an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ジョン・オーウェンの試練、そして予定論の不条理

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 17世紀の神学者ジョン・オーウェン(1616-1683)の生涯に関するある記述を読んで興味をもち、彼の著作に関してリサーチしたのだが、WEB上では日本語に翻訳されたものは非常に少ないことがわかった。

 私がなぜオーウェンに興味を持ったかというと、その神学的見解というよりも、彼のプライベートな面においてである。オーウェンは28歳の時にメリーという女性と結婚したのだが、二人の間に生まれた11人の子供たちのうち、何と10人を幼年期のうちに失っており、成人したのはたった一人の娘だけだったというのである。(その唯一の娘も、結婚後しばらくして肺病で亡くなっている。)

 この世には数えきれないほどの苦痛があると思うが、親が子に先立たれる痛みは筆舌尽くし難いものではないかと思う。しかもその死別が、まるで繰り返し打ち寄せる荒波のように容赦なく襲ってくるとき、誰がオーウェン夫妻の心を想像することが出来ようか。

 しかし以下のようなカルヴァン主義的見解を読むとき、オーウェンはどのように自分の幼き子供たちの死を受け止めていたのか、とまどってしまう。

http://home.cilas.net/~msbcsc/forwhomdie.htm

『キリストは誰のために死なれたか。』

 

父なる神が怒りを下し、御子が刑罰を受けられたのは、
1.すべての人のすべての罪のため、
2.ある人々のすべての罪のため、
3.すべての人のある罪のため、

のいづれかである。


そして、それぞれは次のように言うことができる。

イ、もし、3番目が正しいとなると、すべての人はある罪について責任をとらなければならず、したがって、誰ひとり救われない。

ロ、2番目が正しいとなると、キリストは世界中から選ばれたすべての人のすべての罪のために、彼らに代わって苦しみをお受けになったということになる。これこそ真理である。

ハ、しかし、1番目であった場合、なぜすべての人は罪の刑罰を免れないのか。あなたは「不信仰のためだ」と答えるだろう。では、その不信仰は罪なのか、そうではないのか。もし罪なら、キリストはその罪のためにも刑罰をお受けになったか、そうでないかのいずれかである。もし、お受けになったのであれば、なぜそれは、キリストがそのために死んでくださったというほかの罪以上に妨げになるのか。もし、お受けにならなかったのであれば、キリストはすべての人のすべての罪のために死なれたのではない。

 

ジョン・オーウェン 

 目の前で死にゆく魂のためにイエス・キリストがその尊きいのちを捧げてくださったどうか確信を持てない時、何を根拠に祈ればいいのだろうか。

 しかし以下に引用する聖句は、確かにキリストの死が全ての人のためであり、全ての人に例外なく影響するわざであることを証明している。

ヨハネ12:32-33

32 そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。

33 イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。

ローマ5:18

このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである

ローマ11:32

すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。

Ⅱコリント5:14-15

14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである

15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。 

 キリストの死が全ての人のためであるという前提があるからこそ、「福音を信じないこと」が罪に定められるのであって、恩恵を受けられなかった人から恩恵の責任を求めるのは不条理である。つまり予定論的前提に立てば、救いの恩恵に選ばれていない人々に対して、「なぜ神の恩恵をないがしろにするのか」と非難することはできない、ということである。恩赦をうけたことなどない囚人に、「なぜ牢獄から出ないのだ」と非難するようなものだからである。

 ちなみにオーウェンが説くところの「キリストがそのために死んでくださったというほかの罪以上に妨げになる罪」とは、「神の恵みを啓示する聖霊に逆らう罪」であり、それは魂の救いの可能性に信頼しないがゆえに「死に至る罪」である。

マタイ12:31-32

31 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。

32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

Ⅰヨハネ5:16-17

16 だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。

17 不正はみな罪ですが 、死に至らない罪があります。

 

 以下、ジョン・オーウェンの著作で和訳されているものである。

『信者のうちにおける罪の抑制について:その必要性と性質と手段』(1658年)

「あなたの信仰があなたを救ったのだ」

ルカ17:11-19

11 イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。

12 そして、ある村にはいられると、十人のらい病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、

13 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。

14 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。

15 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、

16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。

17 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。

18 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。

19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。 

 御子は十人のらい病人に「私が今からあなたがたの病気を奇蹟的に癒すから、癒された時点で、私のところに戻ってきて感謝しなさい」とは言わなかった。当然、他の機会にそうしたように、その場において彼らの病気を一瞬で癒すこともできたはずである。

ルカ5:12-13

12 イエスがある町におられた時、全身らい病になっている人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。

13 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病がただちに去ってしまった。

  しかしこの十人に対しては、癒すことさえも約束することなく、ただ「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と命じただけだった。この命令は、レビ記13-14章に記述されている戒律に従ったものであった。実際、その2章の中には何度も「もし人にらい病の患部があるならば、その人を祭司のもとに連れて行かなければならない。」「祭司はそれを見て」という表現が繰り返されている。神の宮で仕えていた祭司たちがらい病人を「診断」し、「清いか清くないか」つまり「癒されたかどうか」を判断し、その結果次第で主なる神に犠牲を捧げたり対応しなければならなかったのである。

 十人のらい病人全員が道中、奇蹟的に癒されたのだが、その中の一人だけ、しかもユダヤ人から「混血の異端の民」と侮蔑されていたサマリヤ人の一人だけが、祭司の所に行かず、神をほめたたえながら御子の所に戻ってきた。(癒された男が「大声で神をほめたたえながら帰ってきて」と記述してあるのに対して、御子は「神をほめたたえるために帰ってきた」と言っているのは、真の礼拝は御子イエスによって捧げるという真理を暗示していないだろうか。)

 興味深いのは、御子は「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」とだけ命じていたにもかかわらず、癒された全員が神をほめたたえるために御子の所に戻ってくることは当然のことだと考えていたことである。この思いがあったからこそ、「他の九人はどこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」と問われたのである。

15 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、

16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。

17 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。

18 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。

 つまり御子はらい病を癒す神の力を示すだけでなく、神をほめたたえるために祭司たちが仕えていた神の宮にではなく、ご自分の所に、しかも命令に服従してではなく、「自発的に」「感謝の気持ちによって」帰ってくることを当然だと思っていたのである。

 このエピソードからも、御子がモーセの律法の尊守を超えて人々に働きかけていたことが理解できる。また奇蹟には御子に対する信仰が必ず伴うとは限らないこと、そして御子が私たちの自発的選択を期待していることを示している。

 だからこそ、癒された男の個人的信仰について救いを保証しているのである。

それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。  

無邪気ではいられない(8)AIとマーケティング的アプローチ

 最近、AI(人工知能)について色々考えている。正直に言って、技術的な面に関してはさっぱり理解できないが、AIを取り巻く問題は信仰者が除外できるほど遠くにはないと思う。

 多くのクリスチャンもFacebookやTwitter、LineなどのSNSなど利用していて、その膨大なデータが知らない形で蓄積されている。「この宗派に属するクリスチャンは、あるトピックに関して、こう反応し、こういうコメントをした」「ある種のクリスチャンは、このような音楽を好み、Youtubeでこういう映像を検索した」といった詳細な個人情報が大量に蓄積され、統計学的解析が行われる。そのデータが多ければ多いほど、カテゴリーごとに思考や行動のパターンの枠組みができてくるわけである。

 当然、マーケティング的方法論を「宣教」や「牧会」に取り入れることに倫理性を問わない人々は、AIによるデータ解析を利用することに躊躇うことはないだろう。「ある特定の教会の聖職者ではない人物を使えば、より広範囲の、超教派的な意識をもつ層にアクセスできる」「このホットなテーマを扱えば、地域教会に通ってないが色々な問題意識を持っている信仰者の好奇心に訴えることができる」「説教や講演の際、こういうジョークや逸話を使うと、人々は心を開く」「このような賛美を取り入れると、聴衆の感情的に巻き込むことができる」など、神学的バランスも含めて全て「戦略的プログラム」を組み立て、利用することができるだろう。

 例えば、日曜日の午前中に移動可能な範囲の地域について、「性別」「年齢」「家族構成」「学歴」「職業」「病歴」「趣味」「個人信条や政治観」「願望」「SNS上の繫がり」「潜在的欲求」「地域のおける人の流れ」などの個人データの蓄積をAIに分析・予測させれば、その地域のあるターゲット層が何を考え、信じ、どんな行動し、何に不満をもっているか、何を求めているか、どこに集まれるか、など具体的なデータに基づいた「戦略的プログラム」を立てることができるのである。私のような素人が思いつくのだから、程度の差こそあれ、すでに実行している人々は少なくないのではないだろうか。

 とは言え、聖霊の導きを求める信仰者にとって、このようなアプローチは狡猾で不誠実に思える、と信じたい。だが、ある種の人々にとっては、「神から知恵」であり、「上からの賜物」と見なされることもまた現実である。インターネットから見つけてきた「説教」をそのまま講壇から語り、あたかも聖霊による導きかのような興奮を演出する人々にとって、そのアプローチは全く問題ないどころか、積極的に用いるべきものとしか映らないだろう。

 過去に思わぬ状況で、マーケティング方法論を取り入れたあるアメリカ人講師の「説教論」を聴いたことがある。彼は実際に一つのテーマを講習生の一人に選ばせ、そのテーマの合わせた聖句を数節選び出し、その場で15分ほどの「説教」を組み立てて見せた。心理学的アプローチを取り入れながら、如何に聴衆の心を引き寄せるか、実践してみせた。それは実際、長年の経験から生み出された、実に完成度の高い魅力的な「スピーチ」ではあったが、同時に非常に不誠実で後味の悪い「種明かし」に思えた。

 このようなタイプのアプローチは、単純に聖句を引用しているからと安心して受け入れることができるものではないと、私は信じる。

 いつの時代でも、宗教は時の権力に利用され、地上の教会は少なからず巻き込まれてきた。AI自体はひとつのツールであるが、真の問題はそれを意図的に「神の位置に祀り上げる」傾向であり、その偶像化されたものを「誰が」「何のために」利用するかではないだろうか。

 無邪気ではいられない、と思う。 

「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。」

マタイ9:1-8

1 さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。

2 すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。

3 すると、ある律法学者たちが心の中で言った、「この人は神を汚している」。

4 イエスは彼らの考えを見抜いて、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。

5 あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。

6 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。

7 すると彼は起きあがり、家に帰って行った。

8 群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。

なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。

 共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)を読み比べると、律法学者たちの心の中にあった「悪い考え」の本質がより明らかになる。

マルコ2:6-8

6 ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、

7 「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。

8 イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。

ルカ5:21-22

21 すると律法学者とパリサイ人たちとは、「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って論じはじめた。

22 イエスは彼らの論議を見ぬいて、「あなたがたは心の中で何を論じているのか。

  • マタイ:「この人は神を汚している」
  • マルコ:「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」
  • ルカ:「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」

 つまり律法学者たちは、イエスが罪を赦す権威をもっていることを信じず、その主張を「神に対する冒涜」と断罪したのである。神だけが持ちうる権威を目の前にいる一人の人間がもつはずない、つまり「イエスが神の子であるはずがない」と判断した。

 その心の中の思いが、御子の目から見ると「悪い考え」なのである。

 キリストの神性や三位一体論などについて話題にしたり、議論したり、文章にしたりする時、単なる一つの神学的概念を扱っているのではなく、私たちの救いの為に犠牲を厭わない愛の神のパーソンについて話している、という畏れの思いは、欠かすことができないものではないだろうか。特に信仰者は、人の目に隠れた心の中を見、議論の本質を見抜く「御子の眼差し」を絶えず意識するべきではないだろうか。

トマスが証ししたキリストの神性

ヨハネ20:24-29

24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。

25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。

27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。

28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。

29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

 復活の朝から八日後、再度弟子たちの前に御子が顕れた時、御子は十二弟子の一人のトマスに個人的に話しかけられた。トマスが八日前の顕現の時に他の弟子たちとは一緒にいなかったため、御子の復活を疑っていたからである。

 御子は再度ご自身を弟子たち全員に顕わすことで十分だったはずである。しかし彼はトマスに個人的に話しかけられた。

それからトマスに言われた。

  おそらく自分の救い主、教師として従っていたイエスが、十字架の磔刑という、悍ましい呪われた異邦人の死を遂げたことを目の前で見てしまったトマスの心は、失望と恐怖で深く深く傷ついていただろう。御子はそのような心を造り変えるために、個人的にトマスに話しかけたのである。

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。

 この御子の自分に対する個人的な言葉を聞いて、トマスは御子に対して驚きながら答えている。

トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。

 

(KJV)

And Thomas answered and said unto him, My Lord and my God. 

 トマスは御子イエスに対して答えて叫んでいるのである。聖書は『トマスはイエスの前で神を賛美し叫んだ、「わが主よ、わが神よ」。』と書いていない。トマスは御子に対して「わが主よ、わが神よ」と答えているのである。

 そして御子はそのトマスの信仰の言葉として受け止めている。決して「私は神の子であって、あなたの神ではない」とは訂正していないのである。

イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」

 この箇所もまた、キリストの神性の明確に証ししているところである。

預言者イザヤは神殿の中でイエスの栄光を見た

ヨハネ12:20-50

20 祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。

21 彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。

22 ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。

23  すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。

24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。

26 もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。

27 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。

28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。

29 すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。

30 イエスは答えて言われた、「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。

31 今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。

32 そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。

33 イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。

34 すると群衆はイエスにむかって言った、「わたしたちは律法によって、キリストはいつまでも生きておいでになるのだ、と聞いていました。それだのに、どうして人の子は上げられねばならないと、言われるのですか。その人の子とは、だれのことですか」。

35 そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。

36 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。

37 このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。

38 それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。

39 こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、

40 「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。

41 イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。

42 しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。

43 彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。

44 イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、

45 また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。

46 わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。

47 たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。

48 わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。

49 わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。

50 わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。

 イエス・キリストが行っていた多くの奇蹟を目にしながらも信じようとしなかった群衆は、天からの声を聞いても、その不信仰な心を捨てることはなかった。

このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。

 そのような不信仰に対して、福音書記者のヨハネはイザヤ書の預言を二つ引用し、群衆の反応が決して想定外の反応ではなく、あくまで預言の成就であることを説明している。

それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。

こういうわけで、彼らは信じることができなかった。

 ヨハネはLXX訳(旧約聖書のギリシャ語訳)からイザヤ53:1を引用し、御子に関する不信仰が預言の成就であるとしている。使徒パウロも同じ預言を引用し、福音に対する人々の不信仰に適用している。

ローマ10:16

しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。 

 このイザヤ53章は、メシアの苦難に関してまるで目撃したかのように預言されている箇所であることは、とても意味深い。(預言者イザヤは、紀元前8世紀の人である!)

 さらにヨハネはイザヤ書からもう一箇所、預言を引用している。

イザヤはまた、こうも言った、

「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。

イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。

 こちらもヨハネはイザヤ6:10のLXX訳から引用している。重要なのは、ヨハネが提示している理由「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである」の文脈である。預言者イザヤはエルサレムの神殿の中で王座に座している主(adonai)が見た時、はっきりと「わたしの目が万軍の主なる王を見た」と告白しているのだが、使徒ヨハネはそれを「イエスの栄光を見た」と説明しているからである。

イザヤ6:1-10

1 ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、

その衣のすそが神殿に満ちているのを見た

2 その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、

3 互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。

4 その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。

5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。

6 この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、

7 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。

8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

9 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。

10 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。 

 これは使徒ヨハネがメシア、そして主として従っていたイエスが、預言者イザヤが神殿の中で見た「万軍の主(原文:YHWH)なる王」であると信じていたことを明らかに示している。

 ちなみにLXX訳においては、日本語聖書において「主」と和訳されている言葉(1、3、5、8節)は、いずれも「κύριος / kurios」である。

 この箇所はイエス・キリストの神性を示す論拠として、記憶しておくべきものである。

 

追記(2017/9/5):

 イザヤ6:9-10において、「主は言われた」と書かれている。

9 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。

10 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」

 つまり預言者イザヤは神殿において主イエス(受肉以前の御子)の栄光を見、そして主イエスが語る声を聞き、それを書き記したのだが、使徒パウロは同じエピソードを「聖霊が預言者イザヤを通して語った」と表現している。

使徒28:24-27(新改訳)

24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。

25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの先祖に語られたことは、まさにそのとおりでした。

26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』 

 勿論、これは矛盾なのではなく、幻と啓示を直接個人的に受けた預言者イザヤの観点と、そのエピソードを聖霊の導きによって解き明かしていた使徒パウロの観点の違いであり、霊的解釈によれば三位一体の根拠でもある。

いのちの言(ことば)であるイエス・キリスト

Ⅰヨハネ1:1-4

1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――

2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――

3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。  

 使徒ヨハネは「いのちの言(ことば)」(του λογου της ζωης / the word of the life)について、以下のような非常に生き生きとした描写で説明している。

  • 初めからあったもの
  • わたしたちが聞いたもの
  • 目で見たもの
  • よく見て手でさわったもの

 「初めからあった」は、「いのちの言」が天地創造の前、まだ時間も空間もなかった、永遠の神のうちに存在していたこと意味する。それは福音書の啓示においても確認できる。

ヨハネ1:1-4

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

2 この言は初めに神と共にあった。

3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 

 「いのち」とある以上、それは単なる非人格的な概念や理念ではなく、すべて意志や知恵、知性の源である神そのもののいのちを指している。

 その永遠のいのちの言を、使徒ヨハネは「わたしたちが聞いた」「目で見た」「よく見て手でさわったもの」と証しているのである。「ことば ロゴス」が単に抽象的概念であったとしたら、目でみることも勿論、よく見て手で触ったとは書くことができなかっただろう。

 実際、この「いのちの言」は御子イエスのことを指し、その方が肉体をもった人となりご自身を顕わされたことを証している。

  • このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て
  • この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである

ヨハネ1:14

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。  

 「イエスが愛しておられた弟子」使徒ヨハネが「わたしたちのうちに宿った」(直義では「テントを張る」という意味をもつ)と証しするとき、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」という描写がより現実性をもつ。使徒は理念的・象徴的なテーマを扱っていたわけではなかったのである。

 使徒ヨハネと共に当初からから主に従っていた使徒ペテロも、同じような意識で証をしている。

Ⅱペテロ1:16-19

16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。

17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。

19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。 

 「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。」 神のことばが肉体をもち、その栄光を顕わしたことを実際に見、体験した使徒たちにとって、旧約聖書の預言がそれまで以上に「いっそう確実になった」と証している。

 これは福音を信じて御子の栄光を個人的に体験した全ての信仰者にとっても、共通する恵みではないだろうか。