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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

奇妙な比較

 通常、ある人物の偉大さについて語るとき、他の偉大であったり、優れていたり、誉ある人物や事象と比較するものである。聖書における御子の啓示に関しても例外ではない。

 以下、実際に聖書が啓示している御子の偉大さに関して述べている比較の聖句を挙げる。

  • エルサレムの神殿よりも大いなるイエス:

マタイ12:5-6

5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。

6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。

  • 預言者ヨナに勝るイエス:

マタイ12:41

41 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。

  • 栄華を極めたソロモン王に勝るイエス:

マタイ12:42

南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。 

  • ダビデ王に勝るイエス:

マタイ22:41-45

41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、

42 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。

43 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。

44 すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。

45 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。

  • 「信仰の父」「神の友」に勝るイエス:

ヨハネ8:52-53;58

52 ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それだのに、あなたは、わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。

53 あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。

58 イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。 

  •  イスラエル民族の父ヤコブに勝るイエス:

ヨハネ4:12-14

12 あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。

13 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。

14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 

  •  預言者・指導者モーセに勝るイエス:

へブル3:1-3

1 そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。

2 彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。

3 おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。 

  •  御使い、さらにサタンにも勝るイエス:

へブル1:4-6

4 御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた。

5 いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」と言われたことがあるか。

6 さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」と言われた。 

Ⅰヨハネ4:4

子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。 

  •  律法によって立てられ、宮で仕えていた祭司たちに勝るイエス:

へブル7:23-28

23 かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。

24 しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。

25 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。

26 このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。

27 彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。

28 律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。  

 しかし次の聖句に啓示されている比較は、とても奇妙なものである。

Ⅰヨハネ3:20

なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。

 「呵責に苦しむ私たちの良心」と、偉大なる無限の神を比較しているのである!

 しかし実際のところ、私たちの心の中にある、あの言いようのない虚しさや、笑顔や忙しさで隠している心の罪悪感や重圧、劣等感は、この世の如何なる偉大な人物や偉業であっても完全に取り去ることができないほど、重く、深い根をもち、そして手に負えないほど狡猾である。

エレミヤ17:9-10

9 心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。

10 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。

 ただ人の心を完全に知る主なる神だけが、全ての者に勝る御子の贖いの死と復活を通して、私たちの心を罪と闇の支配から完全に勝ち取ってくださるのである。

コロサイ1:13-14

13 神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。

14 わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。 

この世に遣わされた者としての聖別

ヨハネ17:14-19

14 わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。

15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。

16 わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。

17 真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。

18 あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。

19 また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。 

 最後の晩餐の後、御子が父なる神との最も親密で神聖な「会話」つまり祈りを、弟子たちが話す言葉で共有していることに驚きを覚えないだろうか。この時点での弟子たちは、誰が自分たちの中で一番偉いのかを議論していたほどだから、御子の祈りを汲み取ることはできなかったと思われる。それでも御子は、弟子たちが普段使っていた言葉で、弟子たちが聞こえるように、最も親密な関係における祈りを共有しているのである。それはご自身の死と復活を通して聖霊が下り、やがて弟子たちも同じ霊によってこの世に遣わされることを知ってたからであろう。

 実際、御子はまるで何度も輪郭線をなぞるかのように、弟子たちと「この世」の関係を繰り返し強調している。

  • 御子がこの世に属していないように、弟子たちもこの世に属していない。
  • しかし御子は弟子たちがこの世から取り去られることを望んでおらず、むしろこの世に遣わし、そこで真理の証しをすることを望んでおられる。
  • だから弟子たちを御言葉のゆえに憎むこの世の悪しき者からの守りを祈っている。

 ここに地上の生における信仰者の聖化の本質(動機、意味)があるのではないだろうか。信仰者は、回心した瞬間にキリストの尊き犠牲の死によって「聖なるもの」「きよめられたもの」として神に見なされる。主なる神は、その時点で信仰者をそのまま御許の栄光へと引き上げることもできるが、ほとんどの場合、信仰者はこの世における「聖化のプロセス」を通ることになる。その時間や密度は人それぞれだが、必ず通る道である。

 この地上の生における聖化のプロセスの最終段階で、信仰者は神のように完全に神聖な者となるのだろうか。現実的経験が私たちに「そうではない」と証している。それならば、「たいして清められていない」として聖化のプロセスを否定すべきであろうか。否、神の働きは確かに信じる者の人生において有効なのである。

Ⅰコリント6:9-11

9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、

10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。

11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。

Ⅰテモテ1:12-16

12 わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。

13 わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。

14 その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。

15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。

16 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。  

 御子が真理を証しするためにこの世に遣わされたいたように、弟子たちも主なる神によって召され、この世に遣わされ、その時が来るまでこの世に残り、真理を証するのである。

 もしこの聖別の概念を見失ってしまったら、信仰者は簡単に元々属していた世界に再び吸い込まれ、方向性を見失い、この世の憎悪に食い尽くされてしまうだろう。

 「真理によって彼らを聖別して下さい」と父なる神に祈られた御子が、「彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします」と言って、十字架の苦難の死に自らを完全に捧げることを宣言しておられる。つまり御子は「彼らが真理によって聖別されるように、私はあなたが命じた為すべきことを全てし、自分の命を完全に捧げます」と宣言しているのである。

へブル10:10

この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。 

 私たちがすでに肉体的にも御使いの賛美に囲まれ、天の栄光の中に生きているのなら、聖別という境界線を意識する必要はないだろう。その反対に、もしこの世に生きることに満たされ、この世の価値観と自分のそれに調和があると感じるのなら、聖別しなければならない理由など理解できないだろう。

 しかしもし私たちが「永遠の栄光を味わった者」として、御子を憎んだ、自分には属していないところである「この世」に遣わされていると意識するならば、真理による聖別は自分の魂だけでなく、周りにいる人々の「死活問題」であることが実感できるはずである。

へブル12:14-15

14 すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。

15 気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。

Ⅰテサロニケ5:21-24

21 すべてのものを識別して、良いものを守り、

22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

23 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。

24 あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。 

 真実で平和の神御自身が、私たちを清め、主の来臨の時まで、つまりこの地上の生を全うするまで、私たちの霊と心とからだとを完全に守って、責められるところのない者にしてくださるという希望があるからこそ、私たちは「すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざか」るのである。

 

関連記事:

飛び去る言葉

ルカ12:1-3

1 その間に、おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきたが、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。

2 おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。

3 だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。 

 日本の一人の女性議員が公用車という、ある種の「密室」で秘書に吐いた暴言がニュースになって拡散された。その暴言・暴行自体もさることながら、その波紋の拡がりの大きさと速さにインターネットの時代の現実を見る思いである。

 大都会の雑踏と無関心にまぎれ「密室」の中で目の前にいる人間に吐いた言葉が、一瞬にして全世界を駆け巡り、回収することも消去することもできない形でインターネットの記憶に焼き付けられるとは、暴言を吐いた本人も想像していなかっただろう。

 読者数がごく限られた個人的なブログや掲示板ですら、管理主が予測できない形で拡散し、たとえソースを削除してもWEB上から完全に消去することが非常に難しいのである。何気なく書いた無責任な発言さえも、今は幼い自分の子供や孫の世代において指一本で簡単に追跡できてしまう、そんな時代に私たちは生きている。

 ローマ時代の格言に「Verba volant, scripta manent」とあり、直訳すると「言葉は飛んで(消え去る)が、書いたものは残る」という意味であるが、現代は違う意味で「言葉は飛んで」、世界中を駆け巡り、時に増幅され、あらゆるところに繁殖し、二度と取り戻すことができないのである。

 しかし全知の神を畏れる信仰の教えは、インターネットがこの世に生まれる遥か前から、私たちを訓戒していた。

おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。

だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。 

 「知らないでいること」「見聞きしないこと」「忘れること」が元来できないそのような神がしかし、御子の贖いの死を心から信じ悔い改める者に対して、「あなた方の罪を思い出さない」と宣言しておられるのは、まさに十字架による神の奇蹟である。

イザヤ43:25

わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。

エレミヤ31:34

人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。

ミカ7:18-20

18 だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のためにとがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、

19 再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ、

20 昔からわれわれの先祖たちに誓われたように、真実をヤコブに示し、いつくしみをアブラハムに示される。

「一人の人」「一つの義の行為」「一人の従順」

ローマ5:17-19(新改訳)

17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

 使徒パウロは創世記3章のアダムの堕罪を基に、アダムが一人の人で、神の命令に対する唯一の不従順によって、一つの違反行為を犯し、罪と死が人類の中に入ったように、「一人の人」であるイエス・キリストの「一つの従順」によって「一つの義の行為」が成し遂げられ、罪人が神に義と見なされ、神のいのちが支配するようになったと啓示している。

 何と素晴らしい真理だろうか。神の人ヨブは苦難の中、「人はどうして神の前に正しくありえようか」(ヨブ9:2)と嘆いたが、完全に神聖で義なる神の前で罪びとが正しいと見做される、つまりその全ての罪が赦される根拠は、「一人の人」であるイエス・キリストの「一つの従順」による「一つの義の行為」のみ、なのである。いや、もっと正確に表現するならば、「唯一の人」イエス・キリストの「唯一の従順」による「唯一の義なる行為」である十字架の贖罪の死なのである。

 世界にたった一つしかない作品は、必然的にもう一つの作品を贋作とする。たとえそれが見分けつかないほど正確にコピーされた作品であっても、である。そしてその贋作を「本物である」と主張する者を自動的に「偽り者」に定める。単純に、その名作はただ一つであり、他には存在し得ないからである。

 だから御子キリストの十字架の贖罪の死以外の「人」や「従順、つまり徳」や「行為」をもって、神の前で自らを正しいとしようとする試みは、神の目には偽りであり、不正行為であり、愛する御子の死を冒涜する試みなのである。

ガラテヤ2:18;21

18 もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。

21 わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

ガラテヤ5:2-4

2 見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。

3 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。

4 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。

 御子キリスト以外、他に根拠も誇りも全く存在しないがゆえ、ある意味、信仰とは非常にシンプルである。「キリストが唯一であり、他には何も、また誰もいない。キリストこそ、私たちの全てである。

Ⅰコリント1:30-31

30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。

31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。 

コロサイ3:11

そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。 

In Christ いのちの泉に憩う

ガラテヤ1:6-10(新改訳)

6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。

7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。

8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。

9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。 

 非常に重要な点は、使徒パウロがガラテヤびとの霊的後退に関して、「キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方」つまり「生ける神」から離れて、「他の福音」に移っていった、と表現していることである。「正しい福音から離れて、他の福音に移っていった」と書いても間違いではなかっただろう。しかし実際に使徒パウロにとっては、全ての源泉である生ける神との人格的・秩序的な交わりから離れ、いのちを持たない、単なる言葉の羅列でしかない霊的混乱の中に引きずりこまれているようにしか見えなかったのである。

 現代ではインターネットを使って大衆の思考を操作したり扇動する目的のフェイク・ニュースが問題となっているが、ガラテヤ地方の信仰者らに対する「異なる福音」の影響はそれを遥かに超える霊的のものだった。その霊的混乱とは、まさに呪い【ἀνάθεμα anathema】、つまり御子自身が私たち罪びとを解放するためにご自分に身に負って犠牲となってくださった、その呪いそのものであった。

私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

ガラテヤ3:13

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。  

 キリスト者はまさしく「キリストに属する者」、つまりキリストの命のなかで、キリストの命によって生きているものである。

詩篇36:7-9

7 神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、

8 あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる。

9 いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。 

コロサイ2:3-10a

3 キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。

4 わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。

5 たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。

6 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。

7 また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。

8 あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。

9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、

10a そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。

 「巧みな言葉」や「虚しい騙しごとの哲学」、「世のもろもろの霊力に従う人間の言い伝え」などの「不毛な荒野」に背を向け、自分たちを召してくださった方のもと「In Christ」にとどまり、感謝の賛美を捧げよう。

アルキジンナジオの回廊に反射する光

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  アルキジンナジオの回廊正面の建物の窓ガラスに夕陽が反射して、思わぬところに光が差し込んでいた。

 少し前に撮っていた写真だが、昨日投稿した写真のことを考えていて、自分の中で無意識に「暗闇に射し込む光」とか「何かに反射する光」とかに魅かれる傾向があることに気付き、投稿しようと思った。カテゴリー『心の琴の音』にある過去の記事でもそのことが確認できた。

 これもまた、恵みによって私の心に宿る聖霊の「ささやき」なのかもしれない。

Ⅱコリント4:6

「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。

健全な自意識

Ⅱコリント4:1-18

1 このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、

2 恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。

3 もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。

4 彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。

5 しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。

6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。

7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。

9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。

10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。

11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。

12 こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。

13 「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。

14 それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。

15 すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。

16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。

17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。

18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

  「主イエス・キリスト」「私たち」「福音」「真理」「恵み」「外なる人」「内なる人」「見えるもの」「見えないもの」「しばらくの軽い患難」「永遠の重い栄光」

 これらの要素が、全て神の御心のうちに全てあるべきところにあり、本来の働きをしていることを認める時、私たちの心は動かされることはなく、私たちは神の驚くべき調和を賛美し続けるだろう。

 言葉では言い尽くせない神の栄光に比べたら「土の器」は何だというのか。しかし確かに主なる神は、この卑しい器の中にご自身の栄光を満たすことを善しとされたのである。

 どれだけ素晴らしい宝を委ねられているか。

 それがどこから来るものか。

 誰の事を信じているのか。

 これらのことに確信がある時、私たちは神にあって健全な自意識をもつことができる。

Ⅱコリント6:8-10

8 ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、

9 人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、

10 悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。