖書が啓示する「教会」と一致するものではない。いくら「普遍的」という意味である「カトリック」という形容詞を用いていても、地上におけるある一つの宗教組織が、御子イエス・キリストの霊的体である「教会」と完全に一致することは、聖書の中に啓示されていないからである。自ら「普遍的」であると宣言する宗派組織が地上にはいくつも存在し、互いが他の「普遍性」を認めていない事実が、そのことを証明している。

 使徒パウロは党派心に支配されていたコリントの信徒らに対して、「キリストが分割されたのですか」と皮肉な問いかけで戒めている。

Ⅰコリント1:12-13(新改訳)

12 あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。

13 キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。 

  実際、霊的なキリストの体、つまり「教会」は一度も分割されたことなく、いかなる人間も、たとえ彼が宗教的に敬虔であろうと、その「教会」の救いのために十字架の上で命をささげたことはないのである。

 勿論、一つの地域の信仰者の集まりとしての教会は、その信仰によって霊なるキリストの体を構成する「肢体」ではあるが、その全体ではあり得ない。全体は霊的な教会のみである。

ローマ12:5

わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。

エペソ5:30

わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。

  霊的な教会とのつながりは当然霊的であるのだから、「イエス・キリストと個人的でダイレクトで、即時な関係」こそそれに対応し得る。それは「危険で有害な誘惑」どころか、むしろ「必要不可欠な霊的条件」である。

 御子イエスは「私に従ってきなさい」(ルカ18:22;ヨハネ21:22)「私のもとに来なさい」(マタイ11:28)と命じている。

 余談になるが、ローマ・カトリック教会における「エキュメニカル運動」というのは、上述の「教会概念」を絶対的前提としているので、「異なる宗派・教派がキリストの名によって一つになる」というよりも、「唯一のローマ・カトリック教会の下で異なる宗派・教派が吸収され一つになる」という概念であることを認識しておくのは重要である。プロテスタント教会や福音派教会などがエキュメニカル運動に参加するとき、ローマ・カトリック教会が「離れていた弟が家に帰ってくる」と解釈するのは、そのような独自の教会論的前提があるからである。

エレミヤの嘆き、そして御子イエスの招き

エレミヤ15:15-21

15 主よ、あなたは知っておられます。わたしを覚え、わたしを顧みてください。わたしを迫害する者に、あだを返し、あなたの寛容によって、わたしを取り去らないでください。わたしがあなたのために、はずかしめを受けるのを知ってください。

16 わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもってとなえられている者です。

17 わたしは笑いさざめく人のつどいにすわることなく、また喜ぶことをせず、ただひとりですわっていました。あなたの手がわたしの上にあり、あなたが憤りをもってわたしを満たされたからです。

18 どうしてわたしの痛みは止まらず、傷は重くて、なおらないのですか。あなたはわたしにとって、水がなくて人を欺く谷川のようになられるのですか。

19 それゆえ主はこう仰せられる、「もしあなたが帰ってくるならば、もとのようにして、わたしの前に立たせよう。もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。彼らはあなたの所に帰ってくる。しかしあなたが彼らの所に帰るのではない。

20 わたしはあなたをこの民の前に、堅固な青銅の城壁にする。彼らがあなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを助け、あなたを救うからであると、主は言われる。

21 わたしはあなたを悪人の手から救い、無慈悲な人の手からあがなう」。 

 時に心の傷はあまりにも深く、その孤独は癒し難く、聖書の朗読に没頭しても、軽薄な喜びから自ら身を避けても答えを見出せないことがある。

どうしてわたしの痛みは止まらず、

傷は重くて、なおらないのですか。

あなたはわたしにとって、

水がなくて人を欺く谷川のようになられるのですか。

 まさに私が「私の喜び」「私の楽しみ」「私の憤り」「私の嘆き」「私の痛み」「私の傷」「私の失望」の中に自らを閉じ込めている時、主なる神は「私のところに帰ってきなさい」と招いてくださる。

もしあなたが帰ってくるならば、もとのようにして、わたしの前に立たせよう。もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。彼らはあなたの所に帰ってくる。しかしあなたが彼らの所に帰るのではない。

 そして主の御前の光の中に立つとき、「つまらないこと(虚しいこと)」と「貴重なこと」の違いを、改めて御子から学ぶのである。

マタイ11:28-30

28  すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

30  わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。