an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

時が良くても悪くても、御言を宣べ伝えなさい。

Ⅱテモテ4:1-5

1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。

2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。

3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、

4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。

5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。 

 ある人々にとっては、それぞれの個性によって、知的好奇心を満たしてくれたり、なんだか心地良くなる話をしてくれる色々なタイプの説教者や教師が無数にいて、クリック一つで自分の思うままに選べ、嫌ならもう一回クリックするだけでいいインターネットの時代は、良い時代だと思っているかもしれない。

 他の人々は、日々聖書と向き合い、御言葉だけが唯一信頼できる礎であり、すべてを判断する絶対的基準であると信じ、実践していくには、とても厳しい時代であると思うい、一人失意しているかもしれない。

 しかし私たちが「今の時」をどう評価しようとも、使徒パウロがテモテに書き送った命令は私たちにも有効で、それは「御言葉を宣べ伝えなさい」であり、「キリストの証人」として任命された私たちの務めはそれを全うすることである。

 なぜなら私たちがどのような状況にいようが、私たちの「前」には父なる神そして生きている者と死んだ者とをさばくべき御子イエスがおられ、かの日にはその永遠に変わらない方の御前で、私たち一人一人が申し開きしなければならないからである。

 メッセンジャーは託されたメッセージを勝手に変えることはできない。管理者は委ねられた財産を勝手に他のものと交換することは許されていない。

ガラテヤ1:8-12

8 しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。

9 わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである。

10 今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。

11 兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。

12 わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。 

宣教の愚かさ

Ⅰコリント1:17-25

17 いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。

18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。

19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。

20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。

21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。

23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、

24 救にあずかる自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。 

Ⅰコリント2:1-2

1 兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。

2 なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。 

 使徒パウロは「ギリシヤ人は知恵を求める」という傾向を十分承知しながらも、ギリシャのコリントの人々に福音を伝えるにあたって、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える」「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまい」と、決心していた。「十字架につけられたキリスト」が異邦人であるコリントの人々には「愚かなもの」であるとよく知っていたのに、である。

 使徒パウロはコリントの町の人々のうち、誰が「滅び行く者」で、誰が「救にあずかる者」か全知の神のように知っていたということだろうか。そうではなく、使徒パウロが宣べ伝える十字架の言自体が、それを聞くコリントの人々を「滅び行く者」と「救にあずかる者」に分けていたのである。

 当時のアテネの広場に集まっていた市民のように「何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしている」人々の興味を引き、彼らの好奇心を満足させるようなメッセージを伝えるべきか。

 それとも使徒パウロのように、ただひたすら愚直に「十字架の言」「神の力、神の知恵たるキリスト」を宣べ伝えるべきか。たとい人々に愚弄され、嘲笑され、そして無視されたとしても。

キリストの体(5)自己防衛本能

 去年の十月、自宅の窓の修理をしている時、バランスを崩して梯子から落ちてしまった。幸い左手小指の骨折程度で済んだからよかったが、もし手で衝撃を緩和していなかったら頭を直接ぶつけていたかもしれないので、それを考えれば感謝であった。

 私自身、梯子から落ちてながらこれから何が起きるのかを判断し、柔道家がするように手を出したわけではなく、ただ「条件反射」によって体が自らを守るために勝手に動いたのである。

 勿論、訓練すればより鋭敏で的確な反応ができるのだろうけれど、そのような訓練とは縁のない生活していている私の体が咄嗟にそのような反応したのは、人体に自己防衛の本能がもともと備えられているからである。

 サッカーボールが不意にあなたの顔に向かって飛んで来たら、あなたが咄嗟に手でその衝撃から身を守るだろう(それがサッカー選手なら自然にヘディングするのだろうか)。小さな虫が飛んできて目に入りそうになったら瞼は勝手に閉じるし、気管に異物が入ったら咳をし、鼻に入ったらクシャミをする。すべてが自己防衛の本能による条件反射である。

 肉眼においては見えない現象においてもそれは同様で、外来性ウィルスが体内に侵入すると免疫応答がおきるのも、本人が意識しているいない関係なく、人間の体にそのような自己防衛本能が与えられているからである。

 この機能は「キリストの体」つまり全ての信徒たちの霊的共同体においても同じものが与えられている。その霊的機能は、特殊な状況における聖霊の導きによる「識別力」や「知恵」に基づく言葉や行動となって顕れる。

 新約聖書の中で非常に興味深い一例がある。 

ユダ3-4(新改訳)

3 愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。

4 というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。

 3節を岩波翻訳委員会訳は以下のように訳している。

愛する者たちよ、私たちの共通の救いについて私はあなたがたに書こうと本気で考えていたが、〔今や〕ひとたび聖なる者たちに伝えられた信仰のために戦うよう、励ますため、私にはあなたがたに書く必然性が生じた。 

  ユダ(十二使徒のひとりとして選ばれていたのに主イエスを裏切ったイスカリオテのユダではなく、主イエスの実弟の一人のユダである。1節参照)は、恵みによって受けた魂の救いに関して全般的な手紙を書こうとしていたが、聖徒たちの交わりの中に「不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定している」ことを聞き、手紙の内容を急遽変更するように聖霊によって導かれたことを示している。

 特に「救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが」という箇所は、ユダが救いに関する手紙を書こうとしながら、不思議と心の中に激しい葛藤が生れ、何度もそのことに関して主から来る思いなのか自問したり、祈りの中で導きを求めたりしたことが暗示されていて、それは信仰者ならば実にリアルに伝わってくるものではないだろうか。

 信仰者のうちにおられる聖霊は、「キリストの体」の肢体を神の知恵によって導き、お互いがいたわり合い、悪の攻撃から身を守るように働いてくださるのである。

Ⅰコリント12:25-27

25 それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。

26 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。

27 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。 

シリア・アサド大統領に対するインタビュー

news.tbs.co.jp

 同じ映像でYoutubeにアップロードされたもの。


シリア・アサド大統領、単独インタビュー(全録)

 いつもながらアサド大統領のロジックの健全さは、一国の主権国家の代表責任者、しかも自国が内外から激しく攻撃を受け、激しい困難の中にある国の責任者として、称賛に価するものだと思う。

 根拠のない悪口や人格攻撃など口にせず(平和な時でも口角泡を飛ばして政敵や論敵を罵る者もいるが・・・)、インタビュー記者が日本の戦後復興の経験の自負心によって語った「オファー」にも、簡単に真に受けたり媚を売ったりせず、日本とシリア間の政府レベルの国交が現在ないこと(在シリア日本大使館は退去している)、援助を提供している友好国が少なくないこと、そして何より自国民に再建の能力と意志があることをしっかりと主張し、さらに「最も難しい再建問題」、つまり争いによって憎しみに染まり傷ついた国民の心を如何に「再建」するかまで言及している。

 政治家としては勿論のこと、一人の人間として彼から学ぶべきことは多いのではないだろうか。

 

関連記事:

律法の否定命令に関する省察(2)

創世記2:8-9;15-17

8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。

9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。

15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。

16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

 前回の記事において、誘惑に対して無防備なアダムの目の前に善悪を知る木を置き、「この木からは取って食べてはならない」という唯一の否定命令を下すのは、一見、不当に思えるということを書いた。しかしよく考えてみれば、もしその唯一の「してはいけないこと」がなかったとしら、そしてすべてを心のままに行うことができ、すべての木から好きなものを好きな時に好きなだけ食べることができ、すっとそうやって生き続けるのであったとしたら、現状の私たちには想像することは難しいことだが、自分の存在や行動、そして自由の意味さえ希薄になってしまうのではないだろうか。つまり心のままに何でもしていいのなら、それをしてもしなくても本質的に何も変わらないのではないか。そうすると、本人の意志によって選択する意味も限りなく無に等しいものとならないだろうか。

 しかしそこに一つの否定命令が課されることによって、対比が生れ、与えられた自由に対する自覚が目を覚ますのである(この領域は、さらに哲学的なアプローチで展開できると思うが、意図することとずれてくるので控えたい)。よって否定命令自体は悪ではなく、善なる神が備えた善なるもので、悪はその戒めを背くことにあるのである。

 そしてエバは蛇の誘惑を受け、主なる神が課していた唯一の否定命令に背き、アダムと共に禁じられていた木の実を食べ、罪を犯した。主なる神はそれを望んでいたのだろうか。否、そうではない。主なる神はしかし、全てを知っておられた。だからこそ、罪を犯したアダムとエバに御子による贖いの計画を啓示し、動物の皮で彼らの裸の恥を覆ったのである。

創世記3:15;21

15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。 

 神の僕モーセを通して十戒を中心とした律法がイスラエルの民に与えられたが、その律法に関する定義と目的は、新約聖書において数多く啓示されている。

ローマ3:19-20

19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。

20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。 

ローマ4:15

いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない

ローマ5:13

というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである

ローマ5:20

律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた

ローマ7:7-13

7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

8 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである

9 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、

10 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。

11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。

12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである

13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。

ガラテヤ3:19;23-24

19 それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

23 しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。

24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。

Ⅰテモテ1:8-10

8 わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。

9 すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者、

10 不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。 

Ⅰヨハネ3:4(新改訳)

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。

ヤコブ2:10-11

10 なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。

11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。

 神が聖であり義であるように、神の律法、つまり聖なる神が人間に求めているものは、聖であり正しく、善いものである。それは以下の聖句によって要約されていると言える。

レビ記19:2

イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。 

 上に引用した新約聖書の聖句のうち、特に使徒パウロの言葉は十戒の十番目の戒めを引用しているので、律法の否定命令の働きを考察する上で有益である。

律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。

すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

 つまりこの否定命令「むさぼるな」は、心の中に眠っている(パウロは「死んでいる」という表現を使っている)、または隠れているあらゆる貪欲に光を当て、どこまでも追い詰める働きをするのである。

 ある人はここでこう言うかもしれない。「なぜ、眠っている獣を起こすようなことをするのだ。そっとしておけばいいではないか。」「かたちのないものは、そのまま曖昧にしておけばいいではないか。」

 しかし私たちの心のうちで今眠っていようとも、罪はやがて必ず実を結び、そして死をもたらす。人の心を知る神にはすべてが明らかなのである。

エレミヤ17:9-10

9 心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。

10 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。 

ヤコブ1:14-15

14 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。

15 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。 

ローマ6:23a

罪の支払う報酬は死である。

 アダムが神の命令に背き罪を犯したことで、罪がこの世に入り、その罪のゆえ死が支配するに至った。律法はそれを明らかにするため、そしてその罪と死の支配から解放する神の恵みの到来に備えて与えられたのである。

ローマ5:12-14;20

12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。

13 というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。

14 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。

20 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。

 十戒のそれぞれ戒めに対して、それを背いた場合の断罪、しかも死罪が啓示されているのは、そのためである。

1.あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

出エジ22:20

主のほか、他の神々に犠牲をささげる者は、断ち滅ぼされなければならない。

申命記6:13-15

13 あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない。

14 あなたがたは他の神々すなわち周囲の民の神々に従ってはならない。

15 あなたのうちにおられるあなたの神、主はねたむ神であるから、おそらく、あなたに向かって怒りを発し、地のおもてからあなたを滅ぼし去られるであろう。

2.あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。

申命記27:15

『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。 

3.あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。

レビ記24:15-16

15 あなたはまたイスラエルの人々に言いなさい、『だれでも、その神をのろう者は、その罪を負わなければならない。

16 主の名を汚す者は必ず殺されるであろう。全会衆は必ず彼を石で撃たなければならない。他国の者でも、この国に生れた者でも、主の名を汚すときは殺されなければならない。 

4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。

民数記15:32-36

32 イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た。

33 そのたきぎを集めるのを見た人々は、その人をモーセとアロン、および全会衆のもとに連れてきたが、

34 どう取り扱うべきか、まだ示しを受けていなかったので、彼を閉じ込めておいた。

35 そのとき、主はモーセに言われた、「その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で撃ち殺さなければならない」。

36 そこで、全会衆は彼を宿営の外に連れ出し、彼を石で撃ち殺し、主がモーセに命じられたようにした。 

5.あなたの父と母を敬え。

出エジ21:15;17

15 自分の父または母を撃つ者は、必ず殺されなければならない。

17 自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。 

レビ記20:9

だれでも父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼が父または母をのろったので、その血は彼に帰するであろう。 

6.あなたは殺してはならない。

出エジ21:12

人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。 

7.あなたは姦淫してはならない

レビ記20:10

人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。 

8.あなたは盗んではならない。

出エジ21:16

人をかどわかした者は、これを売っていても、なお彼の手にあっても、必ず殺されなければならない。 

申命記24:7

イスラエルの人々のうちの同胞のひとりをかどわかして、これを奴隷のようにあしらい、またはこれを売る者を見つけたならば、そのかどわかした者を殺して、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。 

(これは誘拐、そして人身売買の例である)

9.あなたは隣人について、偽証してはならない。

申命記19:15-19

15 どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。

16 もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、

17 その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。

18 その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そしてその証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、

19 あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。

10.あなたは隣人の家をむさぼってはならない。 

 興味深いことに、この戒めに関しては直接的な断罪を示す言葉が律法の中にない(もしかしたら私が知らないだけかも知らないが)。しかしそもそもこの「むさぼる」というのは、外面的な「行為・行動」だけでなく、「心の中の欲望」や「頭に浮かぶ思考」に関する戒めである。つまり律法は、実際に行動を起こす前の段階の内的悪まで光を当てるのである。

 これは主イエスの教えでも確認できる。

マタイ5:27-28

27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 

マタイ15:16-20

16 イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。

17 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。

18 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。

19 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、

20 これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。 

 

 このように、律法は神の意志であると同時に、神の断罪でもあり、その究極は律法の呪い、そして死である。神は死の支配が人間の心に宿る罪の報酬であり、その罪の性質を徹底的に知らしめるために律法を備えたのである。

 そして時が満ち、御子イエスを律法の下に遣わし、罪びとの身代わりとなって律法の呪いである十字架の死を通して、信じる者の赦しと救いをもたらす神の恵み、永遠の命を啓示されたのである。

ガラテヤ3:10-14

10 いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。

11 そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。

12 律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。

13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

14 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。 

ローマ5:20-21

20 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。

21 それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。 

律法の否定命令に関する省察(1)

出エジプト19:25;20:1-17

25 モーセは民の所に下って行って彼らに告げた。

1 神はこのすべての言葉を語って言われた。

2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。

3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。

5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、

6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。

9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。

10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

12 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。

13 あなたは殺してはならない。

14 あなたは姦淫してはならない。

15 あなたは盗んではならない。

16 あなたは隣人について、偽証してはならない。

17 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

 これはエジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、シナイ山の麓において聞いた戒めの言葉で、一般的に「モーセの十戒」と呼ばれているものである。

  1. あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
  2. あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
  3. あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
  4. 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
  5. あなたの父と母を敬え。
  6. あなたは殺してはならない。
  7. あなたは姦淫してはならない。
  8. あなたは盗んではならない。
  9. あなたは隣人について、偽証してはならない。
  10. あなたは隣人の家をむさぼってはならない。

 今回改めて考えさせられた点が、第4戒「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と第5戒「あなたの父と母を敬え。」以外は、全て否定形の命令「~してはならない」であることである。しかも第4戒も、その中で「なんのわざをもしてはならない」とあるので、肯定形の命令は厳密に言えば第5戒だけであることになる。

 神の律法の核であり、基礎である十戒の九割が否定命令によって構成されているのは、非常に意味深いことではないだろうか。肯定命令「~しなさい」と否定命令「~してはならない」の違いは、特に受け取る側の心理的作用を考えると決して小さくない。例えば、「廊下では歩きなさい」と命じるのと「廊下では走ってはならない」と命じるのでは、その要求することは同じであっても、命令を受ける側に与えるニュアンスは異なる。「歩きなさい」においては「廊下を歩く以上のスピードで移動することはできない」ことは暗示的であるが、「走ってはならない」は「廊下を歩くという必然的行動以上のスピードで移動する潜在的可能性を全面的に否定すること」を意味し、直接的である。

 しかも原文においては、日本語の文法上否定形が文尾の変化によるのとは対照的に、肯定・否定の違いが文頭における否定語の有無によるので、その否定命令のニュアンスはより強く、ダイレクトである。

 なぜ主なる神はこのような否定命令の戒めを選んだのだろうか。この点を考察するには、やはりまず原点であるエデンの園に帰る必要があるだろう。

創世記2:16-17

16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。 

 主なる神はエデンの園においてあらゆる自由をアダムに対して与えていたが、唯一「善悪を知る木からは取って食べてはならない」という否定命令を与えた。想像してみてほしい。アダムは園の中央にある一本の木、自分の目の前にある善悪を知る木から「だけ」は実を取って食べてはならない、と命じられていたのである。

 「取って食べてはならない」と命じられたら「取って食べたとしたら」と想像してしまうのは、想像力という知性を持ち合わせた人間には自然な反応ではないだろうか。そしてアダムは神の戒めを背いた場合の罰である「死」が何を意味するか、この時点で全く知らなかったのである。

 近視眼的な解釈をすれば、主なる神がこのような環境においてアダムに否定命令を下したのは不当だと思えるだろう。しかしこのエデンの啓示は、「律法の目的」と「御子キリストの義」という真理の啓示によってのみ、主なる神の真意が見出せるのである。

 

(2)へ続く

デスモンド・ドス氏の証し


映画『デズモンド・ドス―良心的兵役拒否者』*

 コメントにおいて紹介されたドキュメンタリーにとても心を打たれたので、記事でも紹介したい。「戦争とキリスト者」というテーマにおいて、このデズモンド・ドス氏が選んだあり方は、まさに「世の光」「地の塩」と言える証だと思う。

 ドキュメンタリーを観ながら、御子イエスの次の御言葉を思い出していた。

ヨハネ15:12-17

12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。

14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。

17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

 「友」どころか「敵」でしかなかった私たちの救いのために、御子イエスはご自身のいのちを捧げてくださった。

 御子は「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と友としての前提条件をつけながらも、直後に「わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」と言われた。弟子たちはその時点で御子から知らされたことを行っていたのだろうか。福音書を読む限り、弟子たちの言動は御子の友としての前提条件を満たしていると言うには程遠いものであったことがわかる。それでも御子は「私はあなたがたを友と呼んだ」と言われたのである。

 私は御子の命じたことをどれだけ実践しただろうか。しかしその一方的な愛によって、御子は私を友と呼んでくださる。

 そして私の隣人、私のことを理解しようとせず、むしろ侮蔑し、敵対心を示す隣人の救いのためにも、ご自身のいのちを捧げてくださったことを気付かせてくださるのである。

 

追記(2017/01/25):

 ちなみにドス氏がセブンスデー・アドベンティスト教会の教えに従い、土曜日を安息日として尊守していたことがドキュメンタリーの中で語られているが、その尊守が「救いを得るために功徳」として扱われない限り、新約聖書の教え「ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。日を重んじる者は、主のために重んじる。」(ローマ14:5-6a)の教えに基づき、その選択は尊重されるべきだと思う。私個人は「どの日も同じだと考える」立場をとっている。

 以下の記事のコメント欄において、安息日に関する私の立場と「安息日を重んじる」立場の方の意見交換があるので、参照までに。

王の家の窓から見下ろすミカル - an east window

サン・レーオの要塞 カリオストロとフリーメイソン - an east window

 

追記2(2017/01/26):

 第二次大戦下のイタリアでは、武器をとって戦うことに対してだけでなく、武力を行使する軍隊に属することすら拒否し、ユダヤ人と同じ強制収容所に送られたキリスト者がいたという証を聞いたことがある。信仰によってドス氏のような選択肢を取るか、または強制収容所で自分の信仰による選択の責任を取るか。各自、主から与えられた良心によるものだし、何よりも、永遠の神の計画によって主が最適な器を最適な状況で用いるのだろう。

 

追記3(2017/02/05):

 ドス氏のテーマを扱った映画を観たが、大いに考えさせられた。というのは、沖縄における戦闘のシーンで、何度も仲間の兵士が迫りくる日本兵を撃ち殺すことでドス氏が守られる場面があったからだ。ドス氏自身、兵器を全く持たず、戦闘で傷ついた仲間の兵士の命を救うために戦場を駆け巡ったその勇気は驚異的だと思うが、それを「信仰的正義」と結び付けることができるほど単純な問題ではないのではないかと思う。

 例えば自分自身では偽証しなくても、友人や同僚の偽証によって自分が間接的でも何かしら益を得るとしたら、信仰者としてやはり良心の呵責を感じるはずである。

 また不正行為で得た金銭の献金を教会は受け取らない。教会自体、その不正行為を犯してなくても、間接的にその不正を承認することになり得る、と考えるからである。

 とてもデリケートな課題である。