an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

啓示全体の中におけるそれぞれの教えの「位置」

 『If Americans can find North Korea on a map, they're more likely to prefer diplomacy』

https://www.nytimes.com/interactive/2017/05/14/upshot/if-americans-can-find-north-korea-on-a-map-theyre-more-likely-to-prefer-diplomacy.html?_r=0

  北朝鮮がどこにあるかという質問に対して1746人の回答を視覚化したグラフに注目してほしい。(どちらも引用元のサイトをスクリーンショットしたものである。)

f:id:eastwindow18:20170603181216p:plain

 下の図は、国名を記入したものである。

f:id:eastwindow18:20170603181252p:plain

  私はイタリアに長く住んでいて、今まで日本に関する珍妙な質問(「東京は中国の首都なんだろう?」とか、「ルーマニアと日本では、どちらがイタリアに近いの?」などなど)を受けてきたのでそれほど驚かないが、それでも......である。

 勿論、私も例えばジンバブエやブルキナ・ファソの正確な位置を地図で示せ、といきなり求められたとしたら、アフリカ大陸におけるおおよその場所はわかるにしても、正確な位置を示すことなど全く自信はないのだから、似たようなものかもしれないが。

 ただグラフを観ていて気付いたのだが、例えば「北朝鮮はここにある」とアフガニスタンの場所を指した人は、要するに北朝鮮が地球上のどこにあるか知らないだけでなく、アフガニスタンという国がどこにあるかも知らないことを示していることである。それは他の国々の位置を指した人々にも言える。つまり一つの国が本来存在する位置にではなく、他の国が存在する場所にあると考える場合、それは間違えたもう一つの国の位置も知らないことを明らかにしているわけである。

 これを聖書が啓示している教えの次元に適用してみると、大切なことが浮かび上がってくる。つまり、神の啓示全体像の中で、救いに関わる中心的教え、例えばキリストのペルソナや贖罪のわざの教えと、省略したりすることはできないにしても直接救いには関連していない副次的な教えがあるのだが、その啓示全体の中での「位置」を間違えるということは、一つ一つの教えの本質を理解していない可能性がある、ということである。

 具体的に書くと、例えばある人が食べ物に関する教えや、日や季節や年に関する教えに執着し、キリストの贖罪のわざに関する教えの中心性から離れてしまっている時、それは啓示全体の中でのそれぞれの教えの本質の理解が欠如していることを示しているのである。

 命を懸けて福音を伝えた使徒たちが、何を宣教や信仰生活の中心に置き、何を脇に置いていたか、鳥瞰的な視点でキリストの啓示を確認し続けることは、細部にこだわりがちな傾向をもつ場合、必要不可欠なプロセスではないかと思う。

Ⅰコリント2:1-5

1 兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。

2 なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。

3 わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。

4 そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。

5 それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。

Ⅰコリント8:8

食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。

コロサイ2:16-17

16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。

17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。

へブル13:9

さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。 

聖霊によって目の前に描き出された「十字架につけられたイエス・キリスト」

ガラテヤ3:1ー5(新改訳)

1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。

2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

3 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

4 あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。

5 とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。  

 パリサイ派出身の偽教師によって惑わされていたガラテヤ地方の信徒らに対して、使徒パウロは非常に強い語調を使って、彼らの信仰の歩みの原点まで連れ戻し、彼らの目を覚まそうとしている。

十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。

 「あんなにはっきり示された」(口語訳:描き出された 原語 προεγραφη proegraphE)は受動態である。つまりガラテヤの人々が自分たちのイメージ能力を基に、十字架につけられたイエス・キリストを頭の中に想像してみたのではなく、ましてや人間の手によって表現された宗教画や映像を目の前にして、自分自身をその状況に融合させようと努力したわけでもなかった。信仰の言葉が宣べ伝えられたことによって、聖霊が働き、神自身が聞いている人々の心の中に十字架につけられたイエス・キリストをまざまざと啓示してくださった、という意味である。

 その働きは今から二千年前のガラテヤの人々の救いのためだけではなく、映像の時代の現代においても主なる神は同じ働きで人々の魂を救いへと導く。私たちは聖霊が同じように救いの源泉である「十字架につけられたイエス・キリスト」を描き出してくださることを期待して、御言葉を曲げず、与えられたままにまっすぐ宣べ伝えていこう。

Ⅱコリント4:1-2

1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、

2 恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。

Ⅱテモテ2:15(新改訳)

あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。

ニネべの東

ヨナ3:10;4:1-11

3:10 神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。

1 ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、

2 主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。

3 それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。

4 主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。

5 そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。

6 時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。

7 ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。

8 やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。

9 しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。

10 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。

11 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。 

 預言者ヨナは、主なる神の命令「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」(1:2)を何とか無事遂行した後、自国イスラエルにすぐ戻って休もうとはしなかった。かといって、12万人の町全体が主なる神の言葉に悔い改めたことを喜び、町の人々と共にいようともしなかった。

 ただ一人、ニネベの町の東に小屋を立て、「自分の主張」や「自分の感情」、「自分の弱さ」に呑み込まれ、翻弄されていたのである。同じ孤独な状態でも、第二章に記録されている「魚の腹の中のヨナ」の態度とは、鋭い対比を為している。

 ヨナは主なる神の正しい知識をもっていた。

「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。

  その知識は、モーセの律法に記されている啓示に準ずるものであった。

出エジプト34:6

主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、 

  確かにヨナは主なる神の正しい知識を持っていたが、その主なる神の豊かな思いや計画に関しては、全く自分のものとして分かち合っていなかった。神の憐みの中に悔い改めを見出していたニネべの町から離れた所に一人でいたヨナのそのポジションは、彼の霊的なポジションをそのまま表している。

 御子イエスが語ったたとえ話の中で、放蕩生活から悔い改めて帰ってきた弟のための祝宴に参加しようとせず、「あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」という父親の思いも汲み取れず、一人憤って「自分の長男としての権利」を主張していた兄の態度と共通するものである。

ルカ15:11-32

11  また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。

12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。

13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。

14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。

15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。

16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。

17 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。

18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。

19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。

20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。

21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。

22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。

23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。

24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。

25 ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、

26 ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。

27 僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。

28 兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、

29 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。

30 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。

31 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。

32 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。 

 正しい知識を得るために祈り努めると同時に、自分が今どこに立っているのか、つまり神の恵みの外で一人、「自分の主張」や「自分の感情」、「自分の弱さ」に翻弄されていないか、絶えず確認しながら前に進もう。

へブル12:15

気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。

神のあかし:「これ以上、なんの証拠がいるか。」

ルカ22:66-71

66 夜が明けたとき、人民の長老、祭司長たち、律法学者たちが集まり、イエスを議会に引き出して言った、

67 「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」。イエスは言われた、「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。

68 また、わたしがたずねても、答えないだろう。

69 しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。

70 彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。

71 すると彼らは言った、「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」。 

 長老、祭司長たち、律法学者たちは、御子イエスの口から神の子であるという証言を直接聞いて、「これ以上、何の証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」と議会において宣告した。

 議会は御子イエスを神の御名を穢した罪に定め、殺すためにそのように宣告したわけだが、皮肉なことに、これは議会の邪悪な動機を超越して永遠の真理を現している言葉である。つまり偽ることのできない神の子自身が直接、神の子であることを啓示しているのだから、これ以上の証拠など必要ないということである。

 人間の何千、何万という知識や知恵の言葉も、御子自身が提示したこの一つの証拠の絶対的価値に比べたら、取るに足らないものだろう。もし70人近い権力者で構成されていた議会において訴えられていたイエスが、実際にはそうではないのに「私は神の子である」と主張していたならば、確かに律法によって冒涜の罪に定められることは正当で、彼の死は自身の罪の責任を負ったものだったろう。復活も、その後の聖霊の注ぎも、弟子たちによる福音宣教もあり得なかっただろう。

 しかし父なる神は復活を通して、イエスが永遠の御子であることを世に知らしめたのである。

ローマ1:2-4

2 この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、

3 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、

4 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。 

 4節に「神の御子と定められた」とあるが、勿論、旧約聖書において予示されていたように、御子は永遠の存在であるから、「復活によって御子となった」という意味ではなく、「復活によって御子として公に宣言された」ということである。その点、新改訳はより明確である。

聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。 

 つまり父なる神は御子を死から復活させたことによって、御子自身の証しが確かなものであることを示したのである。

Ⅰヨハネ5:9-11

9 もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。

10 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。

11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

ヨハネ8:13-18

13 するとパリサイ人たちがイエスに言った、「あなたは、自分のことをあかししている。あなたのあかしは真実ではない」。

14 イエスは彼らに答えて言われた、「たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。しかし、あなたがたは、わたしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない。

15 あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。

16 しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである。

17 あなたがたの律法には、ふたりによる証言は真実だと、書いてある。

18 わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである」。 

  この「神の証し」は、権力者たちの「証し」と強烈な対比をなしている。イエス・キリストに関して人間が様々な解釈をし、それを世に知らしめようとも、「必要十分」なのは、御子自身が語り、父なる神が立てた「神の証し」である。

解釈の基本原理:霊的シンボリズムと実践的教え(第一コリント5章の例)

Ⅰコリント5

1 現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。 

2 それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。 

3 しかし、わたし自身としては、からだは離れていても、霊では一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。 

4 すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、 

5 彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。 

6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。 

7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。 

8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。 

9 わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、 

10 それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。 

11 しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。 

12 外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。 

13 その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。 

 この章において、使徒パウロはコリントの教会の中で起きていた深刻な問題に関して、真正面から向き合い、歯に衣着せぬ戒告を書き送っている。その内容はその罪の重大さに比例するかのように峻厳で、「教会の交わりからの除外」と「裁き」というものであった。

  • 「教会の交わりからの除外」

2節「そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないこと」

13節「その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。」

  • 「裁き」

3節「そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。」

12節「あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。」

 結局、この恐ろしい事態は当事者の真摯な悔い改めによって、健全な解決に至ることになるのだが(Ⅱコリント2:5-8参照)、使徒パウロはここである一つのシンボルを使い、コリント教会に対してなぜ「教会の交わりからの除外」と「裁き」という厳しい対応をしなければならないかを説明している。

6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。

7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。

8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。

 つまりモーセの律法の中にある過ぎ越しの祭のシンボルを利用して、以下のような三つの霊的真理を伝えている。

  • 「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。」 御子イエス・キリストが「世の罪を取り除く神の子羊」として、全人類の罪を背負って十字架の上で犠牲の死を遂げてくださったという事実。
  • 「あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。」 その御子の死によって、信じた者はその信仰のゆえ、義なる神に義と見なされ、罪の清めを受け、「パン種のない者」と見なされる。
  • 「新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。」 主なる神の目に信仰者は罪のない者として見なされるが、それは信仰によって受け入れるものであって、地上の生活において信仰者はまだ「肉の弱さ」の誘惑、ここでいう「古いパン種」が混入する可能性から解放されていないのである。だからこそ、「古いパン種を取り除きなさい。」という戒めが現実的なものとなるのである。

 つまり、使徒パウロはこの5章において、三つの段階を踏んだプロセスを語っているのである。

  • 地域教会における現実的な罪の問題の認識
  • 聖書のシンボルを使った霊的真理の啓示
  • その霊的真理に基づく実践的命令

 このようにこの第5章は、非常に明確な霊的論理性をもった文脈をもっているので、細部の解釈もその基準に従って行うべきである。例えば8節の「パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。」という箇所を引用して、「信仰者はモーセの律法に書いてあるように、酵母菌の入っていないパンによって、定められた日に過ぎ越しの祭を行うべきである」という実践的な教えを引き出すことはできないのである。なぜならこの文節は霊的な次元のシンボリズムを扱っており、キリストは実際に動物の子羊として犠牲になったわけではなく、また信仰者も回心によって物質的に「パン種のない者」になった(!)わけではないからである。7節の「事実」とは、霊的現実について語っているのである。

 そして霊的現実について啓示している以上、「祭をしようではないか」という勧告は同じ使徒パウロによる以下の霊的勧告に準じて解釈すべきである。

ローマ12:1-2

1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

 使徒ペテロの勧告も、パウロのこの霊的礼拝に関する教えを裏付けるものである。

Ⅰペテロ2:5

この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。 

 何よりもこれは御子自身が語っていた、父なる神が私たちに求めている霊的礼拝である。

ヨハネ4:23-24

23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

 「ヘブライ的解釈」という尤もらしい前提による「古い種」は取り除かれなければならない。

ブログをはじめて4年

 5月20日で、このブログをはじめて丸4年が経過した。記事の総数は1021、PVの総数は235000。

 大きな試練の時期にはじめたブログであったが、時には「憑りつかれた」ように、時には悪戦苦闘しながら、それでも気負わず、御子の恵みのうちにある自分に自然なかたちでブログと向き合ってこれたと思う。

 継続して読んでくださっている世界各地の読者の方々にも、感謝の思いで一杯である。

 これからどのくらい書き続けられるかはわからないが、今まで以上に私の救い主イエス・キリストの御名を崇め、唯一の神だけに栄光を帰すためにこのブログを捧げていきたいと思う。

ピリピ1:20

そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。 

 

テストーニ通りでみかけた情景

f:id:eastwindow18:20170517110605j:plain

 通りがかったテストーニ通りのある建物の入り口から見た情景。廊下の奥から射し込む光が、モザイクの床面に青白く映り込んでとても美しい。ちなみに床面にある「Salve」は祝福の挨拶「幸いあれ」、もしくは口語的な使い方で「こんにちは」というニュアンスをもつ。

 この建物があるところは、「ミッレ」と呼ばれている12世紀頃の城壁に隣接していた場所で、近くには「Porta Nuova ポルタ・ヌォーヴァ」という城門が残っている。つまり当時は、18あった門の一つのこの門から、ボローニャの町に入っていたということである。

f:id:eastwindow18:20170517110212j:plain

 

f:id:eastwindow18:20170520174101p:plain

 黄色い線が、「ミッレ」と呼ばれている城壁。