「一人の人」「一つの義の行為」「一人の従順」
ローマ5:17-19(新改訳)
17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。
19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
使徒パウロは創世記3章のアダムの堕罪を基に、アダムが一人の人で、神の命令に対する唯一の不従順によって、一つの違反行為を犯し、罪と死が人類の中に入ったように、「一人の人」であるイエス・キリストの「一つの従順」によって「一つの義の行為」が成し遂げられ、罪人が神に義と見なされ、神のいのちが支配するようになったと啓示している。
何と素晴らしい真理だろうか。神の人ヨブは苦難の中、「人はどうして神の前に正しくありえようか」(ヨブ9:2)と嘆いたが、完全に神聖で義なる神の前で罪びとが正しいと見做される、つまりその全ての罪が赦される根拠は、「一人の人」であるイエス・キリストの「一つの従順」による「一つの義の行為」のみ、なのである。いや、もっと正確に表現するならば、「唯一の人」イエス・キリストの「唯一の従順」による「唯一の義なる行為」である十字架の贖罪の死なのである。
世界にたった一つしかない作品は、必然的にもう一つの作品を贋作とする。たとえそれが見分けつかないほど正確にコピーされた作品であっても、である。そしてその贋作を「本物である」と主張する者を自動的に「偽り者」に定める。単純に、その名作はただ一つであり、他には存在し得ないからである。
だから御子キリストの十字架の贖罪の死以外の「人」や「従順、つまり徳」や「行為」をもって、神の前で自らを正しいとしようとする試みは、神の目には偽りであり、不正行為であり、愛する御子の死を冒涜する試みなのである。
ガラテヤ2:18;21
18 もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。
21 わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。
ガラテヤ5:2-4
2 見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。
3 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。
4 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。
御子キリスト以外、他に根拠も誇りも全く存在しないがゆえ、ある意味、信仰とは非常にシンプルである。「キリストが唯一であり、他には何も、また誰もいない。キリストこそ、私たちの全てである。」
Ⅰコリント1:30-31
30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
コロサイ3:11
そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。
In Christ いのちの泉に憩う
ガラテヤ1:6-10(新改訳)
6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。
10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。
非常に重要な点は、使徒パウロがガラテヤびとの霊的後退に関して、「キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方」つまり「生ける神」から離れて、「他の福音」に移っていった、と表現していることである。「正しい福音から離れて、他の福音に移っていった」と書いても間違いではなかっただろう。しかし実際に使徒パウロにとっては、全ての源泉である生ける神との人格的・秩序的な交わりから離れ、いのちを持たない、単なる言葉の羅列でしかない霊的混乱の中に引きずりこまれているようにしか見えなかったのである。
現代ではインターネットを使って大衆の思考を操作したり扇動する目的のフェイク・ニュースが問題となっているが、ガラテヤ地方の信仰者らに対する「異なる福音」の影響はそれを遥かに超える霊的のものだった。その霊的混乱とは、まさに呪い【ἀνάθεμα anathema】、つまり御子自身が私たち罪びとを解放するためにご自分に身に負って犠牲となってくださった、その呪いそのものであった。
私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。
ガラテヤ3:13
キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
キリスト者はまさしく「キリストに属する者」、つまりキリストの命のなかで、キリストの命によって生きているものである。
詩篇36:7-9
7 神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、
8 あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる。
9 いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。
コロサイ2:3-10a
3 キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。
4 わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。
5 たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。
6 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。
7 また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。
8 あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。
9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、
10a そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。
「巧みな言葉」や「虚しい騙しごとの哲学」、「世のもろもろの霊力に従う人間の言い伝え」などの「不毛な荒野」に背を向け、自分たちを召してくださった方のもと「In Christ」にとどまり、感謝の賛美を捧げよう。
アルキジンナジオの回廊に反射する光
アルキジンナジオの回廊正面の建物の窓ガラスに夕陽が反射して、思わぬところに光が差し込んでいた。
少し前に撮っていた写真だが、昨日投稿した写真のことを考えていて、自分の中で無意識に「暗闇に射し込む光」とか「何かに反射する光」とかに魅かれる傾向があることに気付き、投稿しようと思った。カテゴリー『心の琴の音』にある過去の記事でもそのことが確認できた。
これもまた、恵みによって私の心に宿る聖霊の「ささやき」なのかもしれない。
Ⅱコリント4:6
「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
健全な自意識
Ⅱコリント4:1-18
1 このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、
2 恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。
3 もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。
4 彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。
5 しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。
6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
12 こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。
13 「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。
14 それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。
15 すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。
16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
「主イエス・キリスト」「私たち」「福音」「真理」「恵み」「外なる人」「内なる人」「見えるもの」「見えないもの」「しばらくの軽い患難」「永遠の重い栄光」
これらの要素が、全て神の御心のうちに全てあるべきところにあり、本来の働きをしていることを認める時、私たちの心は動かされることはなく、私たちは神の驚くべき調和を賛美し続けるだろう。
言葉では言い尽くせない神の栄光に比べたら「土の器」は何だというのか。しかし確かに主なる神は、この卑しい器の中にご自身の栄光を満たすことを善しとされたのである。
どれだけ素晴らしい宝を委ねられているか。
それがどこから来るものか。
誰の事を信じているのか。
これらのことに確信がある時、私たちは神にあって健全な自意識をもつことができる。
Ⅱコリント6:8-10
8 ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、
9 人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、
10 悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。
バジリカの入り口から射し込む光
Basilica di Santa Maria dei Serviの正面入り口から差し込む光
石の塊が闇にかたちを失い、光自体がかたちをもつ。
ヨハネ1:1-5
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は初めに神と共にあった。
3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
「神の子羊」の眼差しの奥
マルコ10:19-27
17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。
20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。
21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。
25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
このエピソードの登場する会堂司の金持ちの青年は、御子イエスに日夜従っていた取税人や罪人、元売春婦、貧困者などの所謂社会的弱者のグループとは対極をなすカテゴリーに属していた。シナゴーグの責任者として社会的地位をもち、神の祝福の顕れと考えられていた経済的富を誇り、何よりも「幼い時からモーセの律法に従って生きてきた」という自覚を持っていた。それでもこの青年は、他の人々同様、「何かが足りない」「イエスはその何かを自分に与えることができる方だ」という思いをもって、御子にのもとに行ったのである。
御子はそのような青年を、自分に従っているグループの肩を持って感情的に退けることはなかった。21節「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた」に顕れている御子の愛の眼差しがそれを示している。
(文語訳)イエス彼に目をとめ、愛しみて言ひ給ふ
(塚本訳)イエスは彼をじっと見て、かわいく思って言われた
(前田訳)イエスは彼をじっと見て愛着を感じていわれた
(岩波訳)そこでイエスは彼を見つめながら、彼を慈しんだ。そして彼に言った
しかしその御子の愛は、人間の罪を許容するようなものではなく、人間の心に悔い改めと変革をもたらそうとする神の義に満ちた愛であった。
「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。」
御子のこの金持ちの青年に対する慈しみに満ちた眼差しの奥には、永遠の栄光を背にし地上に来られた御子が、神の律法を完全に尊守していたにもかかわらず、「世の罪を取り除く神の子羊」として十字架の上で全てを罪人の救いの為に捧げるという、その心を突き刺すような苦難の選択に対する畏れがあったのではないだろうか。
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狐と葡萄
岩波文庫『イソップ寓話集』中務哲郎訳
15
『狐と葡萄』
腹をすかせた狐君、支柱から垂れ下がる葡萄の房を見て、取ってやろうと思ったが、うまく届かない。立ち去りぎわに、独り言、
「まだ熟れてない」
このように人間の場合でも、力不足で出来ないのに、時のせいにする人がいるものだ。
「すっぱい葡萄」(すっぱいぶどう)は、イソップ寓話の一つ。「狐と葡萄」ともいう。
【あらすじ】
キツネが、たわわに実ったおいしそうなブドウを見つける。食べようとして跳び上がるが、ぶどうはみな高い所にあり、届かない。何度跳んでも届かず、キツネは怒りと悔しさで、「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか。」と捨て台詞を残して去る。
【解説】
手に入れたくてたまらないのに、人・物・地位・階級など、努力しても手が届かない対象がある場合、その対象を「価値がない・低級で自分にふさわしくない」ものとみてあきらめ、心の平安を得る。フロイトの心理学では防衛機能・合理化の例とする。また、英語圏で「Sour Grapes」は「負け惜しみ」を意味する熟語である。
イソップ寓話自身の解説によると、狐が「時のせい」にしていることになっているが、ウィキペディアの解説では、時間の要素よりも対象に対する侮蔑を強調している。
現代の「狐」は、「届かない葡萄」を侮蔑するだけでなく、その葡萄を喜んで食べる鳥やリスたちを卑下して虚勢を張る。