an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

世の欲と誘惑

マタイ4:8-10

8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて

9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。

10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

ルカ4:5-8

5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて

6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。

7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。

8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 

 引用した聖句は、御子イエス・キリストが地上宣教活動を始めるにあたって、荒野で悪魔から誘惑を受けた場面の記述の一部である。

 ここでは御子に対する悪魔の恐ろしい傲慢さが顕れている。創造主であり、あらゆる被造物の目的でもある御子に対して、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから」と挑発しているのである。

 例えば、あなたの留守中に泥棒が家に侵入し、あなたの財産を好き勝手に使うだけでなく、家族に対して暴行し、帰宅したあなたに向かって「この家と全ての人と物は全部俺のものだ。欲しかったら、俺の前に跪け」と言っていることを想像してみてほしい。

 勿論、泥棒が不法に侵入した家が自分のものではないことをよく知っている以上に、悪魔はこの世が本来自分のものではないことを承知している。さらに最終的にも決して自分のものにはならないことさえも知っている。

 しかも悪魔は霊的な存在だから、物質的富や繁栄などそれがどれだけあろうと全く関心はなく、それらはただ人間を誘惑する手段、つまり自分の足元に引き寄せ、跪かせ、自分自身を崇めさせるための単なる「餌」でしかないのである。「世の欲」の究極な根源は、御子に対する傲慢である。

 だからこそ悪魔は、有り余るほどこの世の富を抱え、さらに肥え太ろうと強欲に身を沈めている、神を畏れぬ富者たちではなく、むしろ質素な生活、あるいは欠乏の中にいても主なる神だけを拝し、仕えようと願う信仰者たちを誘惑しようと隙を窺っているのである。何も持たず、何も食べていなかった御子を荒野で誘惑したように。

Ⅰテモテ6:3-10

3 もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば、

4 彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、

5 また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしのないいがみ合いが起るのである。

6 しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。

7 わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。

8 ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。

9 富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。

10 金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。

Ⅰペテロ5:8-11

8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。

9 この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。

10 あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。

11 どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。

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その愚かさに従って

箴言26:4-5

4 愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。

5 愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。

 4節と5節は表面的に読むと矛盾しているように思える。実際、この箇所を基に聖書を批判したり揶揄(やゆ)したりする人がいたりする。しかし現実には非常に知恵と誠実に満ちている聖句である。

 まず「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな」「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ」と言って、ひとりの人間を「愚かな者」としているその「愚かさ」を、人格そのものから切り離して判断するように促している。つまり読者に対して、その問題点を見極め、それに性質によって正確に為すべきことを判断し、行動するように勧めているのである。これは「あいつはバカだから何言ってもダメ」という人格否定的な偏見による態度とは本質的に異なるものである。そしてなおかつ、その「愚かさ」を誤魔化したり、善い事として見なしてはいないことを意味する。

 「愚かさ」の本質を見極めるには、正しいことや良い事の本質を知らなければできないことである。それは私たちを謙遜にする。実に多くの場合、私たちはその判断基準を十分に理解していないために、独断と偏見と恐れで間違った態度をとってしまうからである。

 一朝一夕(いっちょう・いっせき)には習得できない、御言葉の光と祈りと成熟を必要とする心のあり方ではないかと思う。そしてそれは自分自身の善、そして聖別のため(「あなたも彼と同じようにならないためだ」)であり、また相手の善のため(「そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう」)でもある。

 特にこの複雑な世で御子イエス・キリストの福音を伝えるにあたって、必要不可欠な教えであると思う。

フランシスコ教皇のスピーチにおける「教会」に関する考察


Pope Francis: Relationships With Jesus Are Dangerous

 添付した映像は、2014年6月25日(水)にヴァチカン市国サン・ピエトロ広場における一般謁見のスピーチ『La Chiesa: 2. L'appartenenza al popolo di Dio (教会:2.神の民への帰属)』の内容の一部である。全体の映像やスピーチの内容は、こちらの公式サイトにおいて参照可能である。

 ローマ教皇がこの発言をした時から少々時間が経過しているが、インターネット検索の結果、日本語に翻訳されて取り扱われている記事を見つけることができなかったので、和訳して共有してみたい。

 以下、映像で抜粋されたイタリア語のスピーチの内容とその和訳である。

Nella Chiesa non esiste il “fai da te”, non esistono “battitori liberi”.

Quante volte Papa Benedetto ha descritto la Chiesa come un “noi” ecclesiale!

Talvolta capita di sentire qualcuno dire: “Io credo in Dio, credo in Gesù, ma la Chiesa non m’interessa…”. Quante volte abbiamo sentito questo? E questo non va. C’è chi ritiene di poter avere un rapporto personale, diretto, immediato con Gesù Cristo al di fuori della comunione e della mediazione della Chiesa. Sono tentazioni pericolose e dannose. Sono, come diceva il grande Paolo VI, dicotomie assurde. È vero che camminare insieme è impegnativo, e a volte può risultare faticoso: può succedere che qualche fratello o qualche sorella ci faccia problema, o ci dia scandalo… Ma il Signore ha affidato il suo messaggio di salvezza a delle persone umane, a tutti noi, a dei testimoni; ed è nei nostri fratelli e nelle nostre sorelle, con i loro doni e i loro limiti, che ci viene incontro e si fa riconoscere. E questo significa appartenere alla Chiesa. Ricordatevi bene: essere cristiano significa appartenenza alla Chiesa. Il nome è “cristiano”, il cognome è “appartenenza alla Chiesa”. 

 

教会には「D.I.Y.(*)」は存在しません。「フリーランサー」は存在しません。ベネディクト教皇は何度、教会を「教会の私たち」と言い表したことでしょうか。時折、ある人が「私は神を信じ、イエスを信じます。でも教会は興味ありません」と言うのを聞きます。何度聞いたことでしょう。これはよくないことです。なかには教会の交わりや仲介がなくても、イエス・キリストと個人的でダイレクトで、即時な関係をもつことができると信じる者もいます。これは危険で有害な誘惑です。偉大なるパウロ六世が言っていたように、それは馬鹿げた二分法です。

確かに共に歩むのは骨の折れることで、時に困難になりえます。ある兄弟やある姉妹が問題を引き起こしたり、憤慨させたりすることもあり得ることです。

しかし主はご自身の救いのメッセージを人間に、私たち全員に、証人に委ねました。私たちの兄弟や姉妹においてこそ、彼らの賜物と限界と共に、(主は)歩み寄って下さり、自らを知らしめてくださるのです。これこそ教会に帰属していることを意味します。よく覚えていてください。クリスチャンであるということは、教会に帰属するという意味です。名は「クリスチャン」、姓は「教会に帰属している」です。

 

(*) 訳者注:Do it yourself(専門家に依頼せずに自分の手で望む生活環境をつくる行為)

 教皇が使っている「dicotomie 二分法」という表現はわかりにくいかもしれないが、この文脈においては「二つの要素の完全な分断」を意味し、「馬鹿げた・不条理な」と形容しているのは、「本来完全に分断することができないものを分離している」という意味においてである。

 だからこそ、この教皇のスピーチで明らかにしておかなければならない点は、彼が言うところの「教会」の定義である。当然、フランシスコ教皇は自ら代表として「ローマ・カトリック教会」について話しているが、それは新約聖書が啓示する「教会」と一致するものではない。いくら「普遍的」という意味である「カトリック」という形容詞を用いていても、地上におけるある一つの宗教組織が、御子イエス・キリストの霊的体である「教会」と完全に一致することは、聖書の中に啓示されていないからである。自ら「普遍的」であると宣言する宗派組織が地上にはいくつも存在し、互いが他の「普遍性」を認めていない事実が、そのことを証明している。

 使徒パウロは党派心に支配されていたコリントの信徒らに対して、「キリストが分割されたのですか」と皮肉な問いかけで戒めている。

Ⅰコリント1:12-13(新改訳)

12 あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。

13 キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。 

  実際、霊的なキリストの体、つまり「教会」は一度も分割されたことなく、いかなる人間も、たとえ彼が宗教的に敬虔であろうと、その「教会」の救いのために十字架の上で命をささげたことはないのである。

 勿論、一つの地域の信仰者の集まりとしての教会は、その信仰によって霊なるキリストの体を構成する「肢体」ではあるが、その全体ではあり得ない。全体は霊的な教会のみである。

ローマ12:5

わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。

エペソ5:30

わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。

  霊的な教会とのつながりは当然霊的であるのだから、「イエス・キリストと個人的でダイレクトで、即時な関係」こそそれに対応し得る。それは「危険で有害な誘惑」どころか、むしろ「必要不可欠な霊的条件」である。

 御子イエスは「私に従ってきなさい」(ルカ18:22;ヨハネ21:22)「私のもとに来なさい」(マタイ11:28)と命じている。

 余談になるが、ローマ・カトリック教会における「エキュメニカル運動」というのは、上述の「教会概念」を絶対的前提としているので、「異なる宗派・教派がキリストの名によって一つになる」というよりも、「唯一のローマ・カトリック教会の下で異なる宗派・教派が吸収され一つになる」という概念であることを認識しておくのは重要である。プロテスタント教会や福音派教会などがエキュメニカル運動に参加するとき、ローマ・カトリック教会が「離れていた弟が家に帰ってくる」と解釈するのは、そのような独自の教会論的前提があるからである。

エレミヤの嘆き、そして御子イエスの招き

エレミヤ15:15-21

15 主よ、あなたは知っておられます。わたしを覚え、わたしを顧みてください。わたしを迫害する者に、あだを返し、あなたの寛容によって、わたしを取り去らないでください。わたしがあなたのために、はずかしめを受けるのを知ってください。

16 わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもってとなえられている者です。

17 わたしは笑いさざめく人のつどいにすわることなく、また喜ぶことをせず、ただひとりですわっていました。あなたの手がわたしの上にあり、あなたが憤りをもってわたしを満たされたからです。

18 どうしてわたしの痛みは止まらず、傷は重くて、なおらないのですか。あなたはわたしにとって、水がなくて人を欺く谷川のようになられるのですか。

19 それゆえ主はこう仰せられる、「もしあなたが帰ってくるならば、もとのようにして、わたしの前に立たせよう。もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。彼らはあなたの所に帰ってくる。しかしあなたが彼らの所に帰るのではない。

20 わたしはあなたをこの民の前に、堅固な青銅の城壁にする。彼らがあなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを助け、あなたを救うからであると、主は言われる。

21 わたしはあなたを悪人の手から救い、無慈悲な人の手からあがなう」。 

 時に心の傷はあまりにも深く、その孤独は癒し難く、聖書の朗読に没頭しても、軽薄な喜びから自ら身を避けても答えを見出せないことがある。

どうしてわたしの痛みは止まらず、

傷は重くて、なおらないのですか。

あなたはわたしにとって、

水がなくて人を欺く谷川のようになられるのですか。

 まさに私が「私の喜び」「私の楽しみ」「私の憤り」「私の嘆き」「私の痛み」「私の傷」「私の失望」の中に自らを閉じ込めている時、主なる神は「私のところに帰ってきなさい」と招いてくださる。

もしあなたが帰ってくるならば、もとのようにして、わたしの前に立たせよう。もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。彼らはあなたの所に帰ってくる。しかしあなたが彼らの所に帰るのではない。

 そして主の御前の光の中に立つとき、「つまらないこと(虚しいこと)」と「貴重なこと」の違いを、改めて御子から学ぶのである。

マタイ11:28-30

28  すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

30  わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

奇蹟のうちに見る十字架の相

ヨハネ5:1-16

1 こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。

2 エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。

3 その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。

4 それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕

5 さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。

6  イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。

7 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。

8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

9 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。

10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った、「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」。

11 彼は答えた、「わたしをなおして下さったかたが、床を取りあげて歩けと、わたしに言われました」。

12 彼らは尋ねた、「取りあげて歩けと言った人は、だれか」。

13 しかし、このいやされた人は、それがだれであるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと出て行かれたからである。

14  そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。

15 彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。

16 そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。

 「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい

 38年間病気を患い身動き取れないでいた男のことを完全に理解していた御子は、この命令による奇蹟が、偽善者たちのどのような反応をもたらすかも知っておられたはずである。「起きて、そして歩きなさい」と命じていたならば、男は同じように癒され、歩けるようになっていただろうし、ユダヤ人たちに「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」などとナンセンスなことを言わせる隙も与えなかっただろう。

 御子はユダヤ人たちが殺意を抱くようになることを十分に自覚しながらも、敢えて「あなたの床を取りあげ」と命令したように思える。16節は日本語訳だとニュアンスが訳出されていないが、KJVやイタリア語訳だと、「責める」「迫害する」以外にも、「殺そうとした」ということ書かれている。

16 And therefore did the Jews persecute Jesus, and sought to slay him, because he had done these things on the sabbath day. 

 その後すぐに御子が証ししたご自身と御父との関係でも、その御子の意図は明らかである。

ヨハネ5:17-18

17 そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。

18 このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。 

 御子は完全にご自身の十字架の死を意識し、その「父から受けた務め」を見定めた上で語り、奇蹟を行っていたのである。

 十字架の死は偶発的な悲劇では決してなく、御子は訳わからないで暴虐に巻き込まれた「哀れな犠牲者」ではない。御子は永遠の霊によってご自身の命を捧げたのである。

へブル9:14

永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。 

ヨハネ10:17-18

17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。

18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。

へブル10:5-10

5 それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。

6 あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。

7 その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。

8 ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、

9 次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。

10 この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。 

  十字架は御子の啓示の本質である。

ブログのデザイン変更

 先日アカウントを開設したツイッターをサイドバーに埋め込むついでに、2013年5月の作成時から使ってきたブログ自体のデザインをより文章が読みやすいシンプルなものに変更した。

 本当はヘッダーの風景写真をキープしたかったのだが、ブログタイトルとの位置調整が変更できなかったので、やむなく画像を削除することにした。しかしとても気に入っているので、挿入するいい方法がわかったら再度使いたいと思っている。

 ツイッターに関しては、正直言うとそのシステムをまだよく理解していないし、ビジュアル的にもあまり美しいとは思えないが、ブログの記事の更新の知らせや、記事にする前の段階の観察や考え、思いなどを書いてみたいと思っている。

 

シンガポールのドミニク・ヤオ氏に関する検証


Rev Dominic Yeo - When the Brook Dries Up -1of3 - upgrade from condo to landed house

 添付したビデオはシンガポールのトリニティー・クリスチャン・センター(Trinity Christian Centre)の主任牧師であり、シンガポールのアッセンブリー・オブ・ゴッド教団の理事長でもあるドミニク・ヤオ氏が、「信仰」をテーマに話しているものだが、特に7分50秒からの「デモンストレーション」に注目していただきたい。

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  おそらくヤオ氏自身は意識していないだろうが、私にはこのシンボルがとても暗示的に見える。というのは、客観的に見てこのシンボルが表しているのは「相互依存」であり、それは聖書が啓示する信仰の本質とは全く異なるからである。勿論、信仰生活には信仰者同士の相互的関与が不可欠であるが、真の信仰は隣人の信仰の在り方に依存するわけではなく、たとえ私が信仰を失うことがあっても、私の隣りにいる信仰者は聖書の真理に基づいて、個人的に神への信頼を保つことができるのである。

 そもそも聖霊によって新約聖書に啓示されている真理を、ショーなどで使い古された手法で説明する必要があるのか、甚だ疑問である。おそらく旧約聖書の預言者たちがしばしシンボリックな行動で神から直接受けたメッセージを伝えていたというのが、正当化の根拠として利用されているのだろう。よくあるレトリックである。

 先述のトリニティー・クリスチャン・センターのサイトの牧師プロフィールには、「強烈な使徒的油注ぎを受けた預言者として広く認められている」とある。

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 以下にビデオは2012年9月8日のもののようだが、同じシンガポールのシティー・ハーベスト・チャーチ(CHC)のコン・ヒー牧師が説教し、その後、舞台上でコン・ヒー氏の妻であり、牧師、そしてポップ歌手のホー・ヨースン(Reverend Ho Yeow Sun、スン・ホーとも呼ばれている)が歌っている間、舞台下ではドミニク・ヤオ氏がコン・ヒー氏と共に、横一列に並んだ人々に「按手」し、後ろに倒れるまで続けているのがわかる(13分10秒から)。


Rev Dominic Yeo - 5 Keys To A Breakthrough - 5 of 6 (Sep 8, 2012)


Rev Dominic Yeo - 5 Keys To A Breakthrough - 6 of 6 (Sep 8, 2012)

 コン・ヒー氏は妻の歌手活動(ネット上で「Sun - Fancy Free」と検索すると彼女のビデオクリップを見ることができるが、率直に言って観ない方がいいと思う)のために膨大な額の資金を着服した罪で、2015年10月に8年の有罪判決を受けている。

 逮捕されたのは2012年6月27日とあるので、上のビデオはその逮捕され保釈後のものなのだろうか。確認が必要である。(→こちらの2012年10月15日付けの記事には、「しかし、牧師は罪を認めておらず、保釈後は以前と同様に説教を続けている。」とあるので、9月8日に録画されたビデオなのだろう。)

 要するに2012年9月8日の集会において、ヤオ氏は人々の頭に按手しながら、自分の隣りで一緒に祈っているコン・ヒー氏が約2か月前に逮捕されていたことを認識していたことになる。

 

 いずれにせよ、使徒パウロが伝道者テモテに対して書き記した訓戒「また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。」(Ⅰテモテ5:22)は、実に摂理的である。

 勿論、私の意見はヤオ氏個人に対する個人的批判というレベルより、もっと根の深い部分に対する危機感によるものである。

 

  以下、ドミニク・ヤオ氏をはじめとする新使徒運動と、日本のアッセンブリー教団との関わりに関する警告の記事である。

AGを侵食する新使徒運動 : 村上 密 Blog

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の危機 : 村上 密 Blog