イスラエル産のナツメヤシの実(デーツ)
近所のスーパーにイスラエル産のナツメヤシの実(デーツ)が売っていたので、思わず買ってしまった。今まで見たナツメヤシの実の中では一番大きい種類のもので、大人の手の親指ぐらいの太さがある。味は何となく干し柿や甘納豆のような独特の甘さをもつ。緑茶とも合うのではないだろうか。
聖書においてナツメヤシ(口語訳や新改訳では【しゅろ】とも呼ばれている)は、多く言及されている。
仮庵の祭の時にはその枝を使うように命じられていた。
レビ記23:40
初めの日に、美しい木の実と、なつめやしの枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝を取って、七日の間あなたがたの神、主の前に楽しまなければならない。
士師の時代には女預言者であったデボラがその下に座っていた「デボラのしゅろの木」と呼ばれるナツメヤシがあった。
士師記4:5
彼女はエフライムの山地のラマとベテルの間にあるデボラのしゅろの木の下に座し、イスラエルの人々は彼女のもとに上ってきて、さばきをうけた。
世界最古の町とも言われているエリコは、「しゅろの町」と呼ばれていた。
申命記34:3
ネゲブと低地、すなわち、しゅろの町エリコの谷をゾアルまで示された。
また詩篇においては、「祝福された義人」のシンボルとして記述されている。
詩篇92:12
正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。
御子が地上宣教の最後の過ぎ越しの祭のためにエルサレムに入城したとき、群衆はナツメヤシの枝を手にとり、御子を祝福しながら迎えた。
ヨハネ12:13
しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。
黙示録に啓示されている天上の幻においては、勝利や平和のシンボルである。
黙示録7:9-10
9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、
10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。
ちなみにヘブライ語では【תָּמָר / tâmâr /タマル】で、ユダの子の妻(創世記38:6)やダビデの娘(Ⅱサムエル13:1-22)、アブサロムの娘(Ⅱサムエル14:27)など女性の名前としても使われている。
私たちの理解を超える御子の働きかけ
ヨハネ5:1-14
1 こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。
2 エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。
3 その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。
4 それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕
5 さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。
6 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
7 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
9 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。
10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った、「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」。
11 彼は答えた、「わたしをなおして下さったかたが、床を取りあげて歩けと、わたしに言われました」。
12 彼らは尋ねた、「取りあげて歩けと言った人は、だれか」。
13 しかし、このいやされた人は、それがだれであるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと出て行かれたからである。
14 そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。
「なおりたいのか」
御子は、べテスダの池の五つの廊の中で横たわっていた大勢の病人が、プールサイドのテラスでカクテル片手に日光浴を楽しんでいた観光客ではないことぐらい知っていたはずである。そこにいた人々は、自分がいつか癒されることを待ち望んでいたことは、誰の目にも明らかであった。
その時点ではどこの誰かも知らない男に、突然「なおりたいか」と問いかけられたこの病人が、「ハァ、何言ってんだ、この男は。当たり前だろう」と心の中でイライラしながら考えたとしても、誰も彼のことを非難することはできないだろう。
「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」
御子はこの命令をべテスダの池の近くにいた大勢の病人たちの中から、決して自力では歩くことができなかった一人の男にした。目の見えない人や耳の聞こえない病人もいたはずである。足の不自由な人々さえも他にいたようである。彼らは「なおりたい」という思いがなかったのだろうか。同じように横たわっていたこれらの病人は、「起きて、そして歩きなさい」という言葉と共に、癒しを必要としていなかったのだろうか。
しかし御子はその時、大勢の病人の中からたった一人だけ、しかも38年間もの病期によって自分では決して歩くことができなかった一人の男に、「起きて、歩きなさい」と命じられた。
御子がもし望んだなら、たった一声で、いや一言も言わずに、そこにいた全員のあらゆる病気を一瞬で癒すこともできた。しかし御子は、この一人の男だけを癒し、その場を立ち去った。
しかもユダヤ人の偽善者たちが「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」と難癖つけることを十分知っていたはずなのに、ただ「起きて、歩きなさい」とは言わず、敢えて「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と命じ、しかも安息日に癒しの奇蹟を行った。
「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」
御子がこの深刻な忠告を語った時、癒しを受けた男が自分の足で必死に自分を癒してくれた見知らぬ人物を探しまくり、やっとのことで見つけたのではなかった。御子の方がこの男を探し、見つけて訓告したのである。
(新改訳)
その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。
もしこの記事を読んでいるあなたが、何か思いがけない感じで聖書の言葉に出会い、よくわからないけれど不思議と何度かそれに触れ、何となく自分の心に引っかかるものを感じているというならば、あなたに語りかけられている「静かな声」を決して軽くあしらわないでほしい。
主なる神は生きていて、あなたが想像する以上にあなたの魂の見えない必要を深くご存じであり、あなたが理解できる以上に「いつ、どこで、何を、どのように」あなたに働きかけるべきかを完全に知っておられるからである。
へブル3:7-8
7 だから、聖霊が言っているように、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
8 荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。
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三位一体的神観を啓示する新約聖書の数々の聖句
以下の数々の聖句は、様態論的神観(または「サベリウス主義」と呼ばれ、神には三人格があるのではなく、父、子、聖霊は三つの顕現体であり、その区別は様態の見せる現象にすぎないという説である。旧約時代には父として啓示され、十字架の死を通して全人類の罪を贖うために御子イエスとして、キリストの復活の後の教会時代には聖霊として顕れたという考える)を否定し、神の三位一体性を啓示しているだけでなく、その三位一体の神と信仰者との深い関係性を示している。
マタイ3:16-17
16 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。
17 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
マタイ28:19-20
19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
ルカ24:49
見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。
ここで話している「わたし」は御子であり、「わたしの父」は御父、「約束されたもの」とは御霊のことである。
使徒2:33
それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。
ローマ15:16
このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。
Ⅰコリント12:4-6
4 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。
5 務は種々あるが、主は同じである。
6 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
Ⅱコリント1:21-22
21 あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。
22 神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。
Ⅱコリント13:13
主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。
ガラテヤ4:6
このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。
エペソ3:14-19
14 こういうわけで、わたしはひざをかがめて、
15 天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。
16 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、
17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
使徒パウロのこの祈りは、これだけで何度もメディテーションできるほど深遠である。父なる神の私たちに対する願いや目的、手段、完成などが啓示されている。特に私たちがキリストの愛を実体験として知ることによって(「人知」を遙かに超えるキリストの愛を「知る」ことができる!)、私たちが「神に満ちているもののすべてによって満たされる」という真理は、私たちの魂を震わすほど崇高なものではないだろうか。
Ⅱテサロニケ2:13-14
13 しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、
14 そのために、わたしたちの福音によりあなたがたを召して、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせて下さるからである。
Ⅰペテロ1:1-2
1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、
2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。
ユダ1:20-21
20 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、
21 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
新約聖書における家の教会
新約聖書において記録されている「教会【ἐκκλησία ekklēsia】」は、決して物質的な建造物を意味しておらず、「神の恵みによってこの世から呼び出された信仰者の集まり」のことである。つまり「信仰者が集まって礼拝を捧げること」が重要なのであって、物理的な場所はどこであってもよかったのである。
実際、ある地域の個人住宅において兄弟姉妹が集っていた証しが、いくつの書き記されている。
- ローマの教会:天幕造りの職人夫婦であったプリスカとアクラの家において集っていた。
ローマ16:3-5
3 キリスト・イエスにあるわたしの同労者プリスカとアクラとに、よろしく言ってほしい。
4 彼らは、わたしのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである。彼らに対しては、わたしだけではなく、異邦人のすべての教会も、感謝している。
5 また、彼らの家の教会にも、よろしく。わたしの愛するエパネトに、よろしく言ってほしい。彼は、キリストにささげられたアジヤの初穂である。
- コロサイの教会:小アジア(現在のトルコ)のコロサイでは、ピレモンの個人宅で集っていた。「家にある教会」であって「家が教会」ではないことに注意。
ピレモン1:1-2
1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する同労者ピレモン、
2 姉妹アピヤ、わたしたちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。
- ラオデキヤの教会:コロサイの町から約17キロメートルの距離にある町ラオデキヤでは、ヌンパという信仰者の家で集っていた。アルキポ(コロサイのピレモンの息子ではなかったかと言われている)が「主にあって受けた務め」、おそらく長老として集まりの秩序を保つ責任が与えられていたと思われる。
コロサイ4:15-17
15 ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会とに、よろしく。
16 この手紙があなたがたの所で朗読されたら、ラオデキヤの教会でも朗読されるように、取り計らってほしい。またラオデキヤからまわって来る手紙を、あなたがたも朗読してほしい。
17 アルキポに、「主にあって受けた務をよく果すように」と伝えてほしい。
ちなみにラオデキヤからリクス川を挟んで約10キロメートル離れたヒエラポリスにおいても信仰者が集っていたようである。
コロサイ4:13
わたしは、彼があなたがたのため、またラオデキヤとヒエラポリスの人々のために、ひじょうに心労していることを、証言する。
このように比較的近い距離にあった3つの町(コロサイ、ラオデキヤ、ヒエラポリス)でそれぞれ信仰者たちが集い、使徒パウロの手紙が共有されるなど、相互に親密な交わりがあったことが記されている。
- エペソの教会:使徒パウロが第三次伝道旅行期間中、小アジアのエペソにおいて約三年間宣教活動していたが、そのときアクラとプリスカの個人宅で集っていたようである。
Ⅰコリント16:19
アジヤの諸教会から、あなたがたによろしく。アクラとプリスカとその家の教会から、主にあって心からよろしく。
使徒行伝19章によると、使徒パウロはエペソに行った時、最初の3か月はいつもの通りまずユダヤ人の会堂で伝道し、そのユダヤ人たちが福音を受け入れなかったので、今度はツラノの講堂(一種の学校だったと言われている)を借りて、そこで2年間毎日福音を伝えた。「アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた」という記述から、相当の数の人々が小アジア各地から集まって、入れ代わり立ち代わり毎日の集会に参加していたことが想像できる。
使徒19:8-10
8 それから、パウロは会堂にはいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした。
9 ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので、彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた。
10 それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。
その後、使徒パウロがエルサレムに向かう途中、ミレトでエペソの教会の長老たちに会い、話をした内容から判断すると、ツラノの講堂における二年間の宣教活動の後、さらに9か月ほどエペソの町で宣教し続けたことがわかる。おそらくその期間、上述のアクラとプリスカの個人宅で信仰者たちが集まっていたのだと思われる。
使徒20:17;31
17 そこでパウロは、ミレトからエペソに使をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。
31 だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。
使徒パウロをはじめ、多くのユダヤ人キリスト者たちは、元々安息日に会堂に出向いて礼拝を捧げることに慣れていた。だから彼らが「自分たちが集まるための教会堂を立てよう」と考えても不思議ではなかっただろう。しかも会堂に集まっていたユダヤ教徒たちが嫉妬するほど多くの人々が集まっていたのである。「ユダヤ人の会堂よりも立派な教会堂を建てよう」と言い出す人々が、あるいはいたかもしれない。
しかし上述の新約聖書の記録を読むと、使徒パウロたちがそのような建造物にこだわらず、状況に応じて柔軟に対応し、そして何よりも一番重要な点を優先して、キリストの福音を伝えるという使命のために非常に実践的な選択をしていたことがわかる。
それは特定な場所や時期・時間に制限されることのない生ける神を賛美し、その御心に従う在り方に相応しいものではないかと思う。
ヨハネ4:21-24
21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
使徒7:48-50
48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、
49 『主が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。
50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。
重要なことは「〇〇教会」と呼ばれる建造物において集うか、それとも「XX兄弟の個人宅」で集うかではない。どこにおいても決して目に見える要素に影響されることなく、キリストの御名において、キリストの栄光だけを求めて、聖霊の導きによって父なる神を礼拝を捧げることではないだろうか。
マタイ18:19-20
19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
ピリピ3:3
神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。
ユダ1:20-21
20 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、
21 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
「立憲主義」と「聖書主義」
【立憲主義 constitutionalism】
憲法によって支配者の恣意(しい)的な権力を制限しようとする思想および制度。
(大辞泉より引用)
法の支配 rule of the lawに類似した意味を持ち,およそ権力保持者の恣意によってではなく,法に従って権力が行使されるべきであるという政治原則をいう。狭義においては,特に政治権力を複数の権力保持者に分有せしめ,その相互的抑制作用を通じて権力の濫用を防止し,もって権力名宛人の利益を守り,政治体系の保全をはかろうとする政治原則である。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より一部引用)
この概念はそのままキリスト教会に適用して考えてみることができる。勿論、一つの政治国家にとって基準となるのが憲法であるように、否それ以上に、教会にとっての絶対的基準は聖書である。
そして如何なる組織または人物(現存の人物か、故人であるかは関係なく)に対しても、聖書が啓示する真理に並ぶ権威は与えられておらず、全ての組織または人物は、聖書の真理に従属すべき存在である。
だから「聖書主義」は、組織的権力の立場にいる者の自分勝手な権力行使を制限する在り方である。
Ⅰコリント4:1-2;6
1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
2 このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。
6 さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない。」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。
「書かれたこと」をよく学んだ長年の信仰者であっても、「書かれたことを越えない」こと、また「書かれたことに忠実である」ことは、さらに遜って学び続けなければならない、全ての信仰者の責務だと思う。
「〇〇牧師先生の✕✕教会」に関する考察
非常に興味深い、そして重要な問いかけをあるイタリア人クリスチャンが投げかけている。
新約聖書には、十二使徒だけではなく多くの「使徒」や、「預言者」(アガボ、ユダ、シラなど)、「伝道者」(ピリポ)そして「教師」(使徒行伝13:1参照)などの個人的な名前が出てくるが、なぜ一度も「牧師」の名前が記述されていないのだろうか。
実際、新約聖書の中には、現代のキリスト教会で一般的に使われているような「〇〇牧師」「△△牧師先生」といった、一人の個人の名前と「牧師」という肩書が一緒に記述されている箇所はどこにもない。
さらに言えば、「牧師」と和訳されている原語【ποιμήν poimēn】は、複数形でエペソ4:11において使用されているのみである。
エペソ4:11
そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
一度だけ、である。これは現代のキリスト教会の現状と比較すると、非常に示唆に富む事実である。
例えば現代では「〇〇牧師先生の✕✕教会」という表現が一般的に使われている。つまりこれは「〇〇牧師が✕✕教会を代表している」という意味合いである。インターネット上にはそのような表現がそれこそ無数にある。しかし新約聖書の中においてそれを見出すことができるだろうか。例えば「テモテ牧師のエペソ教会」「ルカ牧師のピリピ教会」という言い回しがあるだろうか。
そして現代においてもし「✕✕教会」から「〇〇牧師」がいなくなったらどうなるのだろうか。その地域教会は「無牧教会」「無牧状態」と呼ばれてしまうのである!
勿論、神の恵みと聖霊の導きを求める地域教会には、肩書とは関係なくその教会の秩序と調和と成長に責任を負う兄弟たちが必ずいるのである。しかしそれは、現代の「肩書偏重主義」や「牧師中心の牧会システム」とは全く異なる土台をもつのである。
マタイ18:19-20
19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
この御子の言葉は、「教会の成立条件」を提示している。この素晴らしい聖句から、私たちは何か不足感を感じるだろうか。牧師の肩書をもつ人物が浮かび上がってくるだろうか。
私たちの心の反応によって、私たちの現実的な「教会に関する観念」が明らかになるはずである。
わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。
ヨハネ16:29-33
29 弟子たちは言った、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。
30 あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。
31 イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。
32 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。
33 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
弟子たちの告白 「わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」と、それに対する御子の啓示「あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう」は、強烈なコントラストをなしている。「神から来られた方」が信じた者たちによって「ひとりだけに残される」。
しかしこれは信仰者の日常の生活において繰り返し起きていることではないだろうか。信仰者の心の中には、神から授けられた聖霊が宿っている。しかしもし私たちが正直ならば、私たちの多くの言動においてその聖霊は「ひとりだけ残されている」状態であると気付くのではないだろうか。一日の中の多くの選択において、聖霊の導きは忘れられ、たとえ祈ったとしても明確な光と回答を得るまで決して事を始めないという決意ある祈りは稀である。
むしろ多くの場合、私たちの祈りは自分たちの選択に対して神の祝福を求めるものであり、「これとあれを今日中に終わらさなければならないので助けてください」「今日の大事な仕事がありますので、どうぞ祝福してください」といった感じである。
しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。
これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。
あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。
私たちの祈りを「多くのリクエストのリストアップ」から解放し、恵みによって三位一体の神の交わりのうちに置かれていることに賛美を捧げよう。その交わりに留まることで、私たちの孤独や苦悩は、いつの間にか平安と勇気に変わっていくのである。