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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「今、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい」

ハガイ1:1-11

1 ダリヨス王の二年六月、その月の一日に、主の言葉が預言者ハガイによって、シャルテルの子、ユダの総督ゼルバベル、およびヨザダクの子、大祭司ヨシュアに臨んだ、

2  「万軍の主はこう言われる、この民は、主の家を再び建てる時は、まだこないと言っている」。

3 そこで、主の言葉はまた預言者ハガイに臨んだ、

4 「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。

5 それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。

6 あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。

7 万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。

8 山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。

9 あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。

10 それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。

11 また、わたしは地にも、山にも、穀物にも、新しい酒にも、油にも、地に生じるものにも、人間にも、家畜にも、手で作るすべての作物にも、ひでりを呼び寄せた」。 

 七十年に及ぶバビロニア捕囚から約束の地に帰還したイスラエルの民は、荒れ果てた祖国の再建に失意して無気力な日々を過ごしていたわけではなかった。自ら木を伐り出し、家を建て、畑を耕し、多くの種を撒き、多くを望んで忙しく働いていたのである。だがそれは主なる神の目に最も優先的な事を先送りにし、「主の家を再び建てる時は、まだこない」と言って、自分たちの生活を復興する時に囚われていたのである。

 主なる神は二度も「あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい」と繰り返している。「あなたがたは主なる私が成し遂げることを待ちなさい」とは命じていない。なぜなら主なる神が山に登り、木を伐り出し、神殿を再建しなければいけなかったのではなく、それは民が為すべきことだったからである。

 勿論、主が望むなら荒れ果てた神殿においても神の栄光を現すこともできたはずである。なぜなら「いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない」からである。しかし主は民がおのおの自分の家のためだけでなく、まず何より神の栄光のために協力して働くことを求めておられたのである。

万軍の主はこう言われる、

この民は、主の家を再び建てる時は、まだこないと言っている。

、万軍の主はこう言われる、

あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。

 実際、永遠の神とは異なり未来を知らない私たちは、ほとんど「神の時」を知らない。過去に戻って犯してしまった過ちを修正することもできない。与えられているのは「今」である。

マタイ5:21-24

21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、

24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。

ヤコブ4:13-17

13 よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。

14 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。

15 むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。

16 ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。

17 人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。 

 次の瞬間に全く不測の事態によって地上の命が終わりを遂げる可能性の中に生きる私たちが、「今」為すべき善とは何だろうか。そもそも私たちが考える「善」は、本当に主なる神が私たちに為すべきと命じている善であるのか、私たちはわかっているのだろうか。

エペソ5:15-17

15 そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、

16 今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。

17 だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。

Ⅰペテロ4:17-19

17  さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。

18 また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。

19 だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。

Ⅱコリント6:1-2

1 わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。

2 神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。

詩篇90:12

われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。

神の子羊こそ、わが魂の慕うすべて

黙示録7:9-17

9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、

10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。

11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、

12 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。

13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。

14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。

15 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。

16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。

17 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

 人に疲れ、自分にうんざりし、やるせない孤独の中で飢え渇いた魂を、神の子羊は決して見捨てない。自分だけがその魂をいのちの水の泉に導けることを知っているから。

 神の子羊こそ、わが魂の慕うすべて。


Lamb of God Acappella

覆われたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。

マタイ10:16-33

16 わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。

17 人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。

18 またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。

19 彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。

20 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。

21 兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。

22 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

23 一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。

24 弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。

25 弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。

26 だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。

27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。

28 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

29 二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。

30 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。

31 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。

32 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。

33 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。

ルカ12:1-12

1 その間に、おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきたが、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。

2 おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。

3 だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。

4 そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。

5 恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。

6 五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。

7 その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。

8 そこで、あなたがたに言う。だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう。

9 しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろう。

10 また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。

11 あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。

12 言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」。 

 「おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。」

 このよく引用される聖句は、『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』の中にあるが、それぞれが置かれている文脈をよく読んでみると、実は聖句が示す内容が異なることがわかる。

 マタイにおいては「福音宣教における迫害」という文脈の中に置かれ、ルカにおいては「パリサイびとの偽善に対する警告」という文脈の中で語られている。

 マタイのメッセージは、「だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。」とあり、「御子イエスが弟子たちに内密かつ個人的に語ることを、その啓示が引き起こす憎悪や迫害を恐れることなく、公に、そして大胆に語れ」と命じている。

 ルカのメッセージは、「おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。」とあり、語るのは御子イエスではなく、「私たち人間が人の目に隠れた所で内密に語りあうこと、特に裏表のある考えや偽善的策略は、必ず公になり、人々に間で語り伝えられるのだから、注意しなさい」と警告しているのである。

 この二つのメッセージは、互いに補完関係にあり、ただひたすら御子の計り知れない恵みによって罪の支配から贖われ、キリストの証人としてこの世に遣わされている「憐みの土の器」として、両方の教えを心に刻み付けておく必要がある。

 つまり片や、人々の誤解や無理解、反対、憎悪、迫害を恐れ、自分の弱さに縛られ、祈りや賜物を通して御子が聖霊によって語ったり、行うように命じていることに躊躇する危険と、もう一方では、与えられた神の祝福のゆえに高慢になり、言っていることと行っていることが違う偽善や、表で言っていることと裏で考えたり、口にしていることが違う偽善に陥る危険の、二つの要素である。

 なぜ私たちはこの二つの危険性に注意しなければならないのだろうか。それは真に畏れるべき方、唯一の神であり、生ける者と死せる者を正義と公平をもって裁く方が存在するからである。

また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。

 公に語れと命じられたことを恐れて語らない私たちの臆病さを見ている神は、同時に、語る前に為すべきことを為さない私たちの偽善も見ている方である。

 主よ、私たちを御子の尊き血潮によって清め、貴方の限りない愛と恵みと憐みを大胆に語る者としてください。

天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。

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創世記13:14-17

14 ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。

15 すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。

16 わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。

17 あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」。

創世記15:1-5

1 これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。

2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。

3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。

4 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。

5 そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。

6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。 

 ロトが低地の町々を選び、ソドムに住むために離れて行った時、主なる神はアブラハムに「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい」と命じ、そして彼に「わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう」と約束を与えた。

 しかしアブラハムがカナンの地に住んで約十年の月日が流れた頃、主なる神はアブラハムを夜、天幕の外へ導き出し、満天の空を見上げさせ、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」と命じた。そして彼に「あなたの子孫はあのようになるでしょう」という約束を与えたのである。

 「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」 アブラハムはたとえ十代の視力を持っていたとしても、それは不可能だった。「地の塵」も同じように数えることはできないものだが、手に取ればその一部でも実感することができた。

 しかし満天の星には、いくら手を伸ばしても届かず、指を指して追いかけようとしても、それらの星々は天空を緩やかに動き続け、誰もそれを引き留めることはできない。

 満天の星の下に立つアブラハムには、主の約束を信じる以外、何もできなかったのである。

 「In Christ

 御子キリストのうちに導かれ、その恵みの中で生きる信仰者は、アブラハムと同じである。

コロサイ2:9-10a

9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、

10a そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。

 御子キリストのうちに神の徳が満ち満ちていて、あなた方はそれに満たされている、と約束されていても、私たちはしばし、満天の星の下で手を伸ばし、立ち尽くすアブラハムのように感じてしまう。その星々は私たちの指の先からはるかに高いところでキラキラと輝いているが、私たちの手の中には光り輝くものなど何一つない。特別美しく輝く星を見つけて好みの名前を付けても、ちょっと視線を逸らしただけで、次の瞬間にはその星がどれだったかわからなくなってしまう。

「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」 

 主なる神はアブラハムに「天を仰いで、星を数えなさい」とは命じなかった。

 私たちもアブラハムと同じようにただ信じよう。私たちはキリストのうちに満ち満ちた神の徳のなかに生き、それが私たちのうちに満ち満ちていることを。

 


In Christ Alone

「永遠の神の計画」と「人間から見た時間の概念」

 歴史と時間の相関性を「螺旋構造」と見なす観点は、非常に興味深いと思うと同時に、時空を超えた永遠の霊なる神の観点はどうなんだろう、という思いが私のうちに生じた。

 時間と空間の制限の中に生ける人間から見た「過去」「現在」「未来」を、御子のうちにすべて、そして完全に「保有する」(【保有】自分のものとして持っていること。ここでは、個人的には「統治」というニュアンスもイメージしているが、適正な表現が見つけられないので、とりあえず使っている。)神の観点では、時間は御子における神のわざを構成する要素の一つでしかなく、「推移」よりも「状態」そのものを見ているのではないだろうか。

Ⅱペテロ3:8-14

8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。

9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。

11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、

12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。

13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。

14 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。 

 つまり永遠の神には、彼にとって「すべての者」が悔い改めに至り、救われ、ご自身のものとなることが目的であり、そのために一日の時間が流れようと、千年、二千年、三千年、と流れようと本質的な違いはなく、その時間の推移による歴史が螺旋運動的に繰り返そうが、またイスラエルの民が一か月もかからない道程を四十年間彷徨うことになったことが示しているように、人間の頑なな心によって何度も何度も繰り返し耐え忍ぶことを強いられようが、「地とその上に造り出されたものが焼き尽くされる」ような、一度しか起こらない出来事を通してだろうが、主なる神が「一心に見つめ続けていること」は、そのご自身の目的の達成なのではないだろうか。

 だからこそ聖霊は、「今」私たちに与えられている恵みを蔑ろにしないよう、また「今日」聞くことが許されている神の御声に対して頑なにならぬよう、御言葉を通して勧告しているのではないだろうか。

Ⅱコリント6:1-2

1 わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。

2 神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。

へブル3:13-15

13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。

14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

15 それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。 

 

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赤く見える「赤くないイチゴ」

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 イチゴの実を実際に見たことがない人間がいたと仮定し、もしその人にこの写真を見せたらとしたら、いま私たちが確かに認識しているこの「赤」は「見えない」のではないだろうか。

 つまりこの場合に私たちが経験するクオリアは、単なる「波長700ナノメートルの光(視覚刺激)が網膜を通じて脳に信号を与えた時に感じるもの」ではないことになる。

 なぜなら今、現在私の目の前には、「波長700ナノメートルの光を放っているもの」が存在しないからである。つまり脳の中で視覚的記憶とシンクロして、あの「赤のクオリア」を感じさせているのである。

  以下、クオリアに関するウィキペディアの定義である。

クオリアがどういったものかであると定義するかには様々な考え方があるが、おおよそ次にあげるような性質があるものとして議論される。

  • 言語化不可能: 体験される質感そのものを言語化して伝えることは困難であるとされる。例えば生まれつきの色盲の人に「赤い」というのがどういうことか、「青い」というのがどういうことかを伝えようにも、言語化して質感そのものを伝えることには困難をともなう。質感そのものを言語として概念化しがたかいことは、質感が言語という情報と直接的な因果関係がないものだからとも言われる。
  • 誤り不可能: クオリアの性質として、それは誤り得ない(訂正を受けない)もの、ともしばしば言われる。人は様々な錯覚を持ったり、また時に幻聴を聞いたり、外界の実在と対応しない様々な感覚を持つ。しかしそうした体験された感覚自体は、誤りえない実際の体験である、といったことが言われる。
  • 私秘的: 他者から観測できない個人的なものである、とされる。本人が特権的にアクセスできるという意味で特権的アクセスとも言われる。

 キリスト者の読者の方々は、これらのクオリアの特徴と、自分の霊的体験(人間の霊的面)とを比較して考察すると、多くの大変興味深い考えが与えられると思う。

 ただ言語化するのは、異常な困難が伴うが。

 

よりわかりやすい参考サイト:

クオリア - 哲学的な何か、あと科学とか

 

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あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。

エペソ4:25

こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。 

 この聖句において啓示されている教えは、ただ「偽りを捨てなさい」(「偽りを言ってはならない」とは書いていないことに注意。ただ単に偽証しないという次元よりもっと深い、偽りとの関係性に関わることではないだろうか。)と命じているだけでなく、「真実を語りなさい」とも命じている。

 この二つの命令は、互いの補完するものである。なぜなら、人は「偽りを口にしないが、恐れて真理を語らない」ことや、「真理を語りながら、妥協によって偽りを握りしめている」ことが十分にあり得るからである。

 また使徒パウロが言及している理由も意味深い。「わたしたちは、お互に肢体なのであるから。」 つまり、「偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい」という教えは、ただ個人的な倫理性に関わるものではなく、肢体、つまり信仰者の霊的集合体としての「キリストの体」全体に関わる問題だから、と主張されているのである。

 実際、兄弟姉妹に対して偽りを語ったり、偽りを擁護したり、また「調和のために」真実を語らないことは、私たちが認識できるか否かは関係ないレベルで、キリストの体を傷つけ、御霊の働きを妨げる。

Ⅰコリント13:6

(愛は)不義を喜ばないで真理を喜ぶ。

 

(塚本訳)

(愛は)偽りを見て喜ばない、むしろ真理を喜ぶ。

 勿論、「あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。」という教えの実践も、私たちの倫理的努力によって実践できることではなく、やはり御子イエス・キリストのうちにあって成し遂げられたわざを信じる、その信仰によって実現することは、冒頭の聖句の前の部分にはっきりと啓示されている。

エペソ4:17-22

17 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。

18 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、

19 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。

20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。

21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。

22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、

23 心の深みまで新たにされて、

24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

 そう、信仰者の古い人は御子の死によって御子と共に葬られ、死から甦られた真理である方によって、信仰者は新しい人として生きているのである。

ローマ6:3-13

3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。

4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。

7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。

9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。

10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。

11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

12 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、

13 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。