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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「彼はまた主のかたちを見るのである」

民数記12:1-16

1 モーセはクシの女をめとっていたが、そのクシの女をめとったゆえをもって、ミリアムとアロンはモーセを非難した。

2 彼らは言った、「主はただモーセによって語られるのか。われわれによっても語られるのではないのか」。主はこれを聞かれた。

3 モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。

4 そこで、主は突然モーセとアロン、およびミリアムにむかって「あなたがた三人、会見の幕屋に出てきなさい」と言われたので、彼ら三人は出てきたが、

5 主は雲の柱のうちにあって下り、幕屋の入口に立って、アロンとミリアムを呼ばれた。彼らふたりが進み出ると、

6 彼らに言われた、「あなたがたは、いま、わたしの言葉を聞きなさい。あなたがたのうちに、もし、預言者があるならば、主なるわたしは幻をもって、これにわたしを知らせ、また夢をもって、これと語るであろう。

7 しかし、わたしのしもべモーセとは、そうではない。彼はわたしの全家に忠信なる者である。

8 彼とは、わたしは口ずから語り、明らかに言って、なぞを使わない。彼はまた主の形を見るのである。なぜ、あなたがたはわたしのしもべモーセを恐れず非難するのか」。

9 主は彼らにむかい怒りを発して去られた。

10 雲が幕屋の上を離れ去った時、ミリアムは、らい病となり、その身は雪のように白くなった。アロンがふり返ってミリアムを見ると、彼女はらい病になっていた。

11 そこで、アロンはモーセに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちは愚かなことをして罪を犯しました。どうぞ、その罰をわたしたちに受けさせないでください。

12 どうぞ彼女を母の胎から肉が半ば滅びうせて出る死人のようにしないでください」。

13 その時モーセは主に呼ばわって言った、「ああ、神よ、どうぞ彼女をいやしてください」。

14 主はモーセに言われた、「彼女の父が彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日のあいだ、恥じて身を隠すではないか。彼女を七日のあいだ、宿営の外で閉じこめておかなければならない。その後、連れもどしてもよい」。

15 そこでミリアムは七日のあいだ、宿営の外で閉じこめられた。民はミリアムが連れもどされるまでは、道に進まなかった。

16 その後、民はハゼロテを立って進み、パランの荒野に宿営した。

 自分たちの弟モーセを非難したミリアムとアロンに対して、主なる神が会見の幕屋の入り口の前で語った言葉は非常に興味深い。

「あなたがたは、いま、わたしの言葉を聞きなさい。あなたがたのうちに、もし、預言者があるならば、主なるわたしは幻をもって、これにわたしを知らせ、また夢をもって、これと語るであろう。

しかし、わたしのしもべモーセとは、そうではない。彼はわたしの全家に忠信なる者である。

彼とは、わたしは口ずから語り、明らかに言って、なぞを使わない。彼はまた主の形を見るのである。なぜ、あなたがたはわたしのしもべモーセを恐れず非難するのか」。

  見えない主なる神が、ミリアムとアロンが理解できる言葉ではっきりと話しかけ、モーセがご自身にとって預言者以上の存在、「わたしのしもべ」「わたしの全家に忠信なる者」であることを宣言しているのである。

 そして「預言者」と「神に忠信なるしもべモーセ」との違いについて、ご自身の啓示の方法の違いについて言及している。

  • 預言者:主なるわたしは幻をもって、これにわたしを知らせ、また夢をもって、これと語るであろう。
  • モーセ:わたしは口ずから語り、明らかに言って、なぞを使わない。彼はまた主の形を見るのである。 

 勿論、この比較はモーセが預言者の一人でなかったことを意味していない。「口ずから語り」(「口と口とで語り」新改訳)という表現が暗示しているように、主なる神が他の預言者に対してよりも、親密にご自身を啓示していたことを示している。

申命記34:10

モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。 

 「彼はまた主の形を見るのである。」 ここで「形」と和訳されている原語は、以下の聖句において使われている。

出エジプト20:4

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんなをも造ってはならない。

申命記4:12;15-16

12 時に主は火の中から、あなたがたに語られたが、あなたがたは言葉の声を聞いたけれども、声ばかりで、なんの形も見なかった。

15 それゆえ、あなたがたはみずから深く慎まなければならない。ホレブで主が火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたはなんの形も見なかった。

16 それであなたがたは道を誤って、自分のために、どんな形の刻んだ像をも造ってはならない。男または女の像を造ってはならない。

  つまり主なる神がモーセに啓示していた「主(YHWH)のかたち」は、主なる神が許可しなければ決して人間が認知できないタイプの啓示であり、人間には表現することができない、許されていない、唯一無二の栄光の「かたち」であった。

 人間が想像することもできない、作り出すことも許されていない「神のかたち」を、主なる神自身が「ひとり子なる神」をこの世に遣わすことによって、啓示してくださったのである。

ヨハネ1:17-18

17 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。

18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである

コロサイ1:15

御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。

へブル1:1-3

1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、

2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。

3 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。

へブル3:1-6

1 そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。

2 彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。

3 おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。

4 家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。

5 さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、

6 キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。 

 「彼はまた主の形を見るのである」。

 そう、今や主なる神は、預言者を通してでなく、また幻や夢やなぞをもってでもなく、神のしもべモーセによってでもなく、ひとり子なる神イエス・キリストによって、神の大いなる栄光と本質の姿を信じる私たちに啓示されたのである。

長き世々にわたって隠されていたが、顕わされた十字架の言

ルカ10:21-24

21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。

22 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。

23 それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。

24 あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。

 「多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。」

 旧約聖書に記述されている多くの預言者や王たち、そして義人たちは、御子イエス・キリストの弟子たちが実際に目で見、耳で聞いていたことを熱心に願っていたが、それができないでいた。神の時が熟していないかったからである。

マタイ13:16-17

16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。

17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。 

 これらの神のしもべたちは、自分たちには覆われていたことを知ろうと、熱心に願い、「たずね求め、かつ、つぶさに調べた」。

Ⅰペテロ1:10-11

10 この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。

11 彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。

 それでも多くの預言者や王たちの時代にはまだ、キリストの奥義は人類に対して知らされていなかったのである。

エペソ3:4-6

4 あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる。

5 この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである

6 それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。 

エペソ3:9

更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。 

 しかしその隠されて、知らされていなかった奥義が、御子イエス・キリストによって完全にこの世に対して啓示されたのである。

ローマ3:21-22

21 しかし今や、神の義が、律法とは別にしかも律法と預言者とによってあかしされて、現された

22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。

ローマ16:26-27

26 願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、預言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるかた、

27 すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるように、アァメン。

 しかしその明らかにされた御子の奥義は、人間の知的能力や功徳で受け入れられるようなものではなかった。むしろ、その啓示は人間には想像することもできないような、むしろ躓きを与えるような驚くべき唯一無二の啓示、つまり「十字架の言(ことば)」だったのである。

ヨハネ12:37-38

37 このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。

38 それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。

ヨハネ5:39ー40

39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。

40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。 

Ⅰコリント1:18-24

18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。

19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。

20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。

21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。

23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、

24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

Ⅰコリント2:7ー9

7  むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。

この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。

9 しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。 

 この神の知恵が御子の顕現の時まで人類に対して覆い隠され、信仰に生きた多くの預言者や王たち、そして義人たちさえも当時は知り得なかったのなら、また御子がこの世に啓示された時も人間の知恵や宗教心では到底信じたり、受け入れることされできなかったのなら、ユダヤ人信仰者もその他全ての異邦人信仰者も、聖書を読んで研究していることや、聖書知識が与えられていることなど自体を誇ることは決してできないことがわかる。

 御子イエス・キリストを個人的に知り、神の永遠のいのちの素晴らしさを体験したことは、まさに神のわざであり、聖霊による奇蹟の働きなのである。

御子は、見えない神のかたちである(2)

創世記1:26-27

26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 

御子は、見えない神のかたちである(1)において記したとおり、御子は万物創造以前から「見えない神のかたち」として存在していた。これはつまり、創世記が人間の創造に関して「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された」という啓示するとき、永遠の御子のかたちに創造したことを意味する。そしてその「かたち」は、見えない・見ることができない神のかたちであり、御子自身のかたちである。だから26節では「われわれ」と一人称複数で表現されており、「かたち」には複数形ではなく単数形が使われているのである。

 そして27節では「神」が複数形であるにも関わらず、三回使われている動詞「בָּרָא bârâ' / 創造する」は単数形であることから、三位一体の神の創造における完全な一致や調和を暗示していると解釈することができる。

 ここには、人間の本来の「かたち」(アイデンティティーとも言える)が示されている。人間はそもそも「見えない神のかたち」である御子によって、御子に似せて、御子の為に創られた存在なのである。しかし人間は罪を犯したがゆえ、その御子のかたちの栄光を失ってしまい、存在の目的も失い、「神の栄光を失った罪びとのかたち」を継承することになる。

ローマ3:23(前田訳)

すべての人は罪を犯したため、神の栄光を欠いています。

創世記5:3

アダムは百三十歳になって、自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み、その名をセツと名づけた。 

 そしてイエス・キリストの救いの福音の本質は、信じる者の心に失われていた神のかたちの栄光の希望を与えることであり、「見えない神のかたち」である御子自身が聖霊を通して成し遂げる聖別のわざである。

ローマ8:29

神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。 

Ⅱコリント3:18

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

ピリピ3:21

彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう

Ⅰヨハネ3:2

愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。

 

御子は、見えない神のかたちである(1)

コロサイ1:15-17

15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。

16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。

17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。 

 「御子は見えない神のかたち(εἰκών eikōn)である。」 この真理は、御子が「見ることができない」「見ることができる要素をもたない」霊的な存在の本質を成していることを意味する。それは時間や空間によって限定されることのない本質である。

 実際、「全ての造られたものに先立って生まれたかた」という啓示が証明している。つまり御子は時間や空間、物質が創造主によって造られる「以前」から存在しているのである。時間さえもない状態なのだから、「生まれた」という表現も、私たちが通常に使う概念を適用することはできない。

 これは言語で説明することは非常に困難な霊的概念である。少なくとも私には、適切な言葉を見出すことができない。ヨハネが使った「父のふところにいる」という表現が、「生まれた方」という表現の、父なる神と御子の関係性を暗示していると思う。

ヨハネ1:18

神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。 

 それは「見ることができない存在」と「見ることができるように啓示された御子」の関係でもある。それはまた「人間が見て生きることができない神の栄光」と「その栄光の可視化された輝き」、「見えない神の本質」と「完全な顕れ(χαρακτήρ charaktēr)」の関係である。

へブル1:3a

(新改訳)

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、

 

(口語訳)

御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、

 この「見えない神」と「啓示されたかたち」の関係は、簡略化とか象徴化されたものではない。それは「完全な顕れ」である。「啓示されたかたち」のうちに、神の満ち溢れる神性が余すことなく、宿っているのである。

コロサイ2:9(新改訳)

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 

 

(新共同訳)

キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、

 だからこそ、御子自身の口から「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)という言葉が出てきたのである。もし御子が自身に関して「無限な神の象徴」「見えない神の部分的啓示」という意識があったのなら、このようなことは決して証しすることはできなかっただろう。事実でなかったら神に対する冒涜でしかないほど、強烈な宣言である。

睡眠に関する考察: 生活の中の「十字架の死」と「復活」

 よくよく考えてみると、人が眠っている時はとても奇妙な状態にいると思う。生命を維持するための基本的な機能はそのまま働き続けているが、私たちの意識は外界から遮断され、意志も休止状態になる。つまり心臓は体中に血液を送り続け、皮膚は体温を調節し続け、呼吸器官は働き続けているが、私たちの意識はほぼ完全に休止するのである。

 睡眠はまた抵抗し難い「肉体の要求」でもあり、人は眠ることなくして生きてはいけない。実際に私たちは人生の約四分の一の時間を睡眠に費やすのである。たとえ寝る間を惜しんで働いても、遅かれ早かれ睡眠時間を体が必要とする分だけとらなければ、健康を害することになる。

 また眠りにつく時も、私たちは横になってリラックスし、電気を消したりしてその準備をするが、いざ「スイッチを切る」のは、私たちの意志とは関係なく、体が「シャット・ダウン」するのである。

 そして次に目が覚める保証は誰ももっていない。目覚ましのアラームをセットしたりするが、それはただ習慣によってアラームの音を睡眠中の意識が認識し、目を覚ますことができると「信じている」だけで、実際に目を覚ますことができるかは誰もコントロールできないのである。

 そのような要素を考慮すると、信仰者が就寝前に一日を振り返り、祈りの中で主なる神に悔い改め、感謝するだけでなく、眠っている間に地上の時を終え、御前に立つ可能性を考えて、「御子の尊き血によって備えさせてください」と祈ることは重要であると思う。

 またそれと並んで、もし朝になって目を覚ますことができたなら、その瞬間を「復活による新しいいのちの始まり」と見なし、感謝の祈りと共にその日一日の聖霊の働きを期待し、導きを求めるのは健全な習慣だと思う。つまり、御子の十字架の死と共に眠りにつき、御子の復活と共に新しい一日を始めるのである。

哀歌3:22-25

22 主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。

23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。

24 わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。

25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。

26 主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。 

詩篇30:3-5

3 主よ、あなたはわたしの魂を陰府からひきあげ、墓に下る者のうちから、わたしを生き返らせてくださいました。

4 主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝せよ。

5 その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る

イザヤ33:2

主よ、われわれをお恵みください、われわれはあなたを待ち望む。朝ごとに、われわれの腕となり、悩みの時に、救となってください。 

 主イエス・キリストの復活のいのちは、早朝に顕れた。

 

「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」

ヨハネ1:43-51

43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。

44 ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。

45 このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。

46 ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。

47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」。

48 ナタナエルは言った、「どうしてわたしをご存じなのですか」。イエスは答えて言われた、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」。

49 ナタナエルは答えた、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。

50 イエスは答えて言われた、「あなたが、いちじくの木の下にいるのを見たと、わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」。

51 また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。 

 ナタナエルという人物については、この『ヨハネによる福音書』に二度言及されているだけで、聖書の他の部分には全く記録がない。十二使徒のひとりのピリポとの関係から、共観福音書に使徒の一人として言及されているバルトロマイ(マタイ10:3;マルコ3:18;ルカ6:14参照)ではないかと言われているが、あくまで一つの推論である。つまりナタナエル(ヘブライ語で、「神の賜物」という意)は本名で、バルトロマイ(アラム語で「トロマイの子」という意)は、「トロマイ」が轍(わだち)という意味だから、土を耕す農業を職業にしていたことを指しているのではないか、という解釈である。

 いずれにせよ、ナタナエルが共観福音書の使徒バルトロマイであったとしても、彼に関する記録は非常に限定的である。

使徒1:12-14

12 それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところにある。

13 彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。

14 彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。

 福音書記者ヨハネによれば、ナタナエルはガリラヤのカナ出身であるが、ガリラヤ湖畔の漁村ベツサイダ出身のピリポとなぜ知り合いだったかは不明である。ただ単に、婚礼式に参加するために御子イエスと共にガリラヤのカナを訪れたピリポが、「偶然」ナタナエルに出会っただけかもしれない。

ヨハネ21:1-2

1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。

2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。

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  興味深いのは、御子イエスがナタナエルに出会った時、彼について「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」と言われたことである。この時点でナタナエルはまだかなりの偏見をもっており、ピリポの「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」という証しに対して半信半疑であった。

 当然御子は、ナタナエルが弟子の一人になるだろうことを予知してだろう。またナタナエルが「いちじくの木の下にいる」のも見ておられた。この「いちじくの木の下にいる」に関しては色々な解釈があるが、私はただ単にナタナエルがイチジクの木の下で祈っていた、というだけでなく、メシアの預言に関連している解釈をしている。

ミカ4:1-5

1 末の日になって、主の家の山はもろもろの山のかしらとして堅く立てられ、もろもろの峰よりも高くあげられ、もろもろの民はこれに流れくる。

2 多くの国民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。彼はその道をわれわれに教え、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。

3 彼は多くの民の間をさばき、遠い所まで強い国々のために仲裁される。そこで彼らはつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかってつるぎをあげず、再び戦いのことを学ばない。

4 彼らは皆そのぶどうの木の下に座し、そのいちじくの木の下にいる。彼らを恐れさせる者はない。これは万軍の主がその口で語られたことである。

5 すべての民はおのおのその神の名によって歩む。しかしわれわれはわれわれの神、主の名によって、とこしえに歩む。

ゼカリヤ3:6-10

6 主の使は、ヨシュアを戒めて言った、

7 「万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道に歩み、わたしの務を守るならば、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。

8 大祭司ヨシュアよ、あなたも、あなたの前にすわっている同僚たちも聞きなさい。彼らはよいしるしとなるべき人々だからである。見よ、わたしはわたしのしもべなる枝を生じさせよう。

9 万軍の主は言われる、見よ、ヨシュアの前にわたしが置いた石の上に、すなわち七つの目をもっているこの一つの石の上に、わたしはみずから文字を彫刻する。そしてわたしはこの地の罪を、一日の内に取り除く。

10 万軍の主は言われる、その日には、あなたがたはめいめいその隣り人を招いて、ぶどうの木の下、いちじくの木の下に座すのである」。 

  つまりナタナエルが物理的にいちじくの木の下にいたという事実以上に、そのいちじくの木の下で、ナタナエルがイスラエルの王、救い主メシアの到来の預言の成就を待ち望み、祈り求めていた、そのようなナタナエルの心を見た、と御子は言いたかったのではないかと思う。だからこそその御子の言葉を聞いて、ナタナエルは自分の心の中が知られていることに驚き、思わず「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と告白したのではないだろうか。

 心の中に隠れていた祈りを御子に見られ、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」という誉の言葉を受けたナタナエルは、現在まだ御子イエスがメシアであることに偏見をもっていて信じることができなでいるが、心の中では心底メシアの到来を待ち望んでいるユダヤ人たちの「指標」、そして「轍(わだち)」であると思う。

ローマ2:28-29

28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。

29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。

詩篇32:2

主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。

心に刻まれたイタリア語の讃美歌(2)

  もう一曲、イタリア語の讃美歌「Così qual sono」を紹介。記事『聖霊のバプテスマに関する個人的証しと省察(5) - an east window』において言及している、忘れられない讃美歌である。


 以下、イタリア語の歌詞と和訳である。

1.   

Così qual sono misero ingrato
Vengo a quel sangue da Te versato;
Sotto di esso, o mio Signore,
Lava il mio cuore; pietà di me.

このままの、みじめで恩知らずな私、
あなたが流してくださったあの血のもとへ参ります。
あの下で、ああ、わが主よ、
私の心を洗ってください。
憐みを!

2.  

Così qual sono indifferente
Debole, frale, vengo fidente,
A Te m'accosto e Tu Signore,
Lava il mio cuore; pietà di me.

このままの、冷めきって、弱く、脆い私、
信じて参ります。
あなたの御許に近づきますので、主よ、
私の心を洗ってください。
憐みを!

3. 

Così qual sono disavveduto
E senza forze, vienmi in aiuto!
Vengo pentito a Te, Signore,
Lava il mio cuore; pietà di me.

このままの、愚純で、力のない私を
おお、助けに来てください。
主よ、悔いて御許へ参ります。
私の心を洗ってください。
憐みを!

4.   

Così qual sono mi faccio avanti
Bramo restare con tutti i santi,
Sempre vicino a Te, Signore,
Lava il mio cuore; pietà di me.

このままの私で歩み続けます。
聖徒たち皆と共に、
主よ、もっと御許のそばにいることを切望します。
私の心を洗ってください。
憐みを!

 以下のビデオは、おそらくブラジル人の兄弟がイタリア語とスペイン語、そしてポルトガル語で賛美しているバージョン。個人的には、上のビデオよりも、こちらの素朴な歌い方の賛美に共感を覚える。