an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

新改訳聖書の著作権について

 通常利用している聖書検索ソフト e-Swordを再インストールして更新してみたところ、今まで日本語訳では「口語訳1955年版」しかなかったが、「新改訳」もリストに加わっていた。

 ダウンロードのファイル名を見ると、[Japanese SS Japanese Shinkaiyaku Seisyo published in 1954,1955; public domain]とあるが、これは口語訳に関するもので、明らかに間違いだと思う。なぜなら新改訳聖書の発行年は1970年(第一版)1978年(第二版)そして2003年(第三版)とあり、著作権の所有はいのちのことば社、および新改訳聖書刊行会にあるからである。つまりパブリックドメインではないのだ。

  ただし新改訳聖書 - Wikipediaには、以下のような記述がある。

ちなみに、2016年時点では、1965年に発行の新約聖書初版については、著作権が切れている。

 そしていのちのことば社の「聖書〈新改訳〉について」というページには、聖句の引用に関する規定が明記されている。

引用の場合
1.)聖書本文を誤りなくそのまま引用して下さい(変更の禁止) 。
2.)出所の明示を行って下さい(著作権法第48条)。
   聖書 新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会
3.)Webサイトでの電子データの場合の引用は、1Webサイトにつき1書未満、か つ、250節までとします。

 この「1Webサイトにつき1書未満、か つ、250節まで」という規定があるので、私はこのブログでは新改訳聖書をベースには使うことができず、特別に引用する意味がある時だけ、つまり訳のニュアンスの違いに引用するだけの特徴がある時のみに限定するよう心掛けている。

 ただ「1WEBサイトにつき、250節まで」という制限は、何年も同じブログを続けている場合、そしてそれを続ければ続けるほど、守ることが難しくなるのは明らかである。

 聖書が人類に与えられた本来の目的を考えれば、もう少し何とかならないのだろうか、という思いも出てくるが、一応、規定は規定ということで...。

   

ある姉妹の報告

 先日、ある東欧出身の姉妹から電話があり、婚約を解消した報告を受けた。この姉妹には色々な状況で相談を受けていたし、彼女の父親は自国で牧師をしていて、娘を訪ねてきたとき、言葉は通じないながらも共に祈る時をもち、霊の交わりを強く感じた経験をしたことがあった。非常に素朴な信仰をもつ家族というのが印象である。

 彼女の報告を受けた時、私は内心、それまであった重荷が取れたようで、主なる神に感謝した。彼女もそれを感じたのか、婚約解消の理由を説明し始めた。

 実は数か月前に彼女の口から婚約の話を聞き、相手の男性の名を聞いたとき、私は非常に悩み苦しんだ。その男性がどのような人間かよく知っていたし、また彼の家族が過去に教会や牧師家族に対してどのようなことをしてきたかよく知っていたからである。

 ただ幸せな家庭を夢見ている純朴な姉妹にこの現実を語るには、あまりにもデリケートで厳しすぎるように思え、ある姉妹と相談した上で、敢えて何も語らず、すべてを主なる神の御手に委ねることにしたのである。

 その数週間後、今年の9月に結婚式が決められ、その招待の連絡を受けた時、私の心がさらに動揺したのは言うまでもない。ただ「御心でないのなら、主よ、手遅れになる前に彼女を守ってください」とだけ祈り続けていた。

 そして今回、彼女から婚約解消の報告を受けたのである。誰かに聞いたわけでもなく、彼女自身が相手の隠れていた不誠実な部分を知り、自ら納得し、決断し、主なる神にそのことを感謝していたことに非常に感動した。

 信仰者にとって結婚は一生に一度しかないものであり、その結婚という制度を人類に与えた主なる神自身が、主権をもって導いてくださるということを改めて思わされた出来事であった。

詩篇143:8-10(新改訳)

8 朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

9 主よ。私を敵から救い出してください。私はあなたの中に、身を隠します。

10 あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。

悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、嘲る者の座に座らぬ人は幸いである。

詩篇1

1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。

3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。

5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

 悪しき者の配下にある世界(Ⅰヨハネ5:9)に住み、悪魔が吠えたけるライオンのように食いつくすべきものを求めて歩き回っている世(Ⅰペテロ5:8)に遣わされ、ひねくれた悪人(Ⅱテサロニケ3:2)が隙を窺っているような社会で生きている私たちは、どうしたらこの詩篇記者が言うところの「さいわい」を保つことができるだろうか。

 何より信仰者であっても自分自身のうちに肉なる者がいる私たちが、どうしたら「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座に座らぬ」ように、自らを霊的・精神的・倫理的に聖別して生きることができるだろうか。

 自分に少しでも正直な人は、自分の努力だけではとてもでないが実現できないことを知っている。たとえ「昼も夜も途切れることなく」聖書を読み、祈る努力をしても、私たちの肉の思いは私たちを穢し、天に羽ばたこうという思いを引きずり落とす。

 しかし御子イエス・キリストの十字架の恵みは、私たちを罪と死と孤独の荒野から、「川のほとり」、「キリストのうち In Christ」に移植して(שׁתל shâthal)してくださっただけでなく、聖霊の内在と満たしを通し、信じる者の心に生ける水の川が湧き流れる「泉」を備えてくださったのである。

ヨハネ7:37-39

37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。

38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。 

 その御霊の内在と満たしによって、主のおきては私たちの心に刻まれ、私たちの心の喜び、日々の糧となり、闇を照らす光となるのである。

 その霊的光によって、「悪しき者のはかりごと」「罪びとの道」「あざける者の座」を識別し、霊的・精神的・倫理的、時に物理的にも、袂(たもと)を分かつのである。

 主よ、私たちを「正しき者の道」である御子イエスのうちに絶えず留まらせてください。

御子から見た肉体の死の後の魂

マルコ12:18-27

18 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、

19 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。

20 ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、

21 次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。

22 こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。

23 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。

24 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。

25 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。

26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。

27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。

  詭弁を使ったサドカイ派の人々の問いかけに対する御子イエスのこれ以上ないと言えるほどの鋭い言葉の中に、御子の人間の魂に関する正確な教えが啓示されている。

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。

 つまりユダヤ人であったら知らない者はいないほど有名なエピソードを引用し、その文法的要素も踏まえて、アブラハムもイサクもヤコブも肉体的には1800年近く前に地上の生命を終えているが、彼らの魂は主なる神の前で生きている、と主張したのである。

 なぜなら主なる神はモーセに「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」とは啓示していないからである。つまりこれらの信仰者たちが地上で生きている期間だけの神であったわけではなく、御子がサドカイ派の人たちと話している瞬間にも、アブラハムやイサクやヤコブは生きていて、主なる神は彼らの神である、と主張しているのである。

 これは御子がまだ十字架の上で命を捧げ、復活する前の時期に話した言葉であることを考えると大変意味深い。つまりここでは、御子の復活と共にパラダイスへ導き上げられた旧約時代の信仰者の状態を話しているのでも、主の来臨の時に復活する魂について話しているのでもないのである。

 この肉体の死の後の魂の状態に関する御子の教えは、御子がユダヤ人宗教家たちと議論していた時の言葉の中にも啓示されている。

ヨハネ8:56

あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。

 つまり御子が地上に顕れた1800年近く前に地上の生涯を終えていたアブラハムが、御子の顕現の預言の実現を心待ちにし、その実現を見て実際に喜んだ、と言っているのである。つまりアブラハムは肉体的死の後、彼の魂は肉体と共に消滅したとか、無意識の中で墓の中にいたのではないのである。

 また御子自身が語った、金持ちとラザロのエピソードも、肉体の魂の状態に関する御子の考え方がよく伝わってくるものである。

ルカ16:19-31

19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。

20 ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、

21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。

22 この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。

23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。

24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。

25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。

26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。

27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。

28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。

29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。

30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。

31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

 ここではアブラハムだけではなく、地上の生を終えていた金持ちも明確に自意識をもち、知覚(「ハデスにいて苦しみながら」「わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています」)や、記憶(「わたしに五人の兄弟がいますので」)さえあるように表現されている。またラザロに関しても「しかし今ここでは、彼は慰められ」とあり、これらの言葉を語っているアブラハム同様、意識があることを暗示している。

 新約聖書には「肉体の死」を「眠り」と表現している箇所がいくつかある。例えば会堂司ヤイロの娘が死に、御子によって蘇ったエピソードや、同じ病気で死んで四日後に御子の言葉によって蘇ったラザロのエピソードにおいてである。

マタイ9:24

「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。すると人々はイエスをあざ笑った。 

ヨハネ11:11-14

11 そう言われたが、それからまた、彼らに言われた、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」。

12 すると弟子たちは言った、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」。

13 イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。

14 するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。 

 また初代エルサレム教会の執事ステパノが殉教した際にも、眠りについたという表現が使われている。

使徒7:60

そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。

 使徒パウロも【κοιμάω koimaō】という「眠りにつく、死ぬ」と意味を持つ単語を使い、肉体の死を眠りと表現している。

Ⅰコリント7:39

妻は夫が生きている間は、その夫につながれている。夫が死ねば、望む人と結婚してもさしつかえないが、それは主にある者とに限る。 

(当然、ここでは「夫が眠れば」と訳してしまうと、大変なことになるので、「死ぬ」と訳している。)

Ⅰコリント15:6;18;51

6 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。

18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。

51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。

Ⅰテサロニケ4:13-17

13 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。

14 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。

15 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。

16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、

17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。

 ここでは異なる二つの動詞を使いながら、「イエスにあって眠っている(κοιμάω koimaō)人々」と「キリストにあって死んだ(νεκρός nekros)人々」が、同義として表現されている。

 また使徒ペテロも同じ【κοιμάω koimaō】を使って、先祖たちのことを「眠りについた」と表現している。

Ⅱペテロ3:4

「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。 

 しかしこれらの「眠りにつく」という表現は、どちらかというと「地上に生きている人間との関係における肉体の死」を婉曲的に表現したもので、必ずしも「主なる神との関係における死後の魂の在り方」について説明しているわけではない。

 そして以下の聖句は、肉体の死の境界線を超えた魂の継続性を非常に力強く啓示している。

Ⅱコリント5:1-9

1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。

2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。

3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。

4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。

5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。

6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。

7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。

8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。

9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。 

ピリピ1:20-23

20 そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。

21 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。

22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。

23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。

24 しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。

 ここで使徒パウロは明確に「肉体において生きていること」「肉体にとどまっていること」の対比として「死ぬこと」を置き、それが「この世を去ってキリストと共にいること」と等しいものとして考えている。

 これは十字架の上で御子自身が、罪を悔い改めた強盗に対して宣言した救いの言葉にも共通する真理である。

ルカ23:39-43

39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。

40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。

41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。

42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。

43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。 

 結論として信仰者の魂は、肉体の死後、消滅したり意識を失った状態になるのではなく、地上で生きている間に信じ従った主イエス・キリストの臨在のうちに、肉体の復活つまり永遠の贖いの完成を待つのである。

 反対に不信仰者はハデスと呼ばれる隔離された霊的空間で、永遠の裁きを受ける時を待つことになる。

黙示録の中の二巻の巻物

 黙示録は聖書を構成する全六十六巻の中でも特別難解な書のうちに一つであり、その分、その解釈にあたって細部に至るまで読者の関心を引く書である。

 ただ数多く使われているシンボリズムのディティールに囚われ過ぎて、大局的な見地を失いがちなのもまた事実である。だから一枚の大きな絵画を鑑賞するときのように、全体像を観て、次に細部をよく観察し、また距離を置いて全体像の中の細部として認識し直す必要がある。

 先日、七つの封印をもつ巻物についていくつかの記事をまとめたが、使徒ヨハネが与えられたその巻物の幻は、使徒が天の御座まで引き上げられて与えられた啓示であり、彼が地上のパトモス島において、主の日に、地上の七つの教会へ対して書くように命じられた巻物(βιβλίον biblion 単数形)とは、明らかに区別されて啓示されているのである。

黙示録1:9-20

9 あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

10 ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた

11 その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。

12 そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた

13 それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。

14 そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。

15 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。

16 その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。

17 わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、

18 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。

19 そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。

20 あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。

 使徒ヨハネは、自分の「うしろから」栄光の主の声を聞き、振り向いたら七つの教会のシンボルである七つの金の燭台の間にいる主イエスの栄光を見たのである。

 しかし使徒ヨハネが七つの教会へ書き送るメッセージを受け取った後、今度は天が開けて、彼は御座まで引き上げられ、使徒が地上で生きている時代のことではなく、「これから後に起こるべきこと」の幻を見るように導かれた。

 使徒に話しかけている声は同じ方、つまり御子イエスであったことを考えると、使徒の背後に自らを顕示されたことと、使徒を天に引き上げ、天の御座の前で顕示されたその違いは、大きな意味をもつように思える。 

黙示録4:1-2

1 その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。

2 すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。 

 しかも「これから後に起こるべきこと」は、地上の七つの教会へ宛てて使徒ヨハネの「耳元で告げられた」メッセージとは異なり、他の誰も開くことができず、御子だけが開くことができた七つの封印で封じられた一巻の巻物(βιβλίον biblion 単数形)に書き記されてあった内容であった。

黙示録5:1-10

1 わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。

2 また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。

3 しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。

4 巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。

5 すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。

6 わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。

7 小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。

8 巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。

9 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、

10 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。 

 以下は黙示録の中の二巻の巻物の特徴を簡単にまとめたものである。省察を深めていけば、さらに書き加えることができると思う。

  • 二巻とも御子イエスによって啓示された。
  • 一巻目は地上のパトモス島にいた使徒ヨハネの背後で啓示され、二巻目は天の御座まで引き上げられた使徒の目の前で啓示された。
  • 一巻目は小アジアの七つの教会に宛てて書かれたメッセージであり、二巻目は主の日を迎える全世界に対して書かれたメッセージである。
  • 一巻目は七つの教会への悔い改めと励ましのメッセージ、二巻目は七つのラッパと七つの杯を象徴とする、全世界に対する神の正しい報復と審判のメッセージである。

 

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「御子イエスが与える水」「弟子たちが知らなかった食物」

ヨハネ4:31-34
31 その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。

32 ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。

33 そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。

34 イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。

 空腹や疲労、病気などの肉体的負担は、往々にして私たちの精神状態まで影響を与えることは、誰でも経験していることではないだろうか。一日の労働で疲れ切っている時に、誰かの愚痴や不平に喜んで耳を傾けようとする人はまずいないだろうし、たとえ我慢して相談の乗ったとしても、頭に浮かぶ思いや口にする意見には、普段のそれより棘があったりする。適度の空腹は人に明晰さをもたらすが、度が過ぎるとイライラし始めることは少なくない。病気に苦しんでいる人が他人に無関心であったとしても、誰もそれを責めたりはしないだろう。

 御子イエスがサマリアのスカルという町のはずれの井戸のところで、その町に住む一人の女に出会ったとき、御子は弟子たちと共にユダヤからガリラヤに向かっている途中で、歩き疲れ、喉が渇き、空腹であった。

ヨハネ4:1-8

1 イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、

2 (しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)

3 ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。

4 しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。

5 そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、

6 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。

7 ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。

8 弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。

 御子は弟子たちが昼食を手に入れて戻ってくるまで、静かに一人で休むこともできたはずである。ましてや、スカルの町の人々からも白い目で見られ、孤立していたサマリアの女に、ユダヤ人であるイエスがわざわざ話しかけなければいけない義務は、当時の社会的常識では全くなかった。実際、御子イエスに話しかけられた女は、その想定外の行動に驚き怪しんだのである。

ヨハネ4:9

すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。

  そして御子がユダヤ人から蔑視されていたサマリア人共同体からも疎外されていた一人の名も知られていない女性に話しかけた内容は、この女性が驚いた以上に、私たちを驚かす。

10 イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。 

13-14

13 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。

14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 

21-24

21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。

23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。 

25-26

25 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。

26 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。 

 「生ける水である聖霊」「地上的宗教性から解放された霊と真理による礼拝」さらに「自身が聖書に預言されていたメシアであること」という、実に霊的で深遠な真理を「見ず知らず」の一人の女性、社会的には不道徳と見なされていた女性に、いきなり話しているのである!

 果たしてこのサマリアの女が普段から霊的なことに飢え渇いていたかどうかはわからない。彼女がその後、村の人々に語った言葉から推測すると、おそらく彼女は御子が語った内容自体はほとんど理解できていなかったと思える。しかしそれでも、彼女は確かにメシアの顕現を直感的に受け止めたのである。そしてその彼女の言葉は、町の人々を動かすには十分なものであった。

28-30

28 この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、

29 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。

30 人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。

 現代的福音宣教によれば、私たちはこの女性に対して、どのようなアプローチで、何を語っただろうか。教義的な話はしないで、とりあえず彼女の関心を引くように何かイベントを企画しただろうか。「今週の土曜日にヨルダン川のほとりでゴスペル・コンサートを開きますので、是非お越しください」と誘っただろうか。社会的マイノリティーの人権問題に関する講演会に誘っただろうか。それとも彼女の男性問題のルーツに光を当てるためにカウンセリングをしただろうか。ステンドグラスで飾られた白亜の建物を指さして、微笑みながら「日曜日の朝10時から礼拝があるので、ぜひ参加してください」と誘っただろうか。

 買ってきた昼食を食べるように勧める弟子たちに対する御子の答えは、とても意味深い。

31-34

31 その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。

32 ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。

33 そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。

34 イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。

  肉体的には疲れて、空腹であったはずの御子は、この時点では「弟子たちの知らない食物」によって満たされていたのである! そしてその食物とは、「父なる神の御心を行い、その御業を完成させる」その奉仕そのもののことであった。

 これは日々の糧として備えられていたマナとも異なる、安息日に幕屋の中で大祭司アロンとその子らだけが聖所の中で食べるように命じられていた十二個の聖なるパンにおいて予示されていた、御霊の導きにへりくだり、主なる神に恭順を尽くして仕えるときに与えられる「霊的糧」であり、私たちの肉体的・社会的・物質的状況にかかわらず、私たちの心を深く満たしてくれる「いのちのパン」である。

レビ記24:5-9

5 あなたは麦粉を取り、それで十二個の菓子を焼かなければならない。菓子一個に麦粉十分の二エパを用いなければならない。

6 そしてそれを主の前の純金の机の上に、ひと重ね六個ずつ、ふた重ねにして置かなければならない。

7 あなたはまた、おのおのの重ねの上に、純粋の乳香を置いて、そのパンの記念の分とし、主にささげて火祭としなければならない。

8 安息日ごとに絶えず、これを主の前に整えなければならない。これはイスラエルの人々のささぐべきものであって、永遠の契約である。

9 これはアロンとその子たちに帰する。彼らはこれを聖なる所で食べなければならない。これはいと聖なる物であって、主の火祭のうち彼に帰すべき永久の分である」。

 私たちが所属している地域教会や団体、組織によって企画される様々な奉仕や、自分の使命だと信じて行っている働きにおいて、何か深いところで飢え渇きを感じる時、それは私たちが一旦立ち止まり、御子イエスの御前に静まり、自分が何を糧に生きているか、再確認を促す「御霊によるシグナル」ではないかと思う。

 

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ゴルゴタの暗闇、十字架の光

 共和政ローマ末期の政治家、文筆家、哲学者であるキケロ(Marcus Tullius Cicero, 紀元前106年 - 紀元前43年)は、十字架の磔刑について、「最も残酷で嫌悪感を起こさせる処刑(crudelissimum taeterrimumque supplicium; Cic. Verr. 2.5.165)」とし、「それを施行するだけでなく、口にすることさえも、ローマ市民や自由人には相応しくない」(Rab. Perd. 16)と言って、強い嫌悪感を隠すことはなかった。

 実際にローマ市民に対して十字架による処刑が執行されるケースはごくわずかで、大概は市民権を持っていなかった奴隷や外国人の犯罪者が対象であった。通常、手を縛りあげ、袋のようなもので頭部を覆い、それから釘で磔にしていた、という記録が残っている(福音書には、頭の覆いに関する記述はないが)

 想像するだけで悍ましい光景だが、実際にその場にいたら、しかも自分が慕う人がそのような姿で十字架に架けられていたら、直視することなどできなかったろう。

マタイ27:45

さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。

 この正午の全地を覆った暗闇は、御子の死について私たちが軽々しく言い表すことを静かに戒めている。

 ただ信仰によって御前に跪き、要求など何もなく、静かに目を閉じて祈る時、最も酷く忌々しいはずの十字架が、いのちの光を放つのを見る。