「立憲主義」と「聖書主義」
【立憲主義 constitutionalism】
憲法によって支配者の恣意(しい)的な権力を制限しようとする思想および制度。
(大辞泉より引用)
法の支配 rule of the lawに類似した意味を持ち,およそ権力保持者の恣意によってではなく,法に従って権力が行使されるべきであるという政治原則をいう。狭義においては,特に政治権力を複数の権力保持者に分有せしめ,その相互的抑制作用を通じて権力の濫用を防止し,もって権力名宛人の利益を守り,政治体系の保全をはかろうとする政治原則である。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より一部引用)
この概念はそのままキリスト教会に適用して考えてみることができる。勿論、一つの政治国家にとって基準となるのが憲法であるように、否それ以上に、教会にとっての絶対的基準は聖書である。
そして如何なる組織または人物(現存の人物か、故人であるかは関係なく)に対しても、聖書が啓示する真理に並ぶ権威は与えられておらず、全ての組織または人物は、聖書の真理に従属すべき存在である。
だから「聖書主義」は、組織的権力の立場にいる者の自分勝手な権力行使を制限する在り方である。
Ⅰコリント4:1-2;6
1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
2 このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。
6 さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない。」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。
「書かれたこと」をよく学んだ長年の信仰者であっても、「書かれたことを越えない」こと、また「書かれたことに忠実である」ことは、さらに遜って学び続けなければならない、全ての信仰者の責務だと思う。
「〇〇牧師先生の✕✕教会」に関する考察
非常に興味深い、そして重要な問いかけをあるイタリア人クリスチャンが投げかけている。
新約聖書には、十二使徒だけではなく多くの「使徒」や、「預言者」(アガボ、ユダ、シラなど)、「伝道者」(ピリポ)そして「教師」(使徒行伝13:1参照)などの個人的な名前が出てくるが、なぜ一度も「牧師」の名前が記述されていないのだろうか。
実際、新約聖書の中には、現代のキリスト教会で一般的に使われているような「〇〇牧師」「△△牧師先生」といった、一人の個人の名前と「牧師」という肩書が一緒に記述されている箇所はどこにもない。
さらに言えば、「牧師」と和訳されている原語【ποιμήν poimēn】は、複数形でエペソ4:11において使用されているのみである。
エペソ4:11
そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
一度だけ、である。これは現代のキリスト教会の現状と比較すると、非常に示唆に富む事実である。
例えば現代では「〇〇牧師先生の✕✕教会」という表現が一般的に使われている。つまりこれは「〇〇牧師が✕✕教会を代表している」という意味合いである。インターネット上にはそのような表現がそれこそ無数にある。しかし新約聖書の中においてそれを見出すことができるだろうか。例えば「テモテ牧師のエペソ教会」「ルカ牧師のピリピ教会」という言い回しがあるだろうか。
そして現代においてもし「✕✕教会」から「〇〇牧師」がいなくなったらどうなるのだろうか。その地域教会は「無牧教会」「無牧状態」と呼ばれてしまうのである!
勿論、神の恵みと聖霊の導きを求める地域教会には、肩書とは関係なくその教会の秩序と調和と成長に責任を負う兄弟たちが必ずいるのである。しかしそれは、現代の「肩書偏重主義」や「牧師中心の牧会システム」とは全く異なる土台をもつのである。
マタイ18:19-20
19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
この御子の言葉は、「教会の成立条件」を提示している。この素晴らしい聖句から、私たちは何か不足感を感じるだろうか。牧師の肩書をもつ人物が浮かび上がってくるだろうか。
私たちの心の反応によって、私たちの現実的な「教会に関する観念」が明らかになるはずである。
わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。
ヨハネ16:29-33
29 弟子たちは言った、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。
30 あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。
31 イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。
32 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。
33 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
弟子たちの告白 「わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」と、それに対する御子の啓示「あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう」は、強烈なコントラストをなしている。「神から来られた方」が信じた者たちによって「ひとりだけに残される」。
しかしこれは信仰者の日常の生活において繰り返し起きていることではないだろうか。信仰者の心の中には、神から授けられた聖霊が宿っている。しかしもし私たちが正直ならば、私たちの多くの言動においてその聖霊は「ひとりだけ残されている」状態であると気付くのではないだろうか。一日の中の多くの選択において、聖霊の導きは忘れられ、たとえ祈ったとしても明確な光と回答を得るまで決して事を始めないという決意ある祈りは稀である。
むしろ多くの場合、私たちの祈りは自分たちの選択に対して神の祝福を求めるものであり、「これとあれを今日中に終わらさなければならないので助けてください」「今日の大事な仕事がありますので、どうぞ祝福してください」といった感じである。
しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。
これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。
あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。
私たちの祈りを「多くのリクエストのリストアップ」から解放し、恵みによって三位一体の神の交わりのうちに置かれていることに賛美を捧げよう。その交わりに留まることで、私たちの孤独や苦悩は、いつの間にか平安と勇気に変わっていくのである。
教皇のボローニャ訪問
明日10月1日の日曜日に、私が住んでいる街にカトリック教会のフランチェスコ教皇が訪問するらしい。教皇一団が移動のために通過する道路は朝9時から夜21時まで封鎖されるのだが、その経路に私の住んでいる通りがあり、どうやら車で外には出れないかもしれない。路上にあるごみ収集の箱や自動車、自転車なども夜中に撤去されるという。
(沿道から入ったところにさえ、このような「歓迎のしるし」が飾られていた。しかし「SALVE REGINA」は、「女王万歳」という感じで、マリアを「天の女王」として讃える表現である。窓に置かれた像といい、カトリック信仰の現実がこのようなところに顕れている。)
世界的規模の組織の最高責任者の安全ためとして考えるなら、然るべき措置であるだろう。ただその組織の教義がその人物を「地上におけるキリストの代理人」としている以上、新約聖書の中で啓示されている御子イエス・キリストとの比較はあって然るべきものではないだろうか。
御子イエスは地上の生涯において、常に身の危険に晒されながらも警察や軍隊の警護を同伴していなかった。むしろゲツセマネの園において、群衆(一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たち)は剣と棒とを持って御子を捕らえ、それを見た弟子たちは御子を残して一同逃げ隠れたほどであった。
マルコ14:43-50
43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。
44 イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引ひっぱって行け」。
45 彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
46 人々はイエスに手をかけてつかまえた。
47 すると、イエスのそばに立っていた者のひとりが、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落した。
48 イエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。
49 わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。
50 弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
確かに最後にエルサレムの街に入った時、民衆は「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」と喜んで叫んでいたものの、その様相は「神の御子」「イスラエルの王」「世の救い主メシア」としてはとても謙遜なものだった。
マタイ21:1-11
1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、
2 「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。
3 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。
4 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。
5 すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。
6 弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、
7 ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8 群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。
9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
10 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。
11 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。
3年の歳月にわたって御子を師と崇め、従ってきた弟子たちさえも、実際のところその御子の謙虚さが何を意味しているのか理解していなかった。
ヨハネ12:12-16
12 その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、
13 しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。
14 イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは
15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。
16 弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。
何よりもその群衆たちは数日後、ローマ総督ピラトの前で同じ御子に対して何度も「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」と叫ぶことになる。
ヨハネ19:14-15
14 その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。
15 すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。
そして死から復活した御子がこの世にご自身を顕わした時、エルサレムの神殿の上に立って眩いばかり光を放ち、天空に轟き渡る声で勝利を宣言することはなかった。御子の栄光を考えれば、それ以上のあらゆる超自然的現象が伴っていても決して度を過ぎることはなかっただろう。
しかし現実には、葬られていた墓の前で泣き崩れていたマグダラのマリアが「墓園の番人」だと勘違いするほどごく「普通のあり様」であった。
ヨハネ20:11-15
11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
その後、権力者たちに怯え、身を隠していた弟子たちにも御姿を顕わしたのだが、その復活の姿には磔刑の釘と槍の傷痕があった。
ヨハネ20:19-23
19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
神の国やその祝福の顕れは、一人の人間の物理的移動によるものではなく、御子を信じる者たちが霊と真理をもって父なる神に礼拝を捧げるときに成就するものである。
ルカ17:20-21
20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
ヨハネ4:21-24
21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
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「怒ってペン」:語感が痛快だが、おそらく【Penne all'arrabbiata ペンネ・アッラッラッビァータ】のことをだろう。すぐ下に【ペンネ・アッラ・ウォッカ Penne alla vodka】があり、なぜ同じ「ペンネ」なのにいきなり「ペン」となってしまうのか不思議である。どうせなら「怒ってペンネ」の方が良かったかも...
「最初の魚」:ミロクンミンギアを想像してしまうが、Primi di pesce(魚介類をベースにしたパスタやリゾット、所謂「第一皿」)のことだろう。
「生ハムとメロソとお皿」:あえて「お皿」と書き添えられているところは、さすが世界の観光地ヴェネツィアのレストラン。通常の値段よりも高いことをさりげなく納得させるワザ...ではない。
手書きの「火 尭 き」が何だかキャンプファイヤーを楽しんでいるようでとてもキュート。でも「焼き野菜の混合」は食べたくないイメージ...
以下のブログ記事も面白い。
当然これらのレストランのオーナーは、決してウケを狙ってこのような日本語メニューを用意したわけもなく、自分のレストランで提供する料理をイタリア語も英語も理解できない日本人観光客がオーダーできるようにと、いたって真剣な動機とサービス精神によって自分たちのメニューを日本語に「翻訳」したはずである。しかしその翻訳が正しいかどうか確認しないままで出してしまったことで、このような珍妙なものが生れてしまったのだ。
確かに、他人に対して提供できるものをもち、熱意と奉仕の精神によってそれを真剣に行ったとしても、客観的な確認を怠ると、滑稽な(そして状況によっては傍迷惑な)独り善がりに陥る危険性は誰にでもあるのではないかと思う。
「色」を失うことで顕れるもの
先日、読者の方から日本の彼岸花(別名:曼殊沙華、イタリア語名は【Giglio ragno rosso】で直訳すると【赤蜘蛛ユリ】である)の写真が一枚送られてきた。久しぶりに見るその鮮やかな色に感動していたのだが、同じ方から次の日に同一の写真のモノクロームのバージョンが送られてきて、まるでベネツィアのガラス細工のような透明感のある美しさに心を奪われてしまった。
全く同じ花の写真でも、モノクロームの場合だとよりその繊細な造形が際立つように思える。色彩という支配的な要素を故意に取り除くことによって、色彩の強さに隠されていた異なる様相が前面に出てくるのである。
これは興味深い真理を表している。信仰者は、神の永遠の計画の中にある自身の人生を十分に把握していない。言い換えるならば、主なる神が私たちの人生を通して具体的に成し遂げようとしていることの全容を知らないし、部分的に知っていたとしても、その意味を正確には理解していないことが多いのではないだろうか。
そのゆえか、主なる神は時に私たちの人生から私たち自身が美しいと思っている「色」を敢えて取り除く。それは愛する人との突然の離別であったり、不慮の事故や病気、失業、損失、または自身の失敗や罪などを通しておきる。
あるいは「何も起きないこと」いや「何も起きないように取り繕うこと」がゆっくりの私たちの人生から「色」を取り去ることもある。いずれにせよ、気付くと私たちの人生は生き生きとした色を失い、霧の中のようにモノトーンな世界の中に沈んでいたりする。
しかし私たちの認識によれば「色を失った状態」でも、全てをご存じである主なる神の観点からすれば、それまで覆われしまっていた何か特殊な聖霊の働きをこの世に示すプロセスなのかもしれない。
実際、永遠に変わらないものを覆い続けている一過性のものは、やがてその輝きを失い、色を失っていく。しかし永遠に変わらぬものは、静かにいのちの光を放ち続けるのである。
箴言31:30(新改訳)
麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。
Ⅱコリント4:18
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
Ⅰヨハネ2:15-17
15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。
御子イエスの喜び
ヨハネ16:20-22
20 よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。
21 女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。
22 このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。
自分たちの師が恥辱的な刑によって裁かれるという、受け入れることは勿論、想像することもできない状況が近づいているのを肌で感じ、言い様のない不安に陥っていた弟子たちの心を、誰も奪い去ることのできない喜びに満たすことができたのは、御子の復活だけであった。
そのご自身の復活に関する御子の表現は非常に興味深い。
しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。
「あなたがたは再び私と会うであろう」とは言わなかった。主語はあくまで御子である。「御子が」「弟子たちと」「再び会う」と約束しているのである。
(KJV)
And ye now therefore have sorrow: but I will see you again, and your heart shall rejoice, and your joy no man taketh from you.
これは私たち信仰者が心に感じる喜びが、「神の絶対的主権」や「神の一方的恵み」そして「神の意志」に根差していることを意味している。つまりここで言う「喜び」は、私たちの気質や気性によって派生するような一時的な感情というよりは、より深い、御子の復活の霊に基づくものなのである。
実際、信仰者のうちに宿る喜びは、「御子の喜び」であると御子自身が啓示している。
ヨハネ15:11
わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
そしてそれは「御霊の実」、つまり御子を死からよみがえらせた聖霊から満ち溢れ、生れ出てくるものである。(この「御子の喜びが宿り、信仰者の心が喜びで満ち溢れる」という真理を、聖霊の満たしと関連づけることができる。)
ガラテヤ5:22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
人為的な方法を用いて、聴衆の心を高揚させ、それを「神の臨在による喜び」だとする礼拝も少なくない。参加者の心を引き上げようという動機によるものなのかもしれないが、そのような人為的な方法や心理操作から生れてくる一時的な感情は、皮肉なことに(そして恐ろしいことに)より深い霊的憂鬱をもたらすことは、多くの信仰者が実体験していることではないだろうか。
このような点においても、私たちは立ち止まり、神の恵みを再確認する必要があると思う。